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神学と文学を追いかけて

福音派のイスラエル理解(1)メインストリーム編

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

福音派のイスラエル理解(1):メインストリーム編|balien|note

 今日、聖書を読む上で「イスラエル」を理解することの重要性の認識は、福音派の中で益々広まっているようです。ここではその流れに注目して、最近の福音派で主流的なイスラエル論と、ディスペンセーション主義におけるイスラエル論の両者を勉強し、比較検証を試みています。
 今回勉強しながら、両者のイスラエル論についてよくまとまっている資料が非常に少ないことが身にしみてわかりました。そこで、僭越ながら、2015年6月時点で自分が勉強した内容をシェアさせていただきたいと思い、この場にまとめてみました。論文ではないので推測の域を脱しない見解も含まれていますが、ご参考程度にお読みいただければ幸いです。
 まだまだ勉強中ですので、今後も編集・追加をしつつ、更新していきたいと思います。

 ここでは、福音派の「メインストリーム」におけるイスラエル論について、以下に示す構成でまとめてみました。

トピック
 はじめに:イスラエル民族(Israelite)について
 A.過去:イスラエルは神に選ばれた「神の民」である
 B.現在その1:新約時代の新しい「神の民」は教会である
 C.現在その2:イスラエルは今もなお「特別な民」である
 D.将来:イスラエルには特別な祝福が用意されている
 まとめ

はじめに:イスラエル民族(Israelite)について

 「Israelite」は聖書に出てくるイスラエル民族を指す言葉で、1948年に建国されたイスラエル国の国民は「Israeli」です。
 現代の「ユダヤ人」の民族的定義については多くの議論があります。ただ、聖書の「イスラエルの民」の定義については、「アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の子孫である民族」だというところで大方同意されています。
 ソロモン王国分裂後、アッシリア捕囚による「失われた十部族」とかの議論も盛んになされますが、そこまで細かく入るとややこしくなる一方なので、ここでは無視します。とりあえず、福音派の主流的な「イスラエル理解」では、「イスラエルの民=アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」と結論付けても問題ないと私は考えています。
 ちなみに、ここから先「ユダヤ人」という言葉も使用されていますが、ここでは「イスラエルの民」と同じ意味で使います。これは、組織神学ではそのように混合されて使われるケースが多いためです。また、私個人が、「ユダヤ人=イスラエルの民=アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」を聖書的なユダヤ人の定義であると考えているためもあります。

A.過去:イスラエルは神に選ばれた「神の民」である

 神はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルを通して、全人類を祝福することを選ばれた。だから、このイスラエルの民の中からイエス・キリストが出てくる必然性がある。
 最近邦訳されたN.T. ライトの『クリスチャンであるとは』(あめんどう、2015年)では、第6章でこのことが丁寧に説明されています。

B.現在その1:新約時代の新しい「神の民」は教会である

 ここが福音派の「イスラエル論」のメインポイントでしょうか。
 イスラエルは確かに全人類を祝福するための器として選ばれましたが、旧約聖書を読むと分かるように、失敗の連続でした。モーセの律法からはどんどん離れていき、遂にはメシアであるイエスを十字架にかけてしまった。
 ここから先が、福音派の中で(ディスペンセーション主義を除いたとしても)議論が分かれているところであります。全員が一致しているのは「新約時代の新しい『神の民』は教会である」という点。M.J. エリクソンは「旧約で神の民の取っている形態はイスラエル民族であり、新約では教会である……その教会はペンテコステとともに始まった」と考えています(エリクソン 2006、4:238)。この理解が一番多いんじゃないでしょうか。
 この領域を議論するときに扱われるのが「置換神学」という体系です。置換神学的なイスラエル理解では、多くの場合「今やイスラエルは教会に置き換わり、イスラエルの地位、彼らが受けるべき祝福は教会がすべて引き継いだ」と主張されます。元々は紀元2世紀の教会教父にまで遡れる発想です。今では、この置換神学は問題がある極端な考え方である、とみなされることが多いみたいです。しかし、現在の福音派イスラエル理解にもその影響は見られます。多くの福音派神学者の間では、以下の点では一致があるようです。

(1)新しい契約においては、教会が「霊のイスラエル」あるいは「真のイスラエル」である。
(2)イスラエル民族に与えられていた約束の中には、霊のイスラエルである教会において成就したものがある。

よく根拠として挙げられる聖句は、ロマ2:28-29;9:24-25(ホセ2:23)、ガラ3:29でしょうか。こう見ると、置換神学的な理解が一部引き継がれていることが分かります(というか、今の福音派の一般的イスラエル理解は、置換神学的理解を一部改善したものだ、といってもいいのではないか? というのが私の個人的見解です)。(2)の考えの故に、福音派では、旧約聖書におけるユダヤ人への祝福の預言の一部を、教会に関する預言として引用することが一般的です。
 「教会が霊的もしくは真のイスラエルである」という理解の中でも、T.F. トーランスやS. マクナイトの考え方(トーランス 2011、マクナイト 2013)は面白く、福音主義イスラエル論に大きな影響を与えているのではないかと私は考えています。彼らは、イエスの十字架の贖いによってイスラエルもまた神の民として贖われ、そして救いが異邦人までおよび、遂にユダヤ人と異邦人からなる真の神の民・教会が誕生したのだ、と旧新約聖書の物語を繋げていきます。特にマクナイトの表現は興味深いです。彼は、イエスによって「イスラエルの物語」は完成し、「教会の物語」つまり我々の物語が始まったのだ、と表現しています(マクナイト 2013)。N.T. ライトのスタンスも基本的にはこうです(というよりも、マクナイトがライトのフォロワーだと言った方が正確ですね)。また、確証はありませんが、私はこういった考え方にはカール・バルトの強い影響があるのではないかと推測しています。
 とにかく、今日では多くの場合「教会がイスラエルに置き換わった」のではなく、今や「教会がイスラエルを継承した」という表現が使われています。

C.現在その2:イスラエルは今もなお「特別な民」である

 最近の福音派イスラエル論のメインポイントその2です。「新約時代の神の民は教会であるが、イスラエルは今もなお特別な民である」という考えがだんだんと広まってきています。つまり、教会自体が「霊的イスラエル」であるが、教会の構成員の中で「イスラエル民族(あるいは肉体的or字義的イスラエル)」という区分がなくなったわけではないし、またイスラエル民族は未だ特別な民であることは変わりない、と。特に、先に挙げたバルトやトーランスはそう主張します。バルトは「ユダヤ人は、旧新約聖書によると初めから示されているような意味において、疑いもなく今日に至るまで、神の選び給うた民族である」と言っています(バルト 1975)。トーランスに至っては、聖書を正しく理解するためにはイスラエルの力が必要であり、そこに現在のイスラエル民族の特別な役割があるのだ、とまで主張して、メシアニック・ジュー(イエスをメシアと信じるユダヤ人)に特別な注目を向けていました(トーランス 2011)。
 先のバルトやトーランスの主張に、G.E. ラッドやエリクソンといった神学者の考えも合わせて一般的に一致している見解をまとめてみると、次のようになるでしょうか。新しい契約がもたらされた今、その契約の担い手となる「神の民」は、ユダヤ人の信仰者と異邦人の信仰者から成る教会である。しかし、ユダヤ人が民族として神に選ばれたという事実は今も消えていない。イスラエル民族は今も特別な民のままである。ただし、イスラエルの民族としての特別な選びはあるけれど、彼らが救われるにはイエス・キリストを信じ、キリストのみからだなる教会に加わる必要がある。
 ホロコーストの反省……というか反動から、「ユダヤ人はキリストを信じずとも、旧約によって既に救われている」という「二契約神学」という考え方が出てきました。しかし、これは間違いであって、ユダヤ人であれどキリストを信じなければ救われないのだ、ということです。
 では「イスラエルは今なお特別な民である」とはどういう意味で特別なのか? これが、後述する「イスラエルには特別な祝福が用意されている」というところへ繋がっていきます。また、現代の再建されたイスラエル国家の理解にも関係してきます。イスラエル国家再建の理解については、大まかに(1)歴史的偶然、(2)聖書に預言されていないがイスラエルが特別な民であることを示すしるし、(3)聖書預言の成就、と立場が分けられると思います。福音派で多い立場は(1)と(2)で、(3)は現在ではごく少数派といえるでしょう。ラッドは、イスラエル国家再建自体が神の計画の一部だったとしても、聖書には書かれていない、と主張します(ラッド 2015)。ただし、イスラエルが一つの民族として未だに保持されていることは、彼らが特別な民であるしるしだ、とも言っています。

D.将来:イスラエルには特別な祝福が用意されている

 ここも議論がある領域です。ただ、イスラエルには民族として特別な約束が与えられていて、それは将来、終末の時に成就するのだ、という点では広く同意が見られます。根拠としてよく挙げられるのは、ロマ9-11章、特に「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです」という教えを含む、11章26節です。これが文字通り「イスラエル民族全員」を指すのか、「イスラエル民族の大部分」を指すのかは議論が分かれています。ただし、(ここは重要なので繰り返し強調しますが、)多くの場合「イスラエルはみな救われる」ということは、「特別な〈選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民〉としてのイスラエル民族の回復」としては理解されません。それは、「イスラエルはみな『真のイスラエル』である教会に加わる」という意味で理解されています。
 その他に、「イエス・キリストが地上に再臨された後、千年間(もしくは非常に長い期間)の地上的王国がもたらされる」と信じる「千年期前再臨主義」に立つ者の中には、千年王国の存在意義の中に「教会で成就しなかったユダヤ人への祝福が実現すること」を入れる者もいます。ラッドは「千年期前再臨主義」でありながら、千年王国におけるユダヤ人の特別な地位をいっさい認めません。バズウェルやエリクソンは、ある程度認めています。

まとめ

 結論としては、現在の福音派において主流なイスラエル理解は、以下のようにまとめることができるのかなと思います。

 (1)イスラエルは神に選ばれた特別な民である。
 (2)新しい契約以降、「霊のイスラエル」は教会である。
 (3)しかしイスラエルは今も特別な民だから、将来特別な祝福が用意されている。

 調べていて感じたのは、福音派イスラエル理解の重要性が認識されつつも、そのイスラエル論は思った以上に多様性があるな、ということでした。その理由のひとつは、イスラエル理解の重要性は認識されていても、組織神学におけるいち分野としてイスラエル論を発展させていく必要性までは至っていないことにあるのではないか、と推測しています。
 近年の福音派においてイスラエルの重要性が認識されつつある一番の理由は、「イエス・キリストイスラエルの民から出てこられたから」というここに尽きると思います。イエスはイスラエルの民から出られ、旧約聖書の時代から続いてきたイスラエルの伝統の中で生きられました。そのことが聖書を理解する上で非常に重要なんだという認識が広まってきたからこそ、「もっとイスラエルについて学ぼう」という動きが目立ってきているのではないでしょうか。実際に、イスラエルの立ち位置を明確にしていかないと聖書を理解することは難しいので、これはとても良い流れだと感じています。そして、イスラエルについて考えていけば、自ずと現在のイスラエル(民族および国家)の立ち位置についても考えざるを得なくなってきます。前段で触れた「組織神学におけるいち分野としてイスラエル論を発展させていく必要性」も、その段階から、徐々に認識され始めるのではないかと思います。
 神学の専門家じゃない信徒の間でも、これから活発に議論されるようになってほしいという期待を込めて。

参考文献

エリクソン、ミラード・J『キリスト教神学』安黒務、伊藤淑美、森谷正志共訳、宇田進監修、全4巻(いのちのことば社、2003–2006年)
トーランス、トーマス・F『キリストの仲保』芳賀力,岩本龍弘共訳(キリスト新聞社,2011年)
バルト、カール「ユダヤ人問題とそのキリスト教の応答」雨宮栄一訳『カール・バルト著作集7』(新教出版、1975年)283–9頁
マクナイト、スコット『福音の再発見─なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか』中村佐知訳(キリスト新聞社、2013年)
ライト、N・T『クリスチャンであるとは─N・T・ライトによるキリスト教入門』上沼昌雄訳(あめんどう、2015年)
ラッド、ジョージ・エルドン『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)