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福音派のイスラエル理解(2)ディスペンセーション主義編

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

福音派のイスラエル理解(2):ディスペンセーション主義編|balien|note

 福音派イスラエル理解の中でも、比較的一致が見られるディスペンセーション主義的なイスラエル論についてまとめてみました。
 「ディスペンセーション主義編」などと銘打ってしまいましたが、「ディスペンセーション主義」という聖書解釈体系を拒絶する人々の中でも、以下で紹介するイスラエル論には同意している場合が見られます(ペンテコステ系やホーリネス系の一部など)。しかし、以下のようなイスラエル論を体系的に発展させてきたのはディスペンセーション主義であると言えるため、あえてこのようなタイトルにしてみました。
 まず初めにディスペンセーション主義について簡単に紹介した後、先の「メインストリーム編」で示した各項目について、この立場における考え方を紹介していきます。

トピック

はじめに:ディスペンセーション主義(経綸主義)について
A.過去:イスラエルは神に選ばれた「神の民」である
B.現在その1:新約時代の新しい「神の民」は教会である
ディスペンセーション主義における教会理解
C.現在その2:イスラエルは今もなお「特別な民」である
D.将来:イスラエルは回復される
まとめ

はじめに:ディスペンセーション主義(経綸主義)について

 ディスペンセーション主義(経綸主義)についてはいくつかの定義が可能ですが、ひとつ確実に言えるのは、「ディスペンセーション主義とは神学体系ではなく、ひとつの聖書解釈体系(法)である」ということです。それではこの立場がどのような原則を有した聖書解釈法であるかというと、C.C. ライリーは「ディスペンセーション主義のsine qua non(必須条件)」として以下の3点を挙げています(Ryrie 1995: 45-48)。

  1. イスラエルと教会との区別(個別の「神の民」としてのイスラエルと教会)
  2. その根拠としての一貫した字義的解釈および歴史的・文法的解釈
  3. 神の計画の究極的目的を「神の栄光が現されること」と見る

「一貫した字義的解釈」が本当に「イスラエルと教会の区別」に繋がるのか、というところで盛んに議論が行われていますが(ライト 2015:270-279参照)、ディスペンセーション主義者はそう考えている、ということです。ディスペンセーション主義というと、「聖書における7つのディスペンセーション(経綸;統治原則;あるいは時代)の区分」という面がクローズアップされます。確かにそれも重要な構成要素ですが、ディスペンセーション主義に立つ神学者の多くは、この立場の特徴は先にライリーが挙げた3つであることに同意しています。

A.過去:イスラエルは神に選ばれた「神の民」である

 イスラエルが選ばれた目的とか、モーセの律法との関係とか、諸契約の意味とか、細かい(けど実は結構大切な)ところで意見の相違はありますが、「イスラエルは神に選ばれた民である」という点は疑いようがありません。

B.現在その1:新約時代の新しい「神の民」は教会である

 この点について全面的同意はできませんが、部分的には同意しています。まず「教会がペンテコステの日とともに始まった、ユダヤ人信者と異邦人信者から成る神の民である」という点では同意することができます。しかし、「教会は霊的イスラエル or 真のイスラエルである」という点は同意しません。
 教会を「霊的イスラエル」を呼ぶ根拠として第一に挙げられるロマ2:28-29(外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、……かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり……)は、教会に関する言及としては理解されません。ローマ書2章は「異邦人もユダヤ人も神の前には罪人であり、そのままではさばきを免れない」ということを主張していて、まず異邦人に関する言及、続いてユダヤ人に関する言及という論理構成となっています。2:28-29は「ユダヤ人の中でも、信仰のあるユダヤ人こそまことのユダヤ人である」という主張に過ぎず、「字義的イスラエルではなく、教会こそまことのイスラエルである」という意味に解釈することはできないと考えます。
 第二に、ガラ3:29(もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです)もまた、「教会は新しいイスラエルである」という主張としては理解されません。ガラテヤ書のこの前後の文脈では「アブラハムは律法によってではなく信仰と恵みによって義と認められた」ということが教えられています。ここから確実に読み取れるのは「パウロは『アブラハムの子孫』を『アブラハムの信仰に倣う者』という意味で使っている」ということです(ロマ4:16参照)。ここから即「アブラハムの信仰に倣う教会は新しいイスラエルだ」と言うことはできません。A.G. フルクテンバウムは「物理的な次元でも、アブラハムの子孫がすべてユダヤ人なのではない。アラブ人はユダヤ人と同じくアブラハムの子孫だが、それでユダヤ人となるわけではない。物理的な次元で言えることは、霊的次元でも言える。信仰によってアブラハムの子孫となっても、それだけでユダヤ人になるわけではない」と主張します(フルクテンバウム 2014)。
 他の聖句に関しても議論はありますが、要約すると「教会とイスラエルとは別個の存在であり、教会をイスラエルと呼ぶことは聖書的ではない」という結論になるかと思います。このような教会-イスラエル理解に対して「それでは、神の民が2つある、ということになりおかしいではないか!」という激しい反発が起こったこと、しかしロマ11:26のように聖書では明らかにイスラエル民族の特別性の持続が教えられていること、この2点の間で調和を保つ試みが、「メインストリーム編」で紹介したような福音派で構築されてきている教会-イスラエル理解の変数のひとつなのだと考えられます。
 今の時代においてユダヤ人信者(メシアニック・ジュー)は「教会の構成員」であって教会から独立した存在ではない、ということはディスペンセーション主義においても認められています。しかし福音派の主流的イスラエル理解とは、「ユダヤ人信者はメシアのからだ(教会)の中で異邦人信者とは異なる役割がある」とする点で相違が見られます(ただし、ディスペンセーション主義者ではなくとも、これに近い主張は見られます)。多くの場合「すべての信者が霊的賜物を持っていてもそれぞれ異なった役割があるように、ユダヤ人信者と異邦人信者はキリストにあって一体であるが、同一の存在ではない」という風な表現で教えられています。
 現代および将来のイスラエルの民の特別性については、C.およびD.で取り上げます。また、ディスペンセーション主義における教会-イスラエル理解では「神の奥義としての教会」という考えがとても重要なのですが、議論が複雑になるため、項を改めて扱います。

ディスペンセーション主義における教会理解

 ここで、ディスペンセーション主義における教会理解を再考する必要があります。B.で述べたようにイスラエルと教会を一貫して区別するこの立場に対しては、「神の民はひとつであるから、現在と将来のイスラエルを教会と区別することは矛盾している」という批判がなされます。では、ディスペンセーション主義が一般的に「神の民」をどのように理解しているか、以下に示します。
 確かに、神を信じた信者はみな神の民だ、という点で神の民はひとつです。アブラハム・イサク以前の信仰者も、イスラエル人の信仰者も、旧約時代の異邦人信者も、ペンテコステの日以降の異邦人信者も、みなそういう意味でひとつの神の民です。しかし、その「神の民」の中には多様性が見られます。イスラエルが特別な民として選ばれて以降、それ以前の信者までもがイスラエルに組み込まれたわけではありません。いや、イスラエルの選び以降も、異邦人は異邦人のまま救われたのです。ルツは確かにイスラエル共同体に入りましたが、彼女はモアブ人のままです。ヨナの時代に悔い改めたニネベの人々は、イスラエル共同体にすら入っていませんが、やはり神を信じた神の民です。同様に、ペンテコステの日に教会が生まれたからといって、それ以前の信者が教会に組み込まれたと考える必要はありません。ノアやアブラハムたちイスラエル登場以前の信者は、そのままで神の民です。イスラエルの中の信者は、そのままで神の民です。悔い改めたニネベ人は、そのままで神の民です。教会を構成するユダヤ人信者は「メシアのからだの中のユダヤ人」として、異邦人信者は「メシアのからだの中の異邦人」として神の民です。
 次に、「神の奥義としての教会」について考えてみます。ディスペンセーション主義では「多様な神の民」という考えと教会論の調和を保つために、この考え方を非常に強調します。そのため、「神の民の唯一性」を強調する人々からは「教会を神の計画の中の単なる挿入句、神の急な思いつきによる偶然の産物としか見ていない」と批判されます。まず整理しておきたいのは、「教会という『神の民』は『ユダヤ人信者と異邦人信者からなるメシアのからだ』である」という教えは、新約聖書で初めて啓示された奥義(エペ2:11-16;3:3)だということです。このことから、ディスペンセーション主義では「旧約聖書に教会は登場しないし預言されていない」と考えます(福音派全体では議論が分かれています)。また、旧約聖書にはメシアの再臨も含む詳細な終末預言が含まれていますが、そこに「教会」という単語は登場しません。新約のヨハネの黙示録においても、ラッドも認めるように、地上に下される終末の裁きに関する預言には「教会」という単語が登場しません。そこで、ディスペンセーション主義では「教会は、地上に下る裁きの時(大患難時代)の前に、携挙の時(1テサ4:16-18)に天に挙げられるのだ」と主張します。つまり、この立場における教会とは「ペンテコステの日以降、携挙までにイエスをメシアとして信じた神の民」であるわけです。この教会は、メシアのからだである、またメシアの花嫁である、といった点で、それ以前・以降の神の民とは異なる特徴を備えた民だと理解されます。
 ただし、だからといって「教会は神の思いつきの産物だ」と主張しているわけではありません。確かに一部のディスペンセーション主義者は、「挿入句としての教会」という概念を非常に強調します。これは個人的な考えとなってしまいますが、私は「挿入句としての教会」という表現が完全に誤りだとは思いませんが、あまり好きではありません。なので、「神の奥義としての教会」という表現を好んで使っています。教会は人の目から見れば確かに挿入句のように見えますが、しかし神の永遠のご計画の一部であり、その存在が新約時代まで啓示されなかったに過ぎません。その点では、多くのディスペンセーション主義者も同意してくれると思います。
 この立場では、「教会」が神のご計画の中でのある部分における神の民である、という理解は、旧新約全体を通した「神の民」理解と比べても矛盾しない、と考えられています。たとえば「人類にユダヤ人・異邦人という区別ができる前の信者」は、イスラエル登場までの「神の民」です。また、メシアのからだに属していない(旧約時代の)ユダヤ人信者は、イスラエルの登場から教会登場までの「神の民」です。したがって、教会がペンテコステの日から携挙までの「神の民」だとしても矛盾は生じない、と考えられます。ただ問題なのは、「教会が天に取り上げられて以降も人はイエスを信じて救われるのに、イエスのみからだに属すことにならないとは、これ如何に」という点についてです。この問題に踏み込むと聖霊論と救済論にまたがった複雑な議論が必要なので、ここではとりあえず置いておきます。

C.現在その2:イスラエルは今もなお「特別な民」である

 フルクテンバウムの主張で見たように、ディスペンセーション主義者は「現在、教会の中でもユダヤ人信者には固有の役割がある」と主張しています。ユダヤ人信者は、トーランス(彼はディスペンセーション主義者ではありませんが)が言うように「聖書を正しく理解するために異邦人信者を助ける」という役割を担っているのだ、と主張されることもあります(トーランス 2011)。また、ディスペンセーション主義者は現代のユダヤ人信者を、現代の「イスラエルの残れる者(レムナント)」として位置付けます。旧約聖書の時代よりイスラエルの中でもまことの信仰者は少数の「レムナント」だけです(ロマ11:1-7)。そして、イザ1:9や65:8を引用して、「イスラエル民族が生き残れているのはレムナントのおかげである」と主張します(フルクテンバウム 2014)。したがって、現代のユダヤ人信者には、「イスラエル民族を存続させる」という役割もあるものと考えられています。

 ここで注意したいのですが、ユダヤ人信者に特別な役割があると考えているからといって、全てのディスペンセーション主義者が「ユダヤ人信者は異邦人信者に優る存在だ」と主張しているわけではありません。むしろほとんどのディスペンセーション主義者は、バランスを保つために「この区別は役割の違いであり、優劣の問題ではない」と強調しています。
 さて、現代のイスラエル国に関しては、「メインストリーム編」では(1)歴史的偶然、(2)聖書に預言されていないがイスラエルが特別な民であることを示すしるし、(3)聖書預言の成就、と見解が分かれていることを示しました。ディスペンセーション主義では、ほとんどの場合(3)の立場であり、ごく少数の人々が(2)の立場に立っています。ディスペンセーション主義では、前述の通り旧約聖書の預言は字義通りイスラエルに向けられたものであると考えています。そのため、旧約聖書で約束されているイスラエルへの祝福のうち、歴史的に成就したことがないものについては、将来成就するものだと考えます。ですので、現代のイスラエルについても預言と照らし合わせて考えようと試みます。
 J.F. ウォルヴォードはシオニズム勃興に端を発するイスラエル国家再建を、「イスラエルの最終的な帰還の始まり」として解釈しました(Walvoord 1999[1990])。彼は出エジプトによる約束の地への帰還を「第一の帰還」、バビロン捕囚からの帰還を「第二の帰還」とし、20世紀には最終的な「第三の帰還」が始まったのだと考えました。しかし現在多くのディスペンセーション主義者は、イスラエル国家再建は聖書預言の成就であるが、イスラエル民族の最終的な回復は将来起こる別の出来事であると考えています。そうした立場の人々にとっては、イスラエル国家再建は「第三の帰還」だが、将来最終的な回復である「第四の帰還」があるということになります(Fruchtenbaum 1993)。
 イスラエル再建が預言の成就であることの聖書的根拠としては、よくエゼ20:33-38;22:17-22、イザ11:11-12といった箇所が示され、「信仰のうちに起こる最終的な帰還」の前に、「不信仰のうちに起こる帰還」があるのだという主張がなされます(フルクテンバウム 2014)。この「不信仰のうちに起こる帰還」の成就が現在のイスラエル国家である、というわけです。
 「預言成就としてのイスラエル再建」は、多くのディスペンセーション主義者にとって重要な意味を持っています。なぜならば、不信仰のうちに帰還が起こったことによって大患難時代に下される裁きの準備がまた一歩前進したことになるからです(ゼパ2:1-2)。したがって、この歴史的出来事がディスペンセーション主義終末論を形成する上でも不可欠な要素となっているわけです。
 最後に、現在の中東情勢(あるいは世界情勢)を何から何まで聖書預言に照らし合わせて考える「新聞的預言釈義」について言及する必要があるでしょう。多くのディスペンセーション主義者は確かにイスラエル国家を預言成就と考えますが、それを新聞的釈義を支持する根拠とは考えていません。H.L. リンゼイが『今は亡き大いなる地球』で示したような新聞的釈義に基づく熱中は、エリクソンが指摘するように「誤った終末論熱中」です(エリクソン 2006、4:353-354)。このような釈義には、現時点での世界情勢と聖書預言との関連性に固執する余り、預言解釈を現状に合わせて歪めてしまう危険性があります。
 なお、ディスペンセーション主義のイスラエル国家に関する見方を論じ始めると、シオニズムに対する神学的評価という問題へ発展していきます。これは重要ですが非常に大きな問題であるため、ここで論じることはしません。

D.将来:イスラエルは回復される

 ディスペンセーション主義では基本的に、メシアの地上再臨のとき、その時点で生き残っているユダヤ人は全員救われると考えています(ゼカ12:9-10、ロマ11:26)。といっても彼らが業によって救われると考えるのではなく、あくまでイエスをメシアとして受け入れることによって救われます。しかし、それは福音派の多くの人々が考えるような「終末のとき、イスラエルがみな教会に加わる」という意味ではありません。イスラエルが真の神の民として相応しい状態に回復されるという、神の約束の成就として考えます。
 この立場では、メシアの再臨に関する終末論の立場としては「大患難前携挙、千年期前の再臨」という考えで基本的に一致しています(ただし、「漸進的ディスペンセーション主義」という立場では「大患難前携挙」を必須として考えていません)。つまり、終末論を「いつかの時点で教会の信者が天に挙げられた後、地上に裁きが下される大患難時代が始まり、その終わりにメシアが地上に戻ってきて千年間の地上的王国を建てられる」という時系列で理解しています。なお、一部の人々は教会の携挙を「大患難時代」開始の条件として考えていますが、多くのディスペンセーション主義者はそれに同意していません。
 さて、大患難時代中も当然福音宣教は続けられていくわけですが、教会が天に挙げられて後の宣教はどうなるのでしょうか。ディスペンセーション主義では、イスラエルの中で多くの信仰者が起こされ(ロマ11:26の成就とは異なるものと考えられる)、大患難時代中、地上における福音宣教の中核を担っていくと考えられています(黙7:4-8)。
 そして、この立場では、千年王国旧約聖書に預言されていた「メシア的王国」の文字通りの成就であり、アブラハム、イサク、ヤコブに約束されていたが実現しなかった霊的・物質的祝福の両者がすべて成就するのだと主張されます(Ryrie 1995: 64-65、Fruchtenbaum 1993: 563)。
 こうして見ると、将来のイスラエルの祝福については、「将来地上に実現する神の国において、ユダヤ人に対して特別な地位・祝福が与えられる」という部分では、バズウェルやエリクソンなど、一部の非ディスペンセーション主義かつ千年期前再臨主義の神学者と見解を共有していると言うこともできます。

まとめ

 ディスペンセーション主義が発展させてきたイスラエル論についてこれまで述べてきましたが、以下のように要約することができると思います。

  1. イスラエルは神に選ばれた特別な民である。
  2. 教会はペンテコステの日以降、携挙までにイエスをメシアと信じたユダヤ人信者と異邦人信者から構成される、メシアのからだなる神の民である。
  3. 現在、メシアのからだ(教会)を構成するユダヤ人信者には独自の役割がある。
  4. 現在のイスラエル国家は旧約預言の成就である。
  5. 将来、メシア的王国(千年王国)ではイスラエルに特別な祝福が与えられる。

 以上のことをまとめながら、ディスペンセーション主義的イスラエル論の今後の課題としては、以下のことが言えるのではないかと考えました。

  1. ユダヤ人信者の強調の余り、反アラブ主義のような極端に走らないこと。
  2. 教会–イスラエル理解を深める上での、「アブラハムの子孫」という用語の使われ方について。パウロ時代のパリサイ的背景における「アブラハムの子孫」の使用法とも比較しながら、より理論を強固にしていく必要がある。
  3. 教会の「挿入句」としての表現を過度に推し進めないこと。
  4. 新聞的預言解釈に陥らないこと。
  5. クリスチャン・シオニズムについての神学的検証をより進めていくこと。

 また、ディスペンセーション主義自体、聖書解釈体系としてはもう少し基盤を強固なものとしていく必要があるというのが個人的な考えです。しかし、内容について同意が得られるかどうかはともかくとして、イスラエルの過去〜将来まで扱った「イスラエル論」としては、ディスペンセーション主義的イスラエル論は最も発達し、体系化されているものだと言えるでしょう。

参考文献

Fruchtenbaum, Arnold G., Israelology: The Missing Link in Systematic Theology (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993)
Ryrie, Charles C., Dispensationalism (Chicago: Moody Publishers, 1995)
Walvoord, John F., Every Prophecy of the Bible: Clear Explanations for Uncertain Times (Colorado Springs: Chariot Victor Publishings, 1999[1990])
エリクソン、ミラード・J『キリスト教神学』安黒務、伊藤淑美、森谷正志共訳、宇田進監修、全4巻(いのちのことば社、2003-2006年)
フルクテンバウム、アーノルド『ヘブル的キリスト教入門』佐野剛史訳、(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、電子書籍、2014年)
ライト、N・T『クリスチャンであるとは─N・T・ライトによるキリスト教入門』上沼昌雄訳(あめんどう、2015年)
リンゼイ、ハル『今は亡き大いなる地球─核戦争を熱望する人々の正典』越智道雄訳(徳間書店、1990年)