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いちクリスチャンとして、日本の安全保障を(ちょっとだけ)考える

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

いちクリスチャンとして、日本の安全保障を(ちょっとだけ)考える|balien|note

 最近は安保法案関連で、キリスト教界でも大騒ぎである。特に目立つのは安保法案反対の訴えであり、「無関心は罪だ」という言論も強まっているように思える。彼らが言葉には出さずとも、「(反対のために)何の行動も起こさないのは罪だ」というような認識も強まっているのだろう。
 ここでは、自分が(いちクリスチャンとして)日本の安全保障についてどう考えているのか、またそこでクリスチャンが果たすべき役割は何なのかを書いてみた。メモのようなものであって、まとまりはないが。

 クリスチャンの中でも、あるいはそうではなくとも、法案反対派の中でよく見られるのは「戦争法案反対」という叫びであり、それは法案の内容に関する反対声明であると考えられる。しかし、立憲主義に立つ我が国においてまず関心が向けられるべきは、安倍政権による強行採決と、あくまで法案を押し通そうとする姿勢に対してである。まず、これが立憲主義に抵触しないかどうかを問わなければならない。そして、本当に法案を撤回させたいのならば、これをテーマにして叫んでいくべきだろう。
 確かに、法案の内容についての議論でも「憲法9条」が鍵となり、憲法に関する問題とリンクしてくる部分はある。しかし、法案の成立における憲法の果たす役割の問題と、安全保障における憲法との関わり合いに関する問題とは、あくまで別問題として扱われるべきである。この点において、反対派において「戦争法案反対」と叫ぶだけのグループは、思慮が足りないのではないかと思わざるを得ない。

 しつこく繰り返すが、法案の内容——というよりも我が国の安全保障に関する議論は、立憲主義における安倍内閣の法案強行採決とは別の問題とされるべきである。
 私は、現行の安保法案を成立させることについては反対である。安倍内閣が提示した集団的自衛権の行使が考えられるケースについては、いささか現実からかけ離れているように思える(特にホルムス海峡における機雷問題など)。したがって、この法案については議論が不十分すぎると考えている。
 しかしながら、我が国の安全保障について、従来のままでは通用しなくなるだろうとも考えている。米国の国力・影響力が低下していると思われている中で、米国との連携だけを考えた安全保障体制では、現在の国際情勢では通用しないだろう。また、自衛隊国防軍に発展させて我が国独自の軍事力だけで国防を担うという考えも、当然非現実的である。
 私は、我が国の安全保障体制については、大まかに二通りの選択肢があると考えている。

  1. 米国以外にも強い同盟関係を結ぶことができる国と親交を深め、そういった国々との連携を前提とした安全保障体制。
  2. 現行憲法9条の徹底遵守を武器とし、「平和国家」として国際社会で台頭していくことを目標とした安全保障体制。

 二通りといっても、第一の選択肢において現行憲法9条を維持していく可能性もあり得るし、第二の選択肢において他国と同盟関係を結ぶことも考えられる。第二の選択肢における憲法9条の遵守方法については、いくつかの可能性があるだろう(その可能性については、後ほど触れる)。
 いずれにしても、現状の安全保障体制からの何かしらの転換がされるべきであることは確かである。

 第一の選択肢を取った場合のことを考える。むしろ、安倍首相はこの選択肢に近い体制を敷いていくために、「積極的平和外交」を展開しているように思える。たとえば、安倍内閣は発足当初よりロシアとの外交関係を重視してきた。ウクライナ問題を契機に関係は停滞しているように思えるが、欧米諸国に比べれば溝は深まっていない。安倍内閣の動き方から見るに、ロシアとは良好な関係を維持し続けたいということが本音だろう。また、現在の戦争において重点となるサイバー技術については、イスラエルと提携を結んでいくことが、昨年ネタニヤフ首相が訪日した際に明言された。イスラエルとは諜報活動に関しても手を結んでいくことが考えられる。以上のような例からも、安倍首相が、米国以外にも(安全保障面で)強力なパートナーシップを結ぶことができる相手を模索して外交を展開していることがわかる。もちろん、現行の安保法案を見るに、最重要視されているのは米国との関係であることも明らかである。しかし、当時すでに米国との関係に亀裂が入り始めていたイスラエルと手を結んだり、またロシアとの関係も維持し続けているということは、安倍内閣が米国以外との強力な同盟関係を望んでいることを意味しているのではないだろうか。
 こういった、米国を含む複数国とのパートナーシップを前提とした安全保障体制を考えていく上では、我が国も軍事力を行使せざるを得なくなる可能性が非常に高い。他国との関係においてただ「守ってもらう」だけの関係を築くのに見合う、我が国から出すことができるメリットはあるだろうか。そういう意味では、(ある意味では米国との同盟関係にある従来通り)集団的自衛権の行使は避けられない。
 また、この新たな同盟関係を軸とした安全保障体制は、新たな敵を作らざるを得ない。現在、安倍内閣は中国をメインの脅威として(それも仮想敵国のように扱って)安保法案の妥当性を訴えているようだが、中国が現実的にすぐ脅威になり得るかというと疑問が生じる。中国は膨大な内政問題を抱えており、また、国際社会において台頭していこうとする中で、力による他国への侵害というロシアと同じような過ちを犯すかどうかは疑わしい(ただし、可能性としては排除することができないため、中国の脅威を可能性の一つとして考えていくことは当然重要である)。
 むしろ、今後は新たな同盟関係によって作られる「敵」を考えなければならない。たとえば仮にロシアと強固な同盟関係を築いていくとなれば、欧米諸国からのある程度の反発は避けられないだろう。国防上の脅威としては、「〜スタン」といった旧ソ連圏のイスラーム系国内に存在する、イスラーム原理主義過激派組織からのテロ攻撃を考えていく必要があるだろう。
 これも仮にだが、このままイスラエルとの同盟関係が堅められたらどうなるか。まず、イスラエルとの強固なパートナーシップを築く時点で、アラブ諸国からの反発は避けられない。また、イスラエルの姿勢に対してかなり否定的なEU諸国、あるいはこのままイスラエルとの亀裂が深まり続ければ、米国からのある程度の反発も避けられない。そして、かつて日本が強く望んでいたイランとの協力関係は非現実的になると考えたほうがいいだろう。
 現在の国際情勢がこのまましばらくは延長されていくとすれば、ロシア、イスラエル、あるいは欧州における先進国と、どの国と新たに同盟関係を結ぶにしろ、脅威となるのは「イスラーム国(IS)」の存在である。ロシアについては、IS内で諜報活動を展開している可能性が高いことが明らかになっている(以前、ロシアのスパイだとされる人物の処刑がISによって発表された)。また先ごろ、ガザ地区におけるIS系組織がイスラエルに対する敵意をこれまで以上に明確に示したばかりである。EU諸国については、多くの国が元からISの攻撃対象となっていることは周知の事実だ。現在の我が国もISに対する抗戦を明言しているため、現時点でもISが脅威の一つであることは変わりない。しかし、今後ISの攻撃対象である国とパートナーシップを結んでいくなら、その脅威度はさらに高まっていくものと考えられる。
 以上のような理由から、この(我が国の安全保障に関する)第一の選択肢を考えていく場合、現行憲法9条を維持したまま安保体制を取ることができるかどうか、丁寧に吟味し、議論を重ねていく必要があるだろう。

 次に、第二の選択肢を取った場合について考える。現在の国際社会で憲法9条の徹底遵守をしていこうとする場合、いくつかの可能性があり得るだろう。たとえば、スイスのような永世中立国となること。その場合でも、スイスは自国を自国で守るというリスクを背負っている。我が国もまた、自国民によって自国を守るというリスクを背負う必要がある。他には、現状の遵守体制を維持し続ける可能性もあり得る(しかし、そうなれば、現状が憲法9条を遵守しているのかどうかという議論が起こるのは必至である)。しかし、9条遵守という観点から、集団的自衛権の行使について、軍事力行使以外の方法を現実的かつ体系的に考えていかなければならない。究極的には、万が一我が国が攻め込まれても非抵抗を貫き通すという選択肢もある。一部の「憲法9条徹底遵守」論者はこのような選択肢を主張する。
 いずれにしろ、第二の選択肢を取った場合でも、我が国が戦争当事者にはならないという非現実的な考え方は捨て去られねばならない。21世紀に入ってからの国際情勢の目まぐるしい変化、また我が国の近辺では中国や韓国、北朝鮮における状況の変化を考えると、今後我が国が戦争や武力を伴う紛争に全く関わることがないということはあり得ないだろう。憲法9条の徹底遵守を実行していくにしても、我が国と「戦争」との関係についての議論は避けられないのである。
 もし一部の「憲法9条徹底遵守」論者が言うように非抵抗に徹するのだとしたら、彼らがいうような「戦争の悲惨さ」を別の角度から見ていかなければならない。彼らの多くは戦争の悲惨さを例に出し、「戦争はこのような悲惨を生み出すから、戦争を廃絶せねばならない」と訴える。しかし、非抵抗を貫くのなら、自分たちがその悲惨さの真っ只中に置かれるのだという視点から考えなければならない。歴史から戦争の悲惨さを学んだ者であれば、「無抵抗で侵略国の支配を受け入れれば、それほど酷いことにはならない」という主張がいかに幻想であるかがわかるだろう。無抵抗であっても、侵略軍によってジェノサイドが行われる可能性は大いにある。
 もしも一部の人々が主張するように徹底無抵抗を「憲法9条の精神」として貫くのだとしたら、国民全体が、国土への攻撃による損害、さらには上陸された際のジェノサイドまで覚悟しなければならないのである。
 ここで、「戦争にならないような外交努力をしていく」という前提をもってして議論を終えようとするならば、議論としては不十分極まりない。外交による戦争回避は国家として当然の努力であるが、危機管理の上では、我が国が戦争状態に置かれる可能性が少しでもあるならば、それを排除してはならない。したがって、我が国全土が爆撃やジェノサイドのような戦争の悲惨さに置かれるということは可能性として存在し続け、議論において無視することはできなくなるのである。

 私個人としては、第二の選択肢、「現行憲法9条の徹底遵守を武器とし、『平和国家』として国際社会で台頭していくことを前提とした安全保障体制」を考えていくことが、理想論として望ましいと考えている。しかし、それはあくまで理想論であり、民主主義国家としての我が国における実現可能性は限りなく低いように思える。
 現実的であるのは第一の選択肢を取ることなのだろうが、どの国家とパートナーシップを結んでいくかの見極めもまた非常に困難である。米国との同盟関係を維持しながら、例示したようなロシアとイスラエルとの関係を深めていくことは、不可能ではないが難しい。どの国家と同盟関係を結ぶにしても、まるで綱渡りのように、国際情勢を見極めながら歩んでいく覚悟が必要だ。さらにはその綱自体が、常に動き続けているのである。この綱渡りに失敗すれば、我が国の国際的地位は底辺まで失墜していくだろう。しかしもしも成功し、しかも軍事力ではない外交力を武器とできるようになれば、我が国は国際社会で「調停国家」のような独自の地位を築き上げることが可能なのではないだろうか。そうなれば、憲法9条を遵守しながらの安保体制も不可能ではないかもしれない。それもまた、一種の理想論ではあるのだが……

 安保法案反対派の中でもただ「戦争法案反対!」を叫ぶだけの人々が、「常に変化し続ける国際情勢における我が国の安全保障体制」についてどれほど考えることができているだろうか。特に、我々クリスチャンはそういった問題と聖書的価値観といったものを組み合わせて、ノンクリスチャンの場合よりも複雑に考えていかなければならない。そこで、どれほどの議論がなされているのだろうか。  現状のままでは、クリスチャンの発言力・影響力が増していくことはないだろう。我々クリスチャンに何よりも必要なのは、物事を(国際社会において)「常識的」に考えることができるために、「教養」を学ぶことである。そして、国際社会における「常識」の中で、いかに聖書的価値観を守りながら生きていくか。さらに、それがどれほど我が国の国益になるのか。そういった問題を考えながら発言していくことが、2010年代も半ばを過ぎようとしている今、我が国のクリスチャンに求められていることなのである。