軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

福音主義神学への一種の失望

※本記事は以下のnote記事からの転載です。また、元記事は私個人のFacebookアカウントにおける発言からの転載になっています。

福音主義神学への一種の失望|balien|note

 最近ちょっと、ショックだったこと……福音主義神学への一種の失望を感じました。
 特定の神学的立場への批判に思われてしまうかもしれないけど、でもその立場の中で、こういう神学者が第一人者として研究発表し、影響力のあるコメントを発信しているんだという事実を知ってほしいなぁと思って投下します。

 久しぶりにインターネットで文献を漁っていたところ、ある著名な福音主義神学者のディスペンセーション主義批判の文書を見つけた。
 ディスペンセーション主義批判論文については神学的にかなり整っているものもあるため期待して読んだところ、かなり学識者として「?」な内容だったのだが、どうも公的な文書ではないようだった。なので、ここでは神学者の名前・内容の逐一の引用は控えておく。
 その批判の主な内容として、有名な福音主義神学者の名前を列挙し、彼らがディスペンセーション主義を退けたことを強調し、同主義の聖書解釈が聖書本文からは認められる限度を超えている、とのこと。そこまではいいのだが、以降の論調は「学界で認められていない三流神学者の思い込みによる既往の福音主義神学体系批判・ディスペンセーション主義擁護など目を留めるに値しない」というものだった。
 これには心底驚いた。しかも、その学者の立場では、その三流神学者から批判されている論理構成を40年以上に渡って改良せず使い続けているのだから。

 私は工学界でもかなり保守的な土木工学の中に今は身を置いているけど、ある主張に対する批判・反論がなされたら、相手がいかに三流の研究者であろうとその批判に対する検証は本気で行う。
 私が卒研以来取り組んでいる研究は、1970年代に既に確立されたとされている研究成果を土台としている。しかし、いかに名の知られていない研究者のものでも、その成果に対して意義を唱えている文献を発見したら、検証し始める。
 既往の研究報告とそれに対する批判、両者のデータを見直し、場合によっては実験条件を両者に揃えて実験し直して検討する。指導教員はこの分野の第一人者だが、決してその批判を見逃しはしない。なぜなら、それによって土台としている研究成果が反証されたとしたら、自分たちの研究の信憑性が失われるからだ。他大学にも、第一人者でありながらちゃんとした検証を行う学者が何人もいることを知っている。

 それなのに、この神学者は自分たちの主張に対する批判を「三流神学者の思い込みによる批評」と一蹴する。神学とは聖書本文という「観察対象」に対する科学であるのに、これは知的衰退と呼ばずしてなんだろう。
 福音主義神学では、教会史における正統主義の伝統が尊ばれ、著名な福音主義神学者の論旨が尊重されるのは致し方がない。いや、そういった伝統は神学的資料として大いに活用されるべきであろう。
 しかし、福音主義であるからこそ、聖書本文の「観察」に基づく批評は——いかに三流の神学者のものであろうと——丁寧に検証しなければならないのではないか。

 全ての神学者がこうであるとは断言することはできないが、このような傾向は根強いのではないかと最近感じている。
 しかし、これは他分野の目を通して見ると、知的衰退、いや知的硬直に陥っていると言わざるを得ない。全般的に言えるかは断言できないにしても、この神学者と、その周囲の学者たちがその傾向にあることは推察できた。
 日本の神学的第一人者と呼ばれる人々の中にそういった学識者が交じっているということは、日本のクリスチャンは(神学者ではなくとも)認識しておくべき現象だと思う。もしこのような傾向が主流となってしまえば、福音主義神学は聖書神学・組織神学の面で衰退していくのではなかろうか……そう思えてならない。