祈りに力はあるのか?─聖書における「祈り」に関する一考察
※本記事は以下のnote記事からの転載です。
祈りに力はあるのか?──聖書における「祈り」に関する一考察|balien|note
「神は全てに対して不変のご計画を持っておられるなら、祈りには何の意味があるのだろうか?」
クリスチャンであるなら、誰しもがこのように問わざるを得なかったことがあるだろう。確かに、神は永遠の昔──「時間」という概念すら創造される前から、全てに対するご計画をお持ちである。たとえば、使徒パウロはエペソ人への手紙1章3〜4節で、個々のクリスチャンの救いは天地創造の前から定められていたことだといっている。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペ1:3-4;新改訳)
神の不変の計画がある、ということは確かに聖書の教えである。それでは、祈りによって計画が変えられることがないのなら、祈りに意味はないのだろうか。しかし、聖書では祈りによって神の心が動かされたように読める記述がある。創世記25章21節では、イサクが子供ができない妻リベカのために祈り、神はそれに応えられた。
イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。(創25:21;新改訳)
また、ダビデ王の罪により神はその王国イスラエルを裁こうとされたが、彼の悔い改めの祈りによってそれを思い直されたように読める箇所もある。
こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。(2サム24:25;新改訳)
しかし、もし神がイサクやダビデの祈りによってご計画を変更されたのだとしたら、それは聖書の教えに反するのではないだろうか。事実、これらの箇所は祈りによって神が思い直したとか、考えを変更されたという風に解釈すべきではないだろう。これらはあくまで人間の側から神を描写したものである。特に後者の例については、私たち人間の側から見れば、ダビデの祈りによって神の裁きの計画が変更されたように〈見える〉のである。すなわち、文学的には一種の擬人法であると解釈することができる。
では、イサクの祈りがなくても、リベカは身ごもっていたのか? ダビデの祈りがなくても、イスラエルは神罰を免れていたのか? それもまた違う。神の側から見れば、イサクが祈ること、ダビデが悔い改め祈ることもまた、計画されていたことだったのである。ここには、三位一体の教理、またイエス・キリストの受肉の教理のように、私たちの理解を超えた真理がある。神の〈予定〉という教えと、人間の〈自由意志〉という教えとは、矛盾するように見えて両立している真理なのだ。神は〈唯一〉であるのに〈父、子、聖霊の三つの位格(persona)からなる〉、またイエスは神が人として受肉された方である、といった真理と同様に。
以上のような複雑な神学的考察はこのくらいにして、聖書から素直に考えてみれば、祈りは神のご計画が遂行されるための〈手段〉である、ということがいえるだろう。リベカの懐妊が実現する手段のひとつとして、イサクの祈りが用いられた。また、イスラエルが罰せられることを回避する手段のひとつとして、ダビデの砕かれた心と祈りが用いられた。祈りもまた、神のご計画において不可欠の要素なのである。
しかし、全ての祈りが用いられるわけではない。ただ、神の御心に沿った祈りだけが用いられる。異なる視点から言えば、成就するのは「神の御心にかなう願い」だけである。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハ5:14;新改訳)
聖書に出てくる人物たちとは違い、今の時代の私たちには、66巻からなる旧新約聖書という完結した神の御言葉が与えられている。私たちはこの啓示の集大成から神のご性質とご計画を学び、何が神の御心なのかを知り、推察することができる。御言葉の真理という土台に据えられた祈りこそが、「聞かれる祈り」となるのである。それを前提に、イエスの弟であるヤコブはこのように薦めている。
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコ5:16;新改訳)
なお、ここでいう義人──すなわち神によって「義と認められた」者とは、イエス・キリストが自分の罪のために死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられた(1コリ15:3-5)と信じている者のことにほかならない。
もうひとつ、私たちが祈るべき理由がある。それは、祈りによって父なる神との交わりを持つことができるからである。何か問題に直面したとき、祈らざるを得ない局面にあるとき、私たちは御言葉と祈りから霊の糧をいただく。いや、場合によっては御言葉を読む余裕すらなく、すぐに祈らざるを得ないこともあるだろう。
パウロはピリピ人への手紙の中で、「……あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と薦めている。ここで彼は、その願い事を叶えるために祈りを薦めているのではない。彼が保証しているのは願い事の実現ではなく、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ということだ。
私たちの願いは、必ずしも神の御心に沿ったものだとは限らない。いやむしろ、その逆であることが多い。それでもパウロは、「感謝をもって」祈りと願いをささげなさい、というのである。なぜなら、「感謝をもってささげる祈りと願い」の中で、私たちは父なる神との交わりを持つことができるからである。そして、その交わりの中で、自分の願い事にまさる「神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」るからである。パウロはこれを、神学的な理屈の中だけで語っているのではない。彼は凄まじい苦難を通ってきた中で神から平安をいただいたという実感から、「思い煩わないで、あらゆる場合に、……祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と薦めているのである。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリ4:6-7;新改訳)
神の御心に沿った祈りが用いられ、そのご計画が進められていくことは、私たちにとって大いに励ましとなる。そして、感謝をもってささげる祈りの中では必ず、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あたながたの心と思いをキリスト・イエスにあって守って」くださる。祈りは決して無意味なものではない。祈りは現実に力を持った行動なのである。
〈参考文献〉