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ディスペンセーション主義とは何か?:おわりに─神の御言葉の探求という営み

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

ディスペンセーション主義とは何か?:おわりに──神の御言葉の探求という営み|balien|note

トピック

1.「ディスペンセーション主義とは何か?」を改めて問うてみて

 全8回(「はじめに」と「おわりに」を含めて全10回)のシリーズとして「ディスペンセーション主義とは何か?」を取り扱おうと考えた理由は、「はじめに」で簡単に紹介しました。改めて引用しますと、それは「今後福音派の文脈で聖書を語るときには、イスラエルユダヤ人といった存在について神学的に整理することが非常に重要とな」り、「そのためには、福音派の中でイスラエルに対してどのような神学的理解があるのかを知らなければならなくなり、ディスペンセーション主義に関する議論は避けて通れないものとなる」からであります。
 第7回で引用したように、メンジーズによればディスペンセーション主義については「今日、……その特徴に苦言を呈することが流行となっている」のが現状です*1。ラッドやエリクソンをはじめとする多くの影響力ある神学者が、既にディスペンセーション主義という聖書解釈体系を非正統的なものとして退けています。しかしながら、彼らの大いなる貢献によって福音主義神学が学術的に発展していく中で、その恩恵を受けつつもディスペンセーション主義は主張を大きく変えることはなく残り続けています。さらに(「はじめに」で確認したように)、近年の日本でもこの立場への関心は高まり続けているのです。
 だからこそ、お互いの誤解や無理解に基づいたヒステリックな議論が再発しないためにも、今一度ディスペンセーション主義という聖書解釈体系の定義を確認し、それがどのような歴史を経てきたのかを確認する必要があるものと考えました。
 本来的には、「ディスペンセーション主義とは何か?」を論じるのであれば、この解釈体系から導出される主要教理(イスラエル論、終末論など)についての聖書的根拠を取り上げることが必要です。今回は、私の不勉強と能力不足の故にそこまで手を伸ばすことができませんでした。そういったトピックについては今後順次取り上げていきたいと考えています。
 しかし、この機会にディスペンセーション主義の定義と歴史的変遷を再確認できたことは、今後他の神学的視点からもイスラエル論を考えていく上でとても良いことだったと考えています。私自身はディスペンセーション主義者だという自覚があるため、現在自分が採用しているパラダイム(枠組み)を明確にしておくことは欠かせません。また、このシリーズを読んでいただくことで、イスラエル論や聖書解釈学について他の神学的立場から持ち込まれる議論の材料として利用していただけるのではないかと思います。

2.聖書解釈という科学に入り込むパラダイム(枠組み)の問題

 近代自然科学の世界では、たとえばアインシュタインとボーアらコペンハーゲン学派との間で交わされた量子力学解釈に関する論争から分かるように、科学理論に関する議論ではデータ解釈の背後にある科学者自身のパラダイムまで考えていかなければならないことが明らかになりました*2。科学理論を構築する際には真に客観的と言える視点はもはや存在せず、本質は主観的でありながらも採用しているパラダイムを明示することで可能な限り客観的主張に近づけることができるのみである、と多くの科学哲学者は主張しています。
 福音主義神学において繰り返されている聖書解釈体系を巡る論争にも同じことが言えると思います。お互いが採用するパラダイムの性質を把握し、どちらが聖書というテキストの本質により適合するものだといえるのか、考えていかなければなりません。したがって、こういった種の議論においてディスペンセーション主義を肯定する者も否定する者も、これが本質的にどのようなパラダイムであるのかを理解することは必須であります。
 私自身は現在ディスペンセーション主義を採用する者として自分のパラダイムを明示した上で、今後他の神学的立場の理解に取り組んでいきたいと考えています。そうやって彼らの視点からの聖書解釈やディスペンセーション主義批判への応答を試みることでなるべく自分自身の考えを客観的主張へ近づけ、建設的な対話の材料を提供することができれば幸いです。
 このモチベーションは、ただディスペンセーション主義を擁護することではなくて、何よりも神の御言葉を正しく読みたいという思いから来ています。しかし、罪ゆえに全き良き状態から外れてしまった私たちは、本物の客観的視点を持ち合わせていません。そんな私たちが神の御言葉を読む上では聖霊の助けが絶対に必要です。しかし神が与えられた聖書との時間的、文化的、地理的隔たりが大きくなってしまっている以上、根拠に基づいて理性を働かせて解釈していく作業はどうしても外すことができません。そして御言葉を読む上で人間の堕落した理性が入り込む以上、パラダイムの違いという要素は不可分のものとなり、意見の相違は避けることができなくなります。このことは、福音派において体系化されているものからそうではないものまで、数多くの異なる神学的立場が際限なく乱立している状況から一目瞭然です。

3.「神の御言葉に啓示された真理」の探求

 こうした状況下で、自身が聖書をよく読んだ上で、聖書解釈について意見が違う者同士が議論し対話を積み重ね、その結果をさらに活用して神が聖書に込められた意図を探っていくこと──こういった作業は、気が遠くなりつつも、しかし最高に美しい科学的営みであると私は確信しています。この営みで取り扱うデータはすべて、神ご自身の言葉なのですから。今回の「ディスペンセーション主義とは何か?」というまとめは、その「神の言葉」を探求する営みのために自分にとって必要なものでした。  今回のシリーズで土台を据えることができましたので、これからはもう少し視野を広げつつ、他の神学的立場を採用する神学者の主張の分析、また彼らの聖書解釈の観察と考察に取り組んでみたいと考えています。そして何よりも、聖書本文をただ虚心坦懐に読んでいくことの必要性を、ひしひしと感じています。
 聖書を読んで解釈し、他の解釈者の主張と向き合っていく。その営みの中でディスペンセーション主義者の主張も改めて精査することになるでしょうし、自分の聖書理解がさらに修正され、確立されていくことを期待しています。そして、少しでも多くのクリスチャンの聖書研究のお役に立てることを願いつつ、学んだことをシェアさせていただきたいと思っています。
 目標としているのは、ディスペンセーション主義だとかそういった神学的レッテルの関係ない*3、聖書をその本来的指示において読むことの追求──それは字義的聖書解釈の追求と表現することもできますし、簡単に言えば「神の御言葉に啓示された真理」を追求していくことであります。これは生きている限り完全に達成することは不可能な目標ではありますが……しかし聖書研究こそが主の前に豊かなクリスチャン生活を建て上げていく原動力となり、初代教会で行われたような弟子訓練を伴う伝道のベースにもなります。そのためには、「神の御言葉に啓示された真理」の探求の手を緩めてはならないと思うのです。

私の目を開いてください。
私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに
目を留めるようにしてください。
詩篇119篇18節、新改訳第三版)

*1:ウィリアム・W・メンジーズ=ロバート・P・メンジーズ『聖霊と力─ペンテコステ体験の基盤』吉原博克訳(地引網出版、2014年)33頁

*2:このような科学論のシフトをテーマに、クリスチャントゥデイにて東京工業大学名誉教授の阿部正紀氏によるコラム「科学の本質を探る」が連載中である(2015年8月現在)。このテーマが分かりやすく説明されている良き資料として、村上陽一郎『新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか』(講談社、1979年)が挙げられる。
 なお、現代的科学論とキリスト教神学との関連性については以下の資料が良き参考となるだろう。

  1. トーマス・F・トランス『科学としての神学の基礎』水垣渉、芦名定道共訳(教文館、1990年)
  2. ジョン・ポーキングホーン『科学者は神を信じられるか─クォーク、カオスとキリスト教のはざまで』小野寺一清訳(講談社、2001年)
  3. アリスター・E・マクグラス『神の科学─科学的神学入門』稲垣久和、岩田三枝子、小野寺一清共訳(教文館、2005年)

*3:「キリスト以上に神学を引き上げる」ことの危険性について、ロゴス・ミニストリーの明石清正牧師がディスペンセーション主義をテーマにしたブログ記事で分かりやすく取り上げている。

  1. 明石清正「ディスペンセーション主義について」ブログ「ロゴス・ミニストリーのブログ」(2013年5月30日)2015年8月26日閲覧
  2. 明石「ディスペンセーション主義の落とし穴」ブログ「ロゴス・ミニストリーのブログ」(2015年5月20日)2015年8月26日閲覧

 また、本シリーズで何度か取り上げたメシアニック・ジュー神学者のアーノルド・G・フルクテンバウムがディスペンセーション主義を採用している理由からも、神学体系の前に聖書それ自体が優先されるべきことが伺える。彼がこの聖書解釈体系を採用している理由は、まず厳密な聖書釈義を積み重ねた結果イスラエルと教会とは今なお区別される存在であるという考えに達し、それを最も発展させることに成功しているのはディスペンセーション主義のみであるという研究結果に至ったためである(Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992), p. 566)。