軌跡と覚書

キリスト教に関する雑感とか。

科学と実在論と神学と

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

科学と実在論と神学と|balien|note

トピック

『科学と実在論

 東京大学宇宙線研究所長の梶田隆章教授が、ニュートリノ研究の功績が認められてノーベル物理学賞を受賞されました。
 恥ずかしながら、工学を勉強しているのに物理にはあまり明るくないので、ニュートリノについては詳しくありません。しかし、梶田教授が取り組まれていた「ニュートリノ振動」に関する研究によって、存在仮説として提唱されていたニュートリノに質量が存在することが明らかになった、ということは確かにノーベル賞に値する研究成果であったとわかります。これによって、また物理学的理論における仮説にしか存在していなかったものの実在性が証明された、ということです。この研究成果が使われて、「科学的実在論」という科学哲学の理論の擁護が進められていくのでしょうね。

 「実在論」について、哲学的厳密性はさておき、とりあえず大辞林三省堂)で定義を調べてみると「意識や主観を超えた独立の実在を認め、何らかの意味でそれとかかわることによって認識や世界が成立すると説く立場」とあります。……やっぱり哲学的厳密性には欠けると思います(ちなみに、実在論唯物論とイコールではありません)。さて、科学という営みの中で、観察対象は観察者の認識からは独立して「実在」しており、また科学理論における「モデル」で用いられる存在もまた「実在」している、という考え方を「科学的実在論」といいます。たとえば先のニュートリノなどは、物理学的理論のモデルの中で仮説として存在していたのですが、実験によって「実在」していることが明らかになったわけです。(ただ、科学哲学の世界では科学的実在論について非常に批判的な見方があるのも事実です。*1
 このような科学的実在論を擁護して「超越論的実在論」という考え方を提唱し、またその実在論を社会科学・人文科学まで適用していこうと提題したイギリスの哲学者に、ロイ・バスカー(1944—2014)という人がいます。彼が1975年の『A Realist Theory of Science』(科学と実在論*2で提唱した「超越論的実在論」では、先のような科学的実在論から一歩進められ、「(自然)科学の対象としての自然は、観察者の認識にかかわらず実在している。またその自然には、観察者が認識しようがしまいが関係なく独立してある構造やメカニズムが存在している(もしくは作用している)」といった考え方*3が含まれています。「自然」という科学の対象がただ「実在」しているだけではなく、その中に構造だとかメカニズムだとかがあって、「自然」とは階層的な実在なのだ──とまぁ、バスカーさんは難しいことを言っておるわけです。そのバスカーさんの提唱した「超越論的実在論」と「批判的自然主義*4という立場を科学の諸分野に適用していこう、ということで様々な哲学者・自然科学者・社会科学者によって提唱されてきた実在論を、総称して「批判的実在論」(critical realism)といいます。

神学と実在論

 なぜいきなり科学的実在論だの批判的実在論だのの話を始めたかというと、福音主義に立つ多くの神学者が、この批判的実在論キリスト教神学に応用しているからなのです。たとえば、イギリスの歴史神学者であるアリスター・E・マクグラスは、「神の科学としての神学の方法論を探ろう」という「科学的神学」(Scientific Theology)プロジェクトの中で、批判的実在論を中心的な方法論として採用しました*5。彼は自然科学と神学に共通する部分が多くあると指摘するのですが、その中には「神学は神の啓示という対象を観察・分析し、得られた理論を体系づけていくものだ」という確信があります。ここで「神学」を「自然科学」に、「神の啓示」を「自然」に置き換えれば、自然科学について(極端ではありますが)単純化した記述になると思います。
 マクグラスは「自然科学は実在論に基づかなければ成立しえない」という理解のもとで、神学もまた同様に対象とする「啓示」の「実在」を前提にしなければ成立しえないのだと考えます。そこで彼は、キリスト教神学に対して批判的実在論を導入するのです。
 他にも、またもやイギリスの新約聖書学者であるN・T・ライトは、自らの聖書解釈のツールとして批判的実在論を導入しています*6。彼が批判的実在論について直接言及している文献はまだ読んでいないので詳しいことはいえません。ただ、対象を「実在」(しかも階層的な実在)として考える批判的実在論が、ライトの福音主義的な神学に寄与していることは確かでしょう。

 私もまた、批判的実在論福音主義神学とよく親和するツールだと思います。ただ、他の社会科学において行われるように、批判的実在論を大前提として神学を構築していくべきだとは思いません。多くの福音主義神学者がいうように、神学において哲学理論は「しもべ」として用いられるべきであって、大前提とされるべきは「神のことば」である聖書です。その点に注意すれば、批判的実在論は神学の「しもべ」として、神学における聖書の重要性を説明する際に強力な武器になると考えています。
 聖書の信頼性に関する議論でよく問われるのが、「『聖書に書かれていることは信頼できる』という主張の根拠は聖書の言葉ではないか。これは循環論法ではないか?」という「聖書の自己証言」についての問いです。この問いも、科学的理論におけるパラダイム(思考の枠組)の存在という前提と批判的実在論とを用いることで、ひとつの解決が与えられると考えています。
 さらにアイディアとしてあるのは、この批判的実在論という考え方は、「聖書解釈で『歴史的・文法的解釈』を一貫して適用すること」を論理的に記述するための鍵となるのではないか、ということです。もし神学における「聖書」というテキスト(実在)の性質が「歴史的・文法的解釈の一貫した適用」を求めていれば、聖書の適切な分析方法は「歴史的・文法的解釈」であるといえるでしょう。その方法論の根拠として、私は批判的実在論をうまく用いるべきではないかと考えています。ただ、批判的実在論における「階層的実在」という考え方が調和するのかどうか、現時点では何ともいえないところです……。

 ……ということで、ここ最近は神学書と併せ、批判的実在論に関する諸文献を読んでいます。まず目標としているのは、そもそもバスカーが提唱した超越論的実在論と批判的自然主義の把握、それから批判的実在論に対してなされている批判を知ることです。また、マクグラスやライトがどのように批判的実在論を用いているかも勉強したいところです。
 しかし、バスカーの著書を読んでいると思うのは、まだ科学用語が出てくるからいいものの、哲学書とは何と読みにくいのか……。難しい用語が並べられていて、丁寧に読んでみたら、当たり前のことを言っているだけじゃないか! と思うこともしばしば。こうやって頭だけ動かしていると本来の目的(神様の御言葉を正しく知りたい!)から離れてしまいそうで、しかもそういう作業が好きなので、ストッパーが必要です。その上で、やっぱり日々のデボーションと通読は欠かせません。まず御言葉を読まなければ御言葉を知ることはできない、という当たり前の事実に、日々気づかされております。

*1:村上陽一郎科学的実在論について,科学基礎論研究,19(4),科学基礎論学会,1990,pp. 157-160.

*2:ロイ・バスカー:科学と実在論─超越論的実在論と経験主義批判,式部信訳,法政大学出版局,2009.

*3:榊原研互:超越論的実在論の批判的検討─R. バスカーの所説を中心に─,三田商学研究,Vol. 51,No. 4,慶応義塾大学出版会,2008,p. 44

*4:バスカー:自然主義の可能性─現代社会科学批判,式部信訳,晃洋書房,2006.

*5:アリスター・E・マクグラス:神の科学─科学的神学入門,稲垣久和・岩田三枝子・小野寺一清共訳.また、以下も参照のこと。マクグラスキリスト教神学入門,神代真砂実訳,教文館,2002,pp. 315-317.

*6:Robert Stewart, “N. T. Wright’s Hermeneutic: An Exploration,” Churchman, 117(2), 2003, pp. 153-176.