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歴史的文法的解釈法についての覚書(3)

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

歴史的文法的解釈法についての覚書(3)|balien|note

 「終末論についての覚書」シリーズを一旦お休みし,「歴史的文法的解釈法」についての展望をまとめたノートをご紹介しています。
 今回のトピックは以下の通りです。

4.予型論の問題

 歴史的文法的解釈法と関連して現在もなお解釈学上の議論を呼んでいるのは,予型(type)の存在である。予型を扱う解釈学の理論は「予型論」と呼ばれている。山﨑(2014:41)は「予型論とは,救済史の中で,異なる時代に現れた人物・出来事・制度などを互いに密接な関係にあるものとしてとらえる解釈法で,より古い時代のものは後の時代の対応物の『予型 type』と呼ばれ,新しい時代の類似事項はこの予型を何らかの意味で完成するものと考える」と説明している(ラム 1963:278-308参照)。  この予型が歴史的文法的釈義の範疇に含まれるものであるかどうかは議論が分かれている(山﨑 2014:41-42)。新約著者が旧約に記述されたある事物や制度,出来事などを予型として解釈していたとしても,もし旧約著者が予型を意図して記述したのでなければ,旧約のテキストに予型という概念を読み込むのは「意味の単一性」に基づく歴史的文法的解釈法に反しているのではないだろうか。
 ここで注意する必要があるのは,予型の存在は聖書の中に実際に認められるということである。たとえばパウロは,アダムはキリストの「ひな型」であるといっている(ロマ5:14)。またヘブル書の著者は,モーセの律法におけるレビ的祭司制度はキリストのメルキゼデク的祭司職の予型であると解釈していたように読める(ヘブ7:11−17)。
 また,予型に関する議論の中でもうひとつ注意する必要があるのは,予型の存在と予型論的解釈とを区別することである。Vlachによれば「予型論的解釈はただ聖書の中に予型が存在していると理解する以上のものである。これは旧新約間には主として予型論的関係が存在しているという観点からみた解釈上のアプローチである」(Vlach 2010:86-87)。すなわち,予型論的解釈においては,旧約聖書全体が新約聖書の型として見なされているということである。この点では確かに,山﨑(2014:42)で指摘されているように,予型論的解釈は「歴史的・文法的解釈法に属する解釈法ではない」。
 Feinbergは予型の存在そのものは歴史的文法的解釈法の中で許容されるものだと主張しており(Feinberg 1988:122-123),Vlachもこれに同意している(Vlach 2010:106)。たとえば旧約聖書の中で既に,モーセの律法は一時的なものであり,将来新しい契約に取って代わられるものであると主張されている(一例としてエレ31:31−34参照)。したがって,モーセの律法の目的であり成就であるメシアが,一時的なモーセの律法におけるレビ的祭司制度に代わってより優れた祭司制度に就かれたと考えることは,旧約聖書の字義的解釈に反するものではない。しかし,「聖書が予型の存在を指し示していると認識したとしても,旧約聖書すべてが予型であると仮定する必要はない」(Vlach 2010:105)。「聖書に対する歴史的・文法的・字義的アプローチは旧約のtypes[予型]が新約のantitypes[原型]を指し示していることを示す。よって,実際に予型は神の啓示の一部である。しかし著者[Vlach]は,歴史的文法的解釈だけではなく『予型論的解釈』を解釈法則として加えることは,旧新約間には認められない予型論的繋がりを必要以上に正当化することになるものと考えている」(Vlach 2010:105-106)。
 予型論および予型論的解釈に関する議論は,旧約聖書新約聖書の連続性(continuity)をどの程度認めるのかという問題とも密接に関係している(Feinberg 1988:72-73; 75-79)。しかし,これはより単純に捉えれば,新約における旧約の引用法と歴史的文法的解釈法との関係についての問題でもある。
 たとえばホセア書11章1節とマタイの福音書2章15節の予型論的関係*1については,山﨑は旧約の歴史的文法的解釈からは見出されないものと考えている(山﨑 2014:40-42)。予型論的解釈を否定するVlachもまた,マタイはホセア書11章1節を字義通りに(聖句の歴史的文法的意味の成就として)引用しているわけではないことを認めている(Vlach 2010:91-92)。しかし,両者の予型論的関係は新約の歴史的文法的解釈から見出されるものであり(cf. Fruchtenbaum 1992:843-844),(前述のように)必然性のない予型論的関係を旧新約間に認める権限は(釈義者には)ない,と主張している(Vlach 2010:105 *2)。

5.物語神学について

 次に,近年再び注目を集めている神学手法である物語(の)神学(narrative theology)について,歴史的文法的解釈法との関わりにおいて考えてみたい。物語神学は「聖書は教理的あるいは神学的な主張をしているのと同じくらい,神についての物語を語っている」という見解に立ち,「キリスト教神学との関連において物語に特に注目する」神学運動である。この運動は,「一九七〇年代初頭以来の英語圏の神学に対して大きな影響を与えた」(マクグラス 2002:232-237)。
 物語神学が聖書の物語(ナラティヴ)という文学類型にスポットライトを当てた意義は大きい。なぜなら,「物語は聖書に見られる主要な文学類型」だからである。さらにマクグラスは物語神学の長所のひとつとして「神が我々に歴史において出会うということ,我々に歴史に関与する者として語りかけるということ」を認識できることを挙げている(マクグラス 2002:235-236)。  この神学手法を積極的に活用したキリスト教倫理学者のハワーワスは,「神について語る基本的方法は,物語以外にない」,「『教理』それ自身が物語あるいは物語の要約である」,そして「聖書全体は,イスラエルの契約の物語とイエスの生と死と復活の物語であり,その後の教会史も,その生の物語の再現である」という見解を示している。また彼の考えによれば,我々はキリストの弟子になることによって「自分の生をつまり自分の物語を神の物語のなかに発見することを学ぶようになる」(ハワーワス 1992:58-72)。
 しかし,物語神学を採用する一部の者については,その行き方に重要な問題があった。マクグラスが指摘するところによると,「物語の神学が注目するのは聖書の文学的構造である。物語の文学的構造に集中するときに,単純な歴史的問いが無視される傾向にある。つまり,これは本当か,それは本当に起こったのか,という問いである。……この決定的な問題に答えるには,聖書の『物語』ということを言うだけでは不適切なのである」(マクグラス 2002:237)。これについては,テキストそのものを言語学的に分析する共時的アプローチを優先するあまり,歴史的(あるいは時空的)アプローチが疎かにされているという,既に3−3.で紹介した津村(2014)による批判とも重なってくるものがあるだろう。
 それでもなお,福音主義の聖書観に立てば,神が聖書の大部分においてナラティヴという形で啓示を与えられたのは事実である。したがって,福音主義に立つ多くの神学者も物語神学の影響を受け,聖書のナラティヴを強調する神学を展開してきた。その行き方は「人類の救いのために……行われた神の『力あるみわざ』」という観点から歴史を再解釈する「救済史」運動とも重なっている(ゴンサレス 2010:64; cf. 上沼 1980; 津村 1986:41-43)。たとえばそれは,山﨑が「ランダムな主観的[聖書]解釈」を防ぐために提示した神学的枠組みの中にも見てとれる(山﨑 2014:52)。また,マクナイト(2013)は,現在の福音主義神学界で広く見られる救済史理解に基づいて物語神学を展開したものである。マクナイトによれば,「[イエスや使徒たちが宣べ伝えた]福音とは,イエスの救いの物語の中において完成されるイスラエルの物語であ」り,「この福音を自分のものとして受け止めるとは,神の物語を神の民についての物語として受け止めることなのである」(マクナイト 2013:226)。このような聖書理解は,ハワーワスのものと類似している。
 しかし,物語神学において語られる救済史やナラティヴというものも,結局は聖書のテキストから釈義者が抽出したものである。したがって,そういった救済史やナラティヴもまた解釈学的検証を受ける必要があるものと考えられる*3。  Sailhamerは聖書における「歴史的ナラティヴ」のテキストに着目した旧約聖書神学を展開している。彼は福音主義者として,テモテへの手紙第二3章16節から導出される「聖書は神の霊感を受けた書物である」という神学的前提の故に,聖書のテキストそのものが霊感を受けたものとして認識される必要があると主張する(Sailhamer 1992:16-62)。したがって,たとえばモーセ五書(PentateuchあるいはTorah)のような歴史的ナラティヴのテキストについては,ナラティヴそのものやテキストの構造に基づいて,言語的観点からも読まれる必要がある。しかし,歴史的ナラティヴのテキストには著者がおり,さらにテキストの中ではそれが書かれた当時の読者が想定されている。すなわち,歴史的ナラティヴのテキストは,ナラティヴが書かれた(構成された)当時の著者および読者の歴史的文化的状況を考慮して読まれる必要がある(Sailhamer 1992:25-31)。以上のことから,Sailhamerは聖書への言語的アプローチと歴史的(時空的)アプローチの両方を重視していることがわかる。彼が主張する方法は,つまり歴史的文法的解釈法によって聖書の歴史的ナラティヴを釈義するというものである。
 Sailhamerは以上のような方法論でモーセ五書全体を釈義した結果,モーセ五書の大きな目的は以下の3つの事項を読者に示すことだという結論に至った(Sailhamer 1992:25-31)。

  1. イスラエルは神を信頼すること,また神の命令に従うことに失敗する(すなわちシナイ山での契約は失敗に終わる)。
  2. しかし,神は将来イスラエルに信仰を与えられる。
  3. それによって,アブラハム,イスラエルの契約を通じて全人類が祝福されるという神の計画が成就される。

これについては,Postel, Bar and Soref (2015)においても同様な主張がなされている。彼らによれば,トーラー(モーセ五書)が書かれた目的は,律法を守ることができないイスラエルの民のナラティヴを通して,読者を「終わりの日」に来たるメシアへの待望に導くことである。このような「トーラーはメシアを指し示すものである」という理解は,メシアであるイエス自身,またパウロやヘブル書の著者など新約の著者らのトーラー理解とも共通したものである。そしてこの理解は,Postel, Bar and Sorefによれば,パウロやヘブル書の著者が歴史的文法的解釈によってトーラーの著者(モーセ)が込めた意図を正しく理解した結果,辿り着いたものでもある(Postel, Bar and Soref 2015: locations 156-174)。
 以上のSailhamerやPostel, Bar and Sorefが展開した物語神学的なモーセ五書研究を見るに,歴史的文法的解釈を土台として旧新約聖書全体に渡る物語神学を展開し検証を重ねていくことは,救済史に大きな関心を寄せる現在の福音主義神学界にとって大きな意義があるものと思われる。

参考文献

  • Feinberg, John S., “Systems of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg ed., (Wheaton, IL: Crossway, 1988), pp. 63-86.
  • Feinberg, Paul D., “Hermeneutics of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity, pp. 109-128.
  • Fruchtenbaum, Arnold G., Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992)
  • Postel, Seth D., Eitan Bar and Erez Soref, The Torah’s Goal?, Kindle ed. (One for Israel Ministry, 2015)
  • Sailhamer, John H., The Pentateuch as Narrative: A Biblical-Theological Commentary (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992)
  • Thomas, Robert L., “The Principle of Single Meaning,” The Master’s Seminary Journal, Vol. 12, No. 1, (Spring 2001), pp. 33-47.
  • Thomas, “The New Testament Use of the Old Testament,” The Master’s Seminary Journal, Vol. 13, No. 1, (Spring 2002), pp. 79-98.
  • Vlach, Michael J., Has the Church Replaced Isarel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing, 2010)
  • 上沼昌雄「救済史的理解をめぐって」『福音主義神学』第11号(日本福音主義神学会,1980年)3−21頁
  • ゴンサレス,フスト『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳(教文館,2010年)
  • 津村俊夫「福音主義の聖書解釈─その方法論の確立をめざして─」『福音主義神学』第17号(日本福音主義神学会,1986年)40−57頁
  • 津村「福音主義神学における聖書釈義」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会,2014年)5–32頁
  • 山﨑ランサム和彦「新約聖書における使徒的解釈学」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会,2014年)33−54頁
  • ハワーワス,スタンリー『平和を可能にする神の国』東方敬信訳(新教出版社,1992年)
  • マクグラスアリスター・E『キリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館,2002年)
  • マクナイト,スコット『福音の再発見─なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか』中村佐知訳(キリスト新聞社,2013年)
  • ラム,バーナード『聖書解釈学概論』村瀬俊夫訳(聖書図書刊行会,1963年)

*1:ホセア書11章1節は,イスラエル民族の出エジプトという歴史的出来事への言及である。しかしマタイは,イエスとその両親がヘロデ大王の死後にエジプトから帰還したという出来事を指してこの聖句を引用し(マタ2:14–15),適用している。

*2:Thomasはホセア書11章1節とマタイの福音書2章15節に見られるような旧新約間の予型論的関係について,より多くの聖句に基づいてVlachと同様な主張を展開している(Thomas 2002)。Thomasは聖書解釈法則として「意味の単一性」を認め,現在の釈義者は歴史的文法的解釈法を一貫して適用すべきであると主張している(Thomas 2001)。一方で彼は,ホセア書11章1節とマタイの福音書2章15節の関係については「新約における旧約の非字義的な引用例」として理解している(Thomas 2002:82-86)。彼は新約におけるこのような旧約引用法は「新約著者が自らの記述の文脈と関連させて,旧約聖句の文法的歴史的意味(the grammatical-hisotical meaning)を超えた適用を行っているもの」であり(Thomas 2002:86),これを「inspired sensus plenior application(ISPA)」と呼んでいる(Thomas 2002:80)。
 Thomasはまた,ISPAは使徒職や預言の賜物が与えられた新約著者にのみ許される旧約の引用法であり,現在の釈義者が聖書解釈法としてISPAを適用することを正当化するものではないとも主張している(Thomas 2002:86-87)。また,新約において旧約の聖句がその歴史的文法的意味からはかけ離れた適用をされている場合があっても,これは現在の聖書解釈における「意味の単一性」の原則を否定するものではないという(Thomas 2002:87)。なぜならば,旧約聖句そのものの歴史的文法的意味からは単一の意味しか見出されず,他の[新約の文脈で適用された際に明らかにされた]意味は,その聖句を引用している新約聖句の歴史的文法的分析から見出されるものだからである。

*3:なお,ハワーワス自身は「神学自体は,物語を語るものではなく,物語について批判的に考察するものである」という興味深い見解を述べている(ハワーワス 1992:18)。