軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

歴史的文法的解釈法についての覚書(4)

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

歴史的文法的解釈法についての覚書(4)|balien|note

 「終末論についての覚書」シリーズを一旦お休みし,「歴史的文法的解釈法」についての展望をまとめたノートをご紹介しています。
 今回は以下のトピックに示すように「6.科学的神学と批判的実在論」を取り上げ,結言を持って「歴史的文法的解釈法についての覚書」をひとまずは締めくくりたいと思います。

6.科学的神学と批判的実在論

 最後に,トーランスが取り組み,近年ではマクグラスによって展開されている神学的方法論である科学的神学(scientific theology)と歴史的文法的解釈法との関係について簡単に触れてみたい。
 トーランスは神学を科学の一分野(神学的科学)として取り扱う方法論を展開した(トーランス 1990)。マクグラスはその方法論を明瞭にまとめている(マクグラス 2002:420)。

トーランスの主張によれば,神学も自然科学もある種の実在論に関わっている。というのも,両者共にその理解の試みに先行して存在する実在を扱うからである。どちらにも要求されるのは,事物の存在する仕方に対する開かれた態度であり,その探求の様態がそれが出会うことになる実在の本性に適合していることである。……トーランスのアプローチが神の自己啓示の優先性を強調する行き方に基礎を持っていることは明らかであろう。神の自己啓示は客観的実在で,人間の理性の営みからは独立したものとして見られている。

 マクグラス自身,トーランスのように神学を「神の科学」として捉え,神学における科学的方法論を「科学的神学」として展開した(McGrath 2001-3; マクグラス 2005)。彼の科学的神学の特徴のひとつは,その方法論の中に批判的実在論(critical realism)を導入したことである(マクグラス 2005:180-195 *1)。
 批判的実在論は,バスカーが展開した超越論的実在論と批判的自然主義を土台とした,ある種の科学的実在論である*2。バスカーは,ある存在は人間の認識や観察に依存するというあらゆる経験主義を否定した。「バスカーはまず,人間による認識や経験とは独立して事物が存在し(実在)それぞれの傾向性や構造にしたがって自己運動していると考え」た(中山 2013:23)。それらの「実在は知る者の側への考慮なしに,直接に人間精神に到達する。その結果,知識は世界の客観的実在によって決定される」。また,「実在は人間精神によって理解されるのだが,その精神とはその実在に対し利用しうる限りの(数学的定式や精神モデルの)道具を使って表現し耳を傾けようと」する(マクグラス 2005:182; cf. マクグラス 2009:71)。以上が批判的実在論の基本的な考え方であり,この実在論に立つ限り,科学の方法論は「その対象[実在]の性質によって決定される」のである(マクグラス 2005:185)。
 批判的実在論の考え方では,あらゆる存在から構成される実在的世界はある秩序や階層を有しており,科学の方法論はそれら実在の階層によって決定されることとなる。マクグラスはこれを「病気」という概念を用いた類比によって説明している。「ある人が病理学的レベルでは脳腫瘍を患っていたとする。これは記憶喪失や認知機能の損失など,体の機能の目に見える変化という形での障害によって現れる。活動というレベルでは,この人の日常の仕事すべてとはいわないまでも,ある面での低下を招き,ライフスタイルに支障をきたす。社会的参加というレベルでは,社会的役割の損失と記憶や認知の技能の高度さを求められる職種では失職の憂き目にすら会うだろう。」(マクグラス 2005:191-192; 強調は著者による)ここで引用文中に太字で強調されているものが「病気」という複雑な概念の諸階層を示しているのである。「病気はこのようにいくつかの異なるレベルで研究され,確認されうる。一つのレベルだけが『リアル』(実在的)であって他のレベルではそうでない,というのは不条理だろう。……各々のレベルは異なる様態の研究(と異なる様態の取り扱い)を要求する。このように階層化された実在は探求方法の多元化を招来する。各々の階層はそれ自身の方法論を要求する。」(マクグラス 2005:192; 強調は著者による)したがって,神学がある客観的実在(トーランスの場合には神の自己啓示)を対象とした科学であるならば,その実在の階層に従った方法論が要求されるということになる。
 マクグラスは「批判的実在論アプリオリに,前もって基礎と規範を決定するような神学の基礎として採用されているのではな」く,「はしため的(ancillary)に使われている」と注意している(マクグラス 2005:181)。実際にはどのように応用されているのかというと,彼は神学が対象とすべき神の自己啓示という実在の階層化を試み,その最上位にくるものが「テキスト」すなわち聖書であると主張している(マクグラス 2005:259-261)。なぜならば,彼が「正典はキリスト教信仰の根本的出来事を証しするもので,同時に出来事の意味を明らかにしている」という正統主義,あるいは福音主義の立場を前提として科学的神学に取り組んでいるからである。すなわち,マクグラスの科学的神学という方法論体系において,批判的実在論は正統主義/福音主義を弁証するための「しもべ」として用いられているのである。
 しかし,マクグラスが試みた神の自己啓示という実在に対する階層的な分析は,本当に批判的実在論を「はしため的」に用いた結果得られたものなのだろうか。あるいは,結果的に批判的実在論の考え方を分析対象にアプリオリに適用した形になってしまってはいないだろうか。また,そもそも神の自己啓示に関するマクグラスの考え方は,聖書と合致するのだろうか*3。これらの点について検討していく上では,まずマクグラスの「科学的神学」という方法論そのものの吟味が必要である*4。また神の自己啓示の考え方については,当然聖書の自己証言と照らし合わせて慎重に検証される必要がある*5
 筆者は,神学が「神の(自己啓示を対象とした)科学的な営み」であり,自然科学と多くの面で方法論を共有しているというトーランスやマクグラスの考えに同意する。また,自然科学に取り組む上で適切なアプローチは実在論的なものであるという,バスカーらの見解にも同意する。したがって,仮に聖書のテキストという実在に取り組む適切な方法が歴史的文法的解釈法であるならば,そのことは科学的実在論的に説明される必要があるものと思われる。これは筆者が構想している個人的な課題のひとつである。
 ただし,神学において哲学理論はあくまで「しもべ」であることは忘れられてはならない(cf. エリクソン 2003:22-23; 55-61)。実在論的な歴史的文法的解釈法の検討という試みもまた,神の自己啓示たる聖書のテキストの自己証言と照らし合わせながら行われる必要があるものと考えられる。

7.おわりに

 本シリーズでは,「聖書を正しく(福音主義的に)捉えていくためにはどのような方法論が妥当であるのか」という話題提供を意図し,福音主義神学における伝統的な聖書解釈法である歴史的文法的解釈法を取り上げた。この解釈法則に対する批判的応答を概観した後,予型論的解釈や物語神学という具体的な聖書解釈の方法論と歴史的文法的解釈法との関係を提示した。また,神学は神の自己啓示という客観的実在を対象とする科学であるという科学的神学のアプローチから,科学的実在論を利用して歴史的文法的解釈法を検討していくことを今後の課題として提示した。
 いずれにしろ,いかなる聖書解釈法則も,それを聖書のテキストそのものに適用し,また聖書の自己証言と照らし合わせて検証される必要がある。そのために,歴史的文法的解釈が聖書のテキストに取り組むために相応しい方法論であると考える多くの福音主義者たちは,この解釈法を一貫して適用した聖書神学および組織神学の提示に挑戦する責務を負っているのではないだろうか。また,検証し精査された聖書解釈の方法論を適用した組織神学という取り組みは,聖書に啓示された神の真理を探究するという,神学本来の意図に向けた科学的営みであると筆者は考えている。
 今日,福音主義陣営の中でも様々な立場から活発な対話が行われるようになってきているように見受けられる。その反面,聖書研究の軽視や極度に体験主義的な傾向など,聖書に対する姿勢に混乱が見られるのも事実である。このような状況下においては,聖書という実在に相応しい解釈法則を探求し,それを適用した組織神学に向かって取り組み,結果を提示していくことには大きな意義があるものと思われる。またそのような取り組みは,混迷する福音主義における危急の課題でもあるだろう。

参考文献

*1:マクグラスが批判的実在論を導入する以前より,神学の方法論として批判的実在論を利用した代表的な神学者はN・T・ライトであるといえるだろう。ライトは『新約聖書と神の民』において,新約聖書(神)学を展開するための解釈学上のツールのひとつとして批判的実在論を取り入れている(ライト 2015:76-85; cf. Stewart 2003)。

*2:超越論的実在論,批判的自然主義についてはそれぞれバスカー(2009)およびバスカー(2006)を参照のこと。また,現在哲学や社会科学において広く用いられている批判的実在論については石井(1995),中山(2013),ダナーマークほか(2015),伊賀(2012)を参照すると良いだろう。
 なお,超越論的実在論への批判的応答については榊原(2008)を,科学的実在論そのものに対する批判的応答については村上(1990)を参照のこと。

*3:マクグラスは「啓示」について以下のように考えていることを明らかにしている(マクグラス 2005:258-259)。

 私が発展させたい基本的な考えは,バルトのように啓示における神の自由を保持しつつ,啓示は神の行為そのものであり,「啓示されたもの」を指すのではないということである。このような神の行為を解釈することも,啓示が与えられてはじめて可能になる。新約聖書の語るイエス・キリストの死と復活の意味とはそのようなものである。与え得る適当な説明としては,啓示としての一連の出来事が起こり,それが「信仰という堆積物」を生んだということである。……
 宇宙論研究者は宇宙の誕生を最初の数秒間にまでさかのぼり,進化生物学者はたとい複雑な過程であっても人間の由来を探求する。科学的神学は,キリスト教の伝統がいかにして生まれ,知的にどのような道をたどり,またこれからどのような道をたどればよいのかを明らかにすることである。このためにはまず,「信仰の堆積」をもたらした一連の啓示はどのようなものであるかを探ることであろう。そしてこの「信仰の堆積」もそれ自身が啓示なのである。重要な点は今のところ「啓示」とは何かということを与えることはできないということである。われわれが知ることが出来るのはその結果であり,歴史に与えられた衝撃だけである。聖書,教会という諸制度,礼拝の儀式などはこの過去に起こったものを指し示していて,その意味を間接的に伝えているのにすぎない。
 われわれは歴史において何が起こるか,何が起こらないかを前もって決めることはできない。私たちは歴史,文書,教会制度,経験などが多層的に重なり合った複雑な混合物にいきなり遭遇する。そのこと自体を伝統的に「啓示」というのである。[強調は著者による]

 彼は上記の「啓示」についての考え方に基づいて,歴史における「啓示」という出来事は次のように階層化できると主張している(マクグラス 2005:259-261)。

  1. [聖書の]テキスト
  2. 礼拝の形式
  3. 信条に表れた思想
  4. 共同体
  5. [教職制などの]制度の構造
  6. キリスト教信仰のしるしとなる]イメージ
  7. キリスト教の使用する伝統的な]言葉
  8. 宗教体験

 この階層化について,稲垣は「確かにこの八つのレベルは教会論的にはどれも重要なことではある」が,「[6. 〜8. ]のカテゴリーが個人的・私的であるのに比べ,[1. 〜5. ]のカテゴリーが集合的・公共的である」という違いが見られると述べている(稲垣 2005:305)。そして,「……哲学理論としてこれを,還元不可能な実在の階層性の例証,と呼ぶのはいかにもアドホックではないだろうか。特に『イメージ』『宗教体験』といった基本的に私的なことが『制度の構造』といった公共的なことと混在しているのは何とも筆者には分かりにくい」とのコメントも付している(稲垣 2005:306)。
 また,Thomasによれば,マクグラスは神学において真理を命題的なものとして取り扱っている保守的福音主義の合理主義的傾向を批判している(Thomas 2007:9-10)。マクグラスにかかわらず,このような保守的福音主義に対する批判は広く見られる。この批判は,聖書の権威と無誤性を土台として聖書の合理性を主張した古プリンストン学派のパラダイムが,啓蒙主義と合理主義に根差したものであるという認識に基づいている(cf. 藤本 2015:60-72; 74-85)。マクグラスの「啓示」観は,以上のように保守的福音主義を「啓蒙主義と合理主義に立脚した聖書信仰」と批判し(藤本 2015:80),その「基礎づけ主義」から脱却しようという彼の考え方を背景としている(cf. マクグラス 2005:132-133; 210)。
 なお,聖書の合理性や(福音主義神学における)真理の命題性が聖書の自己証言から認識されるという保守的主張については,エリクソン(2003:74-75; 244-250),Thomas (2004)およびThomas (2007)を参照のこと。

*4:エリクソンは「神学の方法における最初の段階は,研究しようとする教理に関連する聖書箇所をすべて集めることである」が,そのためには「真に最良かつ最も適切な道具や方法論」を「意識的に吟味し,出発点を注意深く決定すべきである」と述べている(エリクソン 2003:71-73)。

*5:「神の自己啓示」という実在に階層性が認められるのか,認められるのであれば,啓示についてこれ以上還元不可能であるという階層分類はどのようになされるべきなのか。こういった問題を考えていく上では,マクグラスがしたように,啓示そのものの定義を明らかにすることが必要である。その啓示の定義もまた聖書の自己証言から得られるべきであるが,福音主義神学では聖書の権威をアプリオリなものとして認める必要があるために,外部からは福音主義の概念そのものが循環論法に見えるという問題が生じてしまう。このように聖書の自己認証を用いることが循環論法であるかどうかという問題について,スティブスは聖書の性質・内容の独自性を挙げ,聖書の自己認証を「聖書の独自性と権威への証言」として用いることは問題とならないと主張する(スティブス 1974; cf. エリクソン 2003:255-259)。