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balienのブログ

キリスト教(神学)に関する雑感・情報などをメインにまとめていきたいと思います。

聖書における「イスラエル」の意味(1)

イスラエル論 聖書研究

 これまで、「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?」という問題について扱ってきました。この問いが関わってくる最大のテーマは、「イスラエル」という用語の意味です。「イスラエル」についての考え方(イスラエル)は、前回まで見たような旧新約聖書の関わり方をどのように考えるかによって規定されていきます。
 今回はイスラエル論に関する神学的主張の比較を取り上げますが、次回以降は聖書本文から「イスラエル」という用語についてワードスタディを続けていきます。
 今回はいつもより少々長い記事となってしまいましたが(15,000字超え!f^_^;)、ここで取り上げた神学者たちの主張は、分割せずにひとまとめにしてしまった方がよいと判断しました。その内容は最後の「今回の結論」でまとめていますので、そちらを御覧になってから各主張を読んでいただけると分かりやすいかと思います。

トピック

はじめに

 新改訳聖書第三版では、「イスラエル」という用語は旧約聖書(以下旧約)で2,550箇所、新約聖書(以下新約)では80箇所の聖句に登場する*1。この登場回数から見ても、「イスラエル」は聖書の用語の中でも非常に重要であるということがわかる。
 「イスラエル」(Israel)という単語は古代中東に存在した王国に対しても使用されるが、一般的には現代のイスラエル国を指すことが多いだろう。
 「イスラエル人」という場合には、特に英語圏ではIsraeliteを用いるか、Israeliを用いるかによって異なる意味を示す。前者の場合は古代イスラエル人を指し、「ヘブライ人」や「ユダヤ人」と同義語として定義されている場合もある*2。したがって、ここには人種あるいは民族の概念が含まれていることがわかる。一方、後者の場合には(現代)イスラエル国民を指し、基本的にここには人種的あるいは民族的区別はない。
 どのような意味で用いるにしろ、我々が通常「イスラエル」と言う場合には、国家、国民、民族といった概念と関連させているのだということができる。
 しかし、「イスラエル」という用語の聖書的用法に関しては、議論が複雑化してくる。聖書における「イスラエル」という存在の捉え方については、これまで扱ってきた「新約の啓示は旧約の意味を変更したのか」という問題と直結している。ある者は「旧新約を通してイスラエルの意味は変わっていない」と主張し、またある者は「新約になってイスラエルは新たな意味を持つようになった」と主張する。
 本論で詳しく述べるが、後者では、ほとんどの場合、新約におけるイスラエルの新しい「意味」(あるいは指示物)とされているのは「教会」(ekklesia)である。したがって、ある者のイスラエルに関する理解(すなわちイスラエル論)は彼の教会に関する理解(すなわち教会論)に大きな影響を及ぼす、ということは容易に理解され得る*3
 また、イスラエル論は(宇宙論的)終末論*4にも影響を及ぼすものである*5
 終末論の形成は、大部分が旧新約の終末に関する預言の解釈に依拠している。その中でも、特に旧約預言については、ほとんどの場合が「イスラエル」に直接関連したものである*6。すなわち、「イスラエル」の意味をどのように捉えるかによって、それらの預言が指示している事柄は異なって解釈されるということになる。したがって、論理的には、イスラエルについての考え方は終末論に直接的に影響を及ぼすものである。
 教会論も終末論も、キリスト者にとっては重要なテーマである。教会論という教理体系は、我々自身が教会という「キリストのからだ」(1コリ6:15;同12:27;エペ1:23;コロ1:24)に属しているが故に、重要である。終末論については、それが聖書に書かれている宇宙規模の神のご計画を理解しようという営みの結果であるが故に、聖書全体を神の啓示と見做す福音主義者は、真摯に向き合っていく必要がある。
 以上のことから、この「イスラエル」という用語についてワードスタディをしていくことは、福音主義者が聖書を理解する上で非常に重要な「鍵」であるといえるだろう。

1.「イスラエル」の意味に関する神学者たちの主張

 「イスラエル」についての詳細なワードスタディに入る前に、まずは聖書における「イスラエル」の意味について、幾人かの神学者たちがどのような主張をしているかに触れておきたい。
 少々短絡化した形となってしまうが、「イスラエル」の意味についての近年の神学者たちの主張は、次の2つのいずれかに分類されるといっていいだろう。

  1. 旧約では「イスラエル」は神から選ばれたイスラエル民族あるいは国民を意味していた。新約では、「イスラエル」は新しい神の民である教会をも意味するようになった。(もしくは、教会の誕生以降、教会が[まことの/新しい]「イスラエル」となった。)*7
  2. 旧新約では「イスラエル」は一貫してイスラエル民族あるいは国家を意味している。*8

 前者の考え方は、結論としては「教会がイスラエル民族に置き換わった」というものである。こういった考えに基づいた神学的立場は、通常、置換神学(replacement theologyもしくはsupersessionism)と呼ばれる。対して、後者の「イスラエル民族と教会とは別個の存在である」という考えに基づいた神学的立場を非置換神学(non replacement theologyもしくはnon-supersessionism)という。置換神学と非置換神学については、後に項を改めて記述することとする*9

1–1.ブルッゲマンの主張

 ブルッゲマンは、旧約における「選び」という概念について次のように述べている。

「選び」とは、YHWHが世界の中からイスラエルを特別な自分の民として「選んだ」こと、またYHWHが御自身の未来をイスラエルの幸いのために献げることへの確信を言い表す伝統的な手法である。……つまり、YHWHはこのような決定をなす神であり、絶対にぶれることはなく、イスラエルと結びついている神である。*10

 また、その「選び」に基づいた旧約のイスラエル論を次のように要約している。

YHWHの選民というイスラエルの特別な身分には、トーラーを遵守することを通して、YHWHに服従して生きるための、根本的な、交渉の余地のない要求が伴うことは明白である。YHWHが、地上のすべての民の中から自分の宝としてイスラエルを選んだのは、イスラエルYHWHの意志に従うためである。*11

 ブルッゲマンによれば、神によるイスラエルの「選び」という概念の故に、旧約には「イスラエルの神は天地の造り主であり、それゆえ多くの人々の神である」という一見矛盾した認識*12が存在している。これは、イスラエルの選びを通して全人類が祝福されるという「聖書本文の決定的な主張の本質」*13に基づいている。

創世記12:1-3で、アブラハムに対するYHWHの約束によると、アブラハムを通して、すべての人々が祝福されることになっている。個人に対して約束を結んだ行為にもかかわらず、他者も考慮されている。……つまり、イスラエル出エジプトとともに、YHWHは多くの民族──イスラエルの敵を含む──を「脱出」させている。イザヤ書42:6-7と49:6では、イスラエルは「諸国の光」になる。*14

 一方で、彼の主張においては、アブラハムという個人からイスラエルという民の選びを通して諸国民が祝福されることによって、「YHWHから選ばれる民は複数となり、イスラエルは独占的な身分を持たなくなる」ものと理解されている*15。ここで彼はイザヤ書19:23-25を取り上げ、「この聖書本文が度々示唆することは、この神が他民族にもそれぞれ固有の選びの物語を与えているということである」と結論づけている*16

1–2.ラッドの主張

 ラッドは、旧約における「イスラエル」とは「神が召した特別な民」であり、「アブラハムの子孫である選民」であるとしている*17
 しかし、彼によれば、新約の啓示のもとで「旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され」たことを受けて*18、「イスラエル」の意味もまた変化したのだという。

パウロの最初の論点は、「イスラエル」つまり真の霊的イスラエル──神の民──はアブラハムの肉的子孫と同一ではないということである。「イスラエルから出る者〔本来の血縁の子孫〕がみな、イスラエル〔霊的な子孫〕なのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく……」(ローマ九・六—七)*19

 彼は、ローマ書9:25-26におけるホセア書1:10および2:23の引用に着目している。パウロは、将来のイスラエルの救済を告げるホセア書の預言を「大部分が異邦人から成るキリスト教会に当てはめ」た*20。このことは、新約聖書において教会が「新しいイスラエル、真のイスラエル、霊的イスラエル」になったことを示している*21

言い換えると、パウロは、ホセア書一・一〇と二・二三の預言が教会において霊的に成就されたと見ているのである。したがって必然的に、異邦人教会における救いの出来事は、イスラエルになされた預言の成就であるということになる。このような事実があるからこそ、筆者を含む聖書を学ぶ者たちは、教会は新しいイスラエル、真のイスラエル、霊的イスラエルであると言わざるをえないのである。*22

 また、「この結論は、パウロがクリスチャンを(霊的な)アブラハムの子孫と言っている箇所によって支持される」*23。その箇所とは、ローマ書4:11-12, 16、そしてガラテヤ書3:7である。ラッドの論理によれば、「イスラエル」とは「アブラハムの子孫である選民」であり、教会もまた「(霊的な)アブラハムの子孫」であるが故に、教会は新しい/真の/霊的イスラエルだということになる*24
 一方で、彼はローマ書11:17-24の「オリーブの木のたとえ」や同11:26を引用し、「生きているユダヤ人の大多数、すなわち『イスラエルはみな』救われる日が訪れる」という確信を示している*25。ラッドの理解では、この出来事はキリストの再臨と関連付けられている。「[キリストの]再臨の目的の一つとして、キリストのもとに教会を集めることとともに、イスラエルを贖うことがあるのだろう。」*26

第一に、神はご自分の民を保護してこられた。イスラエルは「聖なる」民(ローマ一一・一六)のままであり、聖別されており、神の目的を遂行することが定められている。第二に、まだすべてのイスラエルが救われているわけではない。……第三に、イスラエルの救いは、……すでに教会との間で制定されているキリストの血による新しい契約を通してでなければならない。*27

1–3.岡山の主張

 岡山によるヨハネの黙示録についての注解書の中では、7:4(イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった)における「イスラエルの子孫」は、「文字どおりのイスラエルではない」と解釈されている*28
 第一の根拠は、「144,000人に押された印は『小羊』と『小羊の父』の名であ」ることである。それ故に、黙示録7:4の「イスラエルの子孫」は「民族的なイスラエルを超えた神の民全体を示している」*29
 第二に、「『14万4千人』は12 × 12 × 1,000[という象徴的な数字]であり、具体的な人数というよりはむしろ神の民全体を示している」*30
 第三に、黙示録7:5-8における「14万4千人」に含まれるイスラエル12部族の人数のリストは、「旧約聖書のリストとは異なる独自のリストである」*31。そこで計上されている部族は、旧約のいずれのリストとも異なっている。したがって、「[黙示録7章のリストは]このように独自のリストであり、『14万4千人』は文字どおりのイスラエル民族ではない」*32
 以上の岡山による黙示録7:4-8の解釈によれば、新約では「イスラエル」が民族を超えた「神の民」全体を指すようになった、ということになる。

1–4.Wrightおよびマクナイトの主張

 Wrightが新約聖書神学の探究において達した結論は、「イスラエルの役割はイエスにおいて成就し、イエスに属する民が新しいイスラエルとなった」というものである。

イスラエルの役割は、イエスの働きによって頂点に達した。……イスラエルの歴史はその意図が達成されたために、今やイエスに属する民は、民族的イスラエルと同一ではなくなった。彼ら[イエスに属する民]は、自分たちが新しい状況下においてイスラエルを継続したと主張した。また、彼らは自分たちのアイデンティティを表現するために、自由にイスラエルのイメージを用いることができるようになったと主張した。さらに、自分たちはイスラエルの聖書を(メシアと聖霊というレンズを通して)読み、生活に適用することができるようになったと主張した。*33

 マクナイトの主張もまた、Wrightに準ずるものである。彼は聖書全体の物語(ナラティヴ)に着目し、次のような結論を下している。

神は一人の人アブラハムをお選びになり、彼を通して一つの民族イスラエルをお選びになった。後には、イスラエルを通して教会(the Church)を選ばれた。それは、神の祭司とし、また神の代理人として、この世界を統治する者とするためだった。*34

イエスの物語はイスラエルの物語を完結させるものだ。つまり、イスラエルの物語の成就であり、完成であり、解決である。本書では以下、時折「完成」という言葉を用いるが、それは「成就した」、つまりイスラエルの物語が完結点に達したという意味であり、物語がそれで終わったと言っているのではない。教会はさらに続き、究極的完成はこの後にやって来る。*35

 マクナイトの物語神学(narrative theology)によれば、「[イエスや使徒たちが宣べ伝えた]福音とは、イエスの救いの物語の中において完成されるイスラエルの物語であ」り、「この福音を自分のものとして受け止めるとは、神の物語を神の民についての物語として受け止めることなのである」*36。ここには、Wrightと同様に、教会を旧約におけるイスラエル民族の延長として捉える考え方が見られる*37

1–5.Bockの主張

 Bockは、ルカによる書物(ルカの福音書および使徒の働き)における「イスラエル」の扱いについて調査をしている。その結果、彼は以下のように述べている。

ルカ—使徒では、イスラエルの物語は変更されておらず、その物語は世界の希望の物語である。異邦人が包含されることは、イスラエルを除外することを意味しない。このことは我々に対して、トーラーと預言者が本来のイスラエルに与えた物語を書き換えてしまうことのないように警告している。……ルカ—使徒では、イエスの物語はイスラエルの物語であり、世界を祝福する物語である。その物語には、預言者たちが約束したように、イスラエルがイエスを受け入れ、神が[イスラエルの]国を再建してくださるという希望がある。*38

 彼によれば、確かにルカ–使徒では、神の計画には異邦人も含まれていることが強調されている*39。しかし、それはイスラエルの意味が変化したことを意味するものではない。
 「イエスの物語はイスラエルの物語であり、世界を祝福する物語である」というナラティヴの理解は、先に取り上げたマクナイトによるものと類似している。主に異なっているのは、Bockは旧約の「イスラエル」の意味が新約でも変更されていないものと考えている点においてである*40

1–6.Kaiserの主張

 Kaiserは、パウロ書簡(特にローマ書9–11章)の釈義から、旧約における「イスラエル」の意味は新約でも継続していることを主張している*41
 彼はNew International Version(NIV)を対象に、ローマ書以外の書簡における5回の「Israel」の使用例、そしてローマ書9–11章における14回の「Israel」および「Israelite」の使用例を調査した結果、以下のように述べている。

……この[ローマ書9–11章における14回の繰り返しは]次のことを強調している。パウロはイスラエルの中から、彼らを代表して語っているのである。パウロがイエスへの信仰によってイスラエル[の民であるという]メンバーシップを放棄したと考えるならば、我々は彼のことをおそろしく誤解している。この使徒は決して彼のユダヤ的伝統と彼自身の民から離れてはいない。彼は、Tenakh[旧約聖書]で教えられているユダヤ的信仰を一貫して持ち続けていると教えていたのである。
 パウロはイスラエルに対して何ら新しい定義を提示していない。彼にとっては、ただ一つのイスラエルしかなかったのである。*42

 パウロはローマ書9:4-5で、「子とされること」「栄光」「契約」「律法を与えられること」「礼拝」「約束」「先祖たち」「人としてのキリストの先祖であること(NIV)」といったイスラエルの本質を挙げている。そして、こういった「神の賜物と召命とは変わることが」ない(ロマ11:29)。
 また、神の「約束」という観点から、次のように述べている。

ユダヤ人は、神が父祖たちにお与えになった約束の故に、神から永遠に愛されている(ロマ11:28)。その上、イザヤ書45:17の約束は真実である。「イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入る。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない。」このことは、「イスラエルはみな」救われるときに成就する。
 したがって、我々は約束における終末的イスラエルを歴史上の民族的イスラエルから切り離して考えてはならない。パウロがこの3つの章で言及しているイスラエルは、「ヤコブ/イスラエルの子孫」である(ロマ9:6, 10)。その上さらに、異邦人の救いはイスラエルの救いに密接に関連しており、それらは同じ神の目的、神の計画における2本の腕なのである。*43

 そして、教会の時代におけるイスラエルと異邦人の関係について、KaiserはBockと同様な結論に達している。

彼ら[異邦人]はイスラエルのパートナーであるが、イスラエルではない。信者として、異邦人は「アブラハムの子孫」である(ガラ3:29を見よ)。しかし、これは「イスラエルの子孫」であるということと同じではない。……神は、他の国々をもご自身のものとして呼ばれる。たとえば、エジプトは将来の主の日において「わたしの民」と呼ばれている(イザ19:25)。また、神は異邦人を「御名をもって呼ばれる民」として扱っておられる(使15:14)。しかし、聖書記者が新しい信者たちを「新しいイスラエル」と見なし、また民族的イスラエルと同一視している事例は見当たらない。*44

1–8.ウィルソンの主張

 ウィルソンはローマ書11章の「オリーブの木のたとえ」から、パウロの「イスラエル」理解を説明している*45

 第一に、パウロは異邦人クリスチャンを栽培種に継がれた野生種のオリーブとして描いています(ロマ11・17、24)。……優越性を持たず、ただ「信仰によって立ってい(る)(ロマ11・20)」異邦人クリスチャンは、[選ばれた栽培種である]イスラエルに接がれることによって、満ち足りた人生と活力を注入されるのです。
 二番目に、私たちはオリーブの木の「根」を正確に定義する必要があります(ロマ11・16〜18)。……文脈から判断するなら、根は族長たち、すなわち神の民の父祖アブラハム、イサク、ヤコブらを指していると分かります。……これらの信仰に満ちた、深く根を張ったユダヤ人という管を通して、神は救いと恵みを約束されました(創12・3)。パウロの時代に、その時は満ちました。異邦人クリスチャンはこの時から、生ける神を愛して従った、あの神秘的な残りの者、イスラエルに接がれたのです。*46

 ラッドはローマ書11:17のオリーブの木を「神の民」として解釈していた。ウィルソンはここで、オリーブの木の「根」は「父祖アブラハム、イサク、ヤコブ」であり、その木は父祖たちの子孫である「イスラエル」だと解釈している。
 このように、ウィルソンは「イスラエル」の意味をアブラハム、イサク、ヤコブの子孫として捉えており、その意味は新約においても変わっていないと考えている。したがって、彼は教会を「新しいイスラエル」と呼ぶことを拒否している*47

1–9.Saucyの主張

 Saucyは、旧新約における「イスラエル」の使用例を調査した結果、まず次のように述べている。

したがって、「神の民」としての霊的な重要性があることに加えて、旧約のイスラエルは諸国民の中の字義的な民族である。*48

イスラエルと教会の関係という問題において、この民族的要素は留意されるべきである。この要素が新約の教会理解に欠けていることは明らかである。*49

 また、新約における「イスラエル」の使用例についても、「イスラエルの名は旧約の『民族的』な契約の民と関連づけられている」*50

ルカの福音書と使徒の働きにおける27回の使用例について、Jervellはこのように結んでいる。「ルカの書物において、「イスラエル」は常にユダヤ民族を示している。教会を特徴づけるために用いられていることは一度もない。すなわち、その用語は、ユダヤ人と異邦人からなるキリスト者を指す専門用語としては、一度も使われていない。」*51

……パウロによるイスラエルの使用例は、歴史における神の救いの計画の中で教会が「新しいイスラエル」の立場になったというような、旧約のイスラエルと教会の連続性という考えを支持してはいない。*52

 第一ペテロ書2:9で「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」といったイスラエルの特徴が教会に適用されているなど、新約ではイスラエルの「イメージ」が教会を表現するために用いられることもある*53。Saucyはこのことについても触れ、結果として旧新約を通して「イスラエル」の意味は一貫しているものと主張する。

……[第一ペテロ2:9などのように、]イスラエルに関することが教会に適用されているにも関わらず、「イスラエル」という名が用いられることは慎重に避けられている。……したがって、新約著者は、「イスラエル」という用語の意味について、旧約における民族的イスラエルという意味から変更されたということに何ら支持を与えていない。また、イスラエルと教会に対する類似した述語についても、教会を「新しいイスラエル」とする意味での神の民としての連続性を主張しているわけではない。*54

1–10.Fruchtenbaumの主張

 以上の近年の神学者たちの見解では、旧約における「イスラエル」は神に選ばれた「民族」を意味するという点において一致が見られる。見解が分かれているのは、新約における教会(ekklesia)を「新しいイスラエル」と見做すかどうか、あるいは「イスラエルの延長」と見做すかどうかという点である。
 Fruchtenbaumは、まず教会という存在の特徴から、教会と「イスラエル」という存在を同一視することを拒否している。その特徴とは、以下の6点である*55

  1. 教会の存在はペンテコステの日に始まった(使2:1-4;同11:15-16)。
  2. 教会が設立されるための必須条件は、メシアの死、復活、そして昇天である(マタ6:18;同16:21;エペ1:20-23;同4:7-11)。
  3. 教会は旧約では啓示されておらず、新約で初めて啓示された「奥義」である(エペ3:1-12;コロ1:24-27;同2:10-19;同3:4, 11)。
  4. 教会はイスラエルと異邦人から成る「新しいひとりの人」である(エペ2:15)。
  5. パウロはユダヤ人、ギリシャ人、教会を同列に置き、区別して扱っている(1コリ10:32)。
  6. イスラエルという用語は決して教会に用いられていない。

 上記の6. の説明として、Fruchtenbaumは新約における全73回の「イスラエル」の使用例を調査した内容を提示している*56。その結果をふまえ、彼は次のように述べている。

……結論は、教会は決して「霊的イスラエル」や「新しいイスラエル」とは呼ばれていない、ということである。イスラエルという用語は国家もしく民族全体を指すか、その中の少数の信仰者を指すかのいずれかである。この用語は、決して、教会全体もしくは特別に異邦人信者を指すためには用いられていない。*57

今回の結論

 ここでは、聖書における「イスラエルの意味」について幾人かの神学者たちの主張を取り上げ、観察を行った。その結果を以下に要約して示す。

  1. 旧約における「イスラエル」は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫である神に選ばれた「民族」あるいは「国家」を指す。
  2. 新約における「イスラエル」の意味については、議論が分かれている。ある者は、新約における「イスラエル」は、新しい「イスラエル」もしくは「イスラエル」という存在の延長としての「教会」をも意味するようになったと考えている。ただし、この理解は必ずしも「イスラエル」の意味の中からイスラエル民族が取り除かれたということを主張しているわけではない。
  3. またある者は、新約においても「イスラエル」はイスラエル民族あるいはその中の少数の信仰者を指しているのであって、「教会」や「神の民」全体を指すようになったわけではない、と考えている。

 次回以降では、筆者なりの「イスラエル」理解を示すため、「イスラエル」の意味について聖書本文から調査をした結果を提示していく。

*1:なお、翻訳であるため、原語で登場する回数とは異なっている。

*2:井上永幸赤野一郎編『ウィスダム英和辞典』第3版(三省堂、2013年)

*3:Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 10; Id., 851-56; Craig A. Blaising, "The Future of Israel as a Theological Question," To the Jew First: The Case for Jewish Evangelism in Scripture and History, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2008) 117-19.

*4:ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第4巻、森谷正志訳、宇田進監修(いのちのことば社、2006年)370頁

*5:Fruchtenbaum, Israelology, 856; Blaising, "The Future of Israel as a Theological Question," 119-21.

*6:ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)6–7頁
 なお、原著はGeorge Eldon Ladd, The Last Things: An Eschatology for Laymen (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1978)

*7:詳細な議論については、以下の文献を参照のこと。Marten H. Woudstra, "Israel and the Church: A Case for Continuity," Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testament, John S. Feinberg, ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988) 221-38.

*8:詳細な議論については、以下の文献を参照のこと。Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing Group, 2010) 109-20; Id., 141-64.

*9:このテーマについての詳細な議論は、以下の文献を参照のこと。Vlach, Has the Church Replaced Israel?; R. Kendall Soulen, The God of Israel and Christian Theology (Minneapolis, MN: Augsburg Fortress, 1996)

*10:W・ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典 響き合う信仰』小友聡・左近豊監訳(日本キリスト教団出版局、2015年)67頁
 なお、原著はWalter Brueggemann, Reverberations of Faith: A Theological Handbook of Old Testament Themes (Louisville, London: Westminster John Knox Press, 2002)

*11:前掲書、67頁

*12:前掲書、70頁

*13:前掲書、71頁

*14:前掲書、70頁

*15:同上

*16:同上

*17:ラッド『終末論』6頁

*18:前掲書、29頁

*19:前掲書、25頁

*20:前掲書、28頁

*21:Cf. George Eldon Ladd, A Theology of the New Testament, Donald A. Hagner ed., Revised ed. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1993) 379; Id., 583-85; 安黒務「『福音主義イスラエル論』─神学的・社会学視点からの一考察─」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会、2014年)108頁

*22:ラッド『終末論』30頁

*23:前掲書、30–31頁

*24:Cf. Ladd, A Theology of the New Testament, 584.

*25:ラッド『終末論』32–34頁;ラッドはローマ書11:17-24の「オリーブの木のたとえ」について、栽培種の枝はユダヤ人(イスラエル民族)、野生種の枝は異邦人であり、彼らが繋がっている「オリーブの木」そのものは「神の民」であると解釈している。Cf. Ladd, The Gospel of the Kingdom (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1959) 117-18; Id., A Theology of the New Testament, 584.

*26:前掲書、34頁

*27:前掲書、38頁

*28:岡山英雄『ヨハネの黙示録注解──恵みがすべてに』(いのちのことば社、2014年)172–74頁

*29:前掲書、172頁

*30:同上;[]内は引用者による付記である。

*31:前掲書、173頁

*32:同上;[]内は引用者による付記である。

*33:N. T. Wright, The New Testament and the People of God (Causton Street, London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1992) 457-58; 太字強調部は原文における斜体強調部を示す。

*34:スコット・マクナイト『福音の再発見─なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか』中村佐知訳(キリスト新聞社、2013年)44頁
 なお、原著はScot McKnight, The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2011)

*35:前掲書、46頁

*36:前掲書、226頁

*37:なお、マクナイトはWrightや彼自身の考え方がsupersessionismに分類されることを認めている。Scot McKnight, “NT Wright and the Supersessionism Question: What did Paul do?,” Patheos (Oct 15, 2013), accessed Oct 1, 2015.

*38:Darrell L. Bock, “Israel in Luke-Acts,” The People, the Land, and the Future of Israel: Israel and the Jewish People in the Plans of God, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2014) 113.

*39:Id., 112.

*40:Id., 104, 113.

*41:Walter C. Kaiser Jr., “Jewish Evangelism in the New Millennium in Light of Israel’s Future (Romans 9-11),” To the Jew First, 40-52.

*42:Id., 44.

*43:Id., 44-45.

*44:Id., 45; []内は引用者による付記である。

*45:マービン・R・ウィルソン『私たちの父アブラハム』B.F.P.Japan 出版部訳(B.F.P.Japan、2015年)27–32頁
 なお、原著はMarvin R. Wilson, Our Father Abraham: Jewish Roots of the Christian Faith (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1989)

*46:ウィルソン『私たちの父アブラハム』30–31頁;なお[]内は引用者による付記である。

*47:前掲書、132–35頁

*48:Robert L. Saucy, "Israel and the Church: A Case for Discontinuity," Continuity and Discontinuity, 244.

*49:Ibid.

*50:Id., 244-45.

*51:Id., 245; 「」内はJacob Jevell, Luke and the People of God (Minneapolis: Augsburg, 1972) 315からの引用である。

*52:Saucy, "Israel and the Church," 248.

*53:なお、第一ペテロ書2:9については異論もある。Fruchtenbaumは、第一ペテロ書は主に離散したユダヤ人信者に宛てられた書簡であり、2:9はユダヤ人信者を表現しているものと主張している。Fruchtenbaum, Ariel's Bible Commentary: The Messianic Jewish Epistles (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2005) 317-22; Id., 342-44.

*54:Saucy, "Israel and the Church," 249.

*55:Fruchtenbaum, Israelology, 680-83.

*56:Id., 684-99. なお、同内容は以下にも収録されている。Fruchtenbaum, "Israel and the Church," Issues in Dispensationalism, Wesley R. Willis and John R. Master, eds. (Chicago: Moody Press, 1994) 113-30.

*57:Fruchtenbaum, Israelology, 699. なお、太字強調部は原文における斜体強調部を示す。