軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

聖書における「イスラエル」の意味(3)

 聖書における「イスラエル」の意味を探っていこうとするシリーズの第3回目です。
 前回はモーセ五書〜バビロン捕囚以降に至るまでの「イスラエル」の意味を旧約聖書から調べていきました。その結果、この用語は最初使われたときはヤコブの別称でしたが(創32:28)、その後は彼の子孫であるイスラエルの12部族から成る民族全体、あるいはその民族から成る国家を指す用語としても使われていることがわかりました。

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 今回は「旧約聖書における『イスラエル』の意味」の続きとして、「イスラエルの地」や「イスラエルの神」といった表現に着目して後、旧約聖書の中では最も論争があると思われるイザヤ書49:3における「イスラエル」の意味について考察してみたいと思います。

トピック

2.旧約聖書における「イスラエル」の意味(続き)

2–4.「イスラエルの地」

 旧約聖書における「イスラエル」の用法を観察する中で重要であるのが、イスラエル民族の居住地、あるいは古代イスラエル王国の国土を指して「イスラエルの地」という表現が使われていることである(Iサム13:19;II列5:2;エゼ12:19;同37:12など)。特に「イスラエル」にイスラエル民族から成る国家の意味がある場合、そこには領域(土地)という概念が含まれて然るべきである。それらの場合、旧約聖書における「イスラエル」は単なる共同体以上の意味が含まれた概念である、ということになる。
 この「イスラエルの地」は、アブラハムに神が約束された地(創12:7;13:14-17;15:18-21;17:8)と同義であるものと考えられる。その地は、カナンの地である(創11:31など)。
 アブラハムへの土地の約束は、後に息子イサクに引き継がれた(創26:3)。また、イサクの妻リベカがエサウとヤコブを身ごもったとき、神はアブラハムとイサクへの約束を引き継ぐのは弟ヤコブであると明らかにされた(創25:23)。ここでエサウとヤコブが「国」または「国民」になると表現されていることから、そこには土地の約束が既に含まれていると考えてもよいだろう。さらに、その土地に関する約束は、明確にヤコブに与えられている(創28:15)。
 ヤコブの息子ヨセフは、将来自分たち12部族の子孫が「アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地」に帰還するであろうということを確信していた(創50:24)。また、モーセは、イスラエル民族が「が、……アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地」を相続すると預言した(申30:20;また、申12:9-10参照)。
 アブラハムからイサク、ヤコブ、そしてイスラエル民族へ引き継がれた契約(アブラハム契約)は、土地以外にも様々な約束を含んでいる。FruchtenbaumやSaucyは、その契約の持つ側面は「子孫」「土地」「祝福」の3つであると主張している*1
 このアブラハム契約は、神とイスラエル民族の関係を規定しているものである*2出エジプト記2:24-25によれば、民の出エジプトは「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」の故に実行されたものである(創15:13-16参照)。さらに、歴代誌第一16:15-22は、アブラハム契約がイスラエル民族に対する契約であることを明確に教えている*3
 土地の約束はアブラハム契約の一要素であることを考えると、この契約がアブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちからイスラエル民族へ継承されたという事実から、イスラエル民族には土地の約束が与えられたということが考えられる(そして事実、土地の約束はイスラエル/ヤコブとその子孫に継承されている)。すなわち、旧約聖書が「イスラエルの地」と表現するとき、その土地が「アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地」と同義語であるということは十分にあり得ることである。
 このように、旧約聖書における「イスラエル」という存在には土地の所有が約束されているということは、この存在が単なる「共同体」以上の概念であるということを示している。
 なお、アブラハム契約については、旧新約聖書における「イスラエル」の意味について調査を行った後、本シリーズの中でこの「イスラエル」という存在そのものについて考察する際に詳しく取り上げることとしたい。

2–5.「イスラエルの神」

 神はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出3:6)、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」(出4:5)と呼んでおられるが、「イスラエルの神」(出5:1)としてもご自分を啓示されていることは、注目に値する。この呼称は、他にもIサム1:17;詩41:13;イザ17:6などに見られる。新改訳第三版では、この「イスラエルの神」という呼び方は旧約聖書で204箇所に用いられている。
 ヤハウェが「イスラエル[という民族]の神」であるということは、聖書における神の重要なご性質のひとつである*4。ブルッゲマンが言うところの「イスラエルの神は天地の造り主であり、それゆえ多くの人々の神である」という認識*5は、聖書の神論に一貫して見られる。
 Soulenによれば、神が「イスラエルの神」であるということは、神学における「強固な土台」であるという*6。これは、旧約聖書における「イスラエルの神」という神認識の重要性から見て、妥当な主張であると考えられる。

2–6.イザヤ書49:3の問題

 2–1.〜2–5.で見たように、旧約聖書において「イスラエル」とは第一にヤコブの別称である。そして、ヤコブの子孫であるイスラエル民族、またその民族の王国を指すようになった。さらに、その民族にはアブラハム契約により土地が与えられていること、また王国であれば国土も有していることから、「イスラエル」という用語の概念の中には、民族に神が与えられた土地も含まれているものと推測される。
 しかし、イザヤ書49:3における「イスラエル」の用法は、上記の意味に当てはまるとは言い難い。この箇所における用法を確認するために、以下にイザヤ書49:1-6を引用する。

1: 島々よ、私に聞け。
遠い国々の民よ。耳を傾けよ。
は、生まれる前から私を召し、
母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。
2: 主は私の口を鋭い剣のようにし、
御手の陰に私を隠し、
私をとぎすました矢として、
矢筒の中に私を隠した。
3: そして、私に仰せられた。
「あなたはわたしのしもべ、イスラエル
わたしはあなたのうちに、
わたしの栄光を現す。」
4: しかし、私は言った。
「私はむだな骨折りをして、
いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。
それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、
私の報酬は、私の神とともにある。」
5: 今、は仰せられる。
──主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、
イスラエルをご自分のもとに集めるために、
私が母の胎内にいる時、
私をご自分のしもべとして造られた。
私はに尊ばれ、
私の神は私の力となられた。──
6: 主は仰せられる。
「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、
ヤコブの諸部族を立たせ、
イスラエルのとどめられている者たちを
帰らせるだけではない。
わたしはあなたを諸国の民の光とし、
地の果てにまでわたしの救いを
もたらす者とする。」

 ここでは、「私」と名乗る者がヤハウェと会話をしている。この「私」と名乗る者は、49:5によれば「主は……私をご自分のしもべとして造られた」のであり、彼はいわゆる「ヤハウェの僕」であることがわかる。
 「ヤハウェの僕」への言及は「イザヤ書40章から55章において……繰り返し見られ、それは通例イスラエルのことと見做される」*7。しかし、49:6では、その僕が「ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせ」、さらに「諸国の民の光と」なり、「地の果てにまでわたし[]の救いをもたらす者と」なるということが言われている。ここでの「ヤハウェの僕」がイスラエル民族であると考えるならば、イスラエル民族が「ヤコブの諸部族[イスラエル民族]を立たせ」るという預言になってしまい、意味が不明瞭になってしまう。
 しかしながら、神は49:3において、この「私」(ヤハウェの僕)のことを「あなたはわたしのしもべ、イスラエル」と呼んでおられる。彼が「ヤコブの諸部族」つまり民族的イスラエルを「立たせ、……帰らせ」る役割を果たすのならば、個人的に「イスラエル」と呼ばれているこの僕は何者なのだろうか。
 多くのキリスト教神学者は、49:3の「イスラエル(=ヤハウェの僕)」をイスラエルのメシアであるイエス・キリストへの言及と考える*8。この僕が49:6にあるような役割を為すことからすると、彼はイザヤ個人や他の旧約聖書の歴史的人物として捉えられるよりも、メシア的人物として捉えられた方が適切であるものと考えられる*9
 この考えが発展させられ、キリストが「真のイスラエル」であるが故に、キリストの内にいる信者もまた(ユダヤ人か異邦人かに関係なく)「真のイスラエル」であるとする主張がなされることがある。

キリストが真のイスラエルであるがために、真のアブラハムの子孫、すなわち信仰と聖霊の働きによってキリストの内にある我々は真のイスラエルである。民族的な子孫の故ではなく、イスラエルの信仰を継承しているが故にそうなのである。*10

しかし、おそらくはSaucyが言うように、「来るメシアを『イスラエル』と呼ぶことは、『キリストの内に』ある者がすなわちイスラエルであるという教えの根拠とは成り得ない」*11
 僕が「諸国の民の光と」なるという49:6の約束は、他の箇所において民族的イスラエルに与えられている約束でもある。先に触れたアブラハム契約では、「地上のすべての民族は、[アブラハム]によって祝福される」ことが約束されていた(創12:3)。この条項は土地の約束と同様に、イスラエル/ヤコブとその子孫へと継承されている(創28:14)。なお、新約聖書においては、パウロもまた、彼らによって異邦人が益を受けることを示唆している(ロマ11:12)。
 イザヤ書49:5によれば、僕というメシア的人物はイスラエルを救う者である(ルカ1:68-79参照)。その彼がイスラエルに与えられている役割を果たすのは、彼がイスラエル民族から出て民族を救う者であり、さらにその民族の代表者であるからにほかならないだろう*12。したがって、メシア的人物が「イスラエル」と呼ばれているのは民族的イスラエルという概念が前提とされているからであり、彼がイスラエル/ヤコブの子孫であること、また彼がその子孫の代表者であることを強調しているのだと推測される。

イザヤは「イスラエル」という敬称をメシアに適用している。なぜなら、彼はまことの僕であり、イスラエルの役割を最終的に成し遂げる方だからである。しかし、このことはイスラエルの意味の変化、あるいは僕の民族[ヤハウェの僕である民族]としての拒否を意味しているわけではない。*13

キリストがまことのイスラエルであるということは神の計画におけるイスラエル民族の終焉を意味していないというだけではない。キリストの存在はイスラエル民族の回復をも意味している。Robert Thomasが述べているように、「[イスラエル]民族に益をもたらす僕の贖罪の働きを通して、その民族は遂には彼とひとつになり、それによって主の栄光をたたえるのである」。*14

 以上の考察に基づき、イザヤ書49:3については次のことが言えるだろう。

  1. イザヤ書49:3では、例外的にメシア的人物を指して「イスラエル」という用語が用いられている。
  2. メシア的人物が「イスラエル」と呼ばれているのは、彼が民族的イスラエルの代表者だからである。
  3. それによって、メシア的人物がイスラエル/ヤコブの子孫であることが強調されている。

 1. 〜3. のような意味では、メシア的人物は確かに理想的なイスラエル*15であり、「真のイスラエル*16ということもできるだろう。しかし、ここにおいても民族としてのイスラエルという概念は維持されているのであって、その基本的な意味に変化がもたらされたわけではない。
 また、旧約聖書における「イスラエル」という言葉の例外的用法としてはメシア的人物を含めることができる。しかしながら、旧約聖書における「イスラエル」という存在の定義としてメシア的人物を含めることは適切ではないものと考えられる。

2–7.旧約聖書における「イスラエル」の定義

 前回から続く2–1.〜2–6.から、旧約聖書における「イスラエル」の用法については、以下のようにまとめることができる。

  1. ヤコブの別称
  2. ヤコブの子孫である民族
  3. その民族から成る国家/王国(したがって、土地という概念を含む)
  4. (例外的に)メシア的人物

 そして、旧約聖書のナラティヴ全体を通した「イスラエル」という存在は、2. および3. の意味によって定義されるものと考えられる。
 2. による定義に着目した場合、それはFruchtenbaumによる「イスラエルという用語は神学的にはアブラハム、イサク、ヤコブのすべての子孫を示す」という定義*17と合致している。Saucyの場合は、2. に加えて3. の点をも大きく強調している*18

*1:Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 575-76; Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-Dispensational Theology (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1993) 42-46. ここでSaucyは「祝福」について、「a universal blessing via this nation on all the peoples of the earth」と表現している。

*2:Fruchtenbaum, Israelology, 577-81; Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism, 46-48.

*3:他にも、II列13:22-23;II歴20:7-8;ネヘ9:7-8;詩105:7-12を参照のこと。

*4:Craig A. Blaising, "The Future of Israel as a Theological Question," To the Jew First: The Case for Jewish Evangelism in Scripture and History, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2008) 112-13.

*5:W・ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典 響き合う信仰』小友聡・左近豊監訳(日本キリスト教団出版局、2015年)70頁

*6:R. Kendall Soulen, The God of Israel and Christian Theology (Minneapolis, MN: Augsburg Fortress, 1996) ix. なお、Soulenのこの著書では、まず20世紀までのキリスト教神学における「イスラエル」理解が詳細に観察・考察されている。さらに、神が「イスラエルの神」であるという視点から旧新約聖書を通した聖書神学が提示されており、一読に値する文献である。

*7:ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』169頁

*8:Fruchtenbaum, Messianic Christology: A Study of Old Testament Prophecy Concerning the First Coming of the Messiah (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 1998) 49; Saucy, “Israel and the Church,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testament, John S. Feinberg, ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988) 242; George Eldon Ladd, A Theology of the New Testament, Donald A. Hagner ed., Revised ed. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1993) 367, n. 3.

*9:なお、イザヤ書の「ヤハウェの僕」については、文脈によっては民族的イスラエルを指している場合もあることが認められている(Fruchtenbaum, Israelology, 823-24)。「ヤハウェの僕」に関するより詳細な議論については、以下を参照のこと。ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』169–71頁; Fruchtenbaum, Messianic Christology, 45-61; John B. Metzger, Discovering the Mystery of the Unity of God (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2010) 424-33.

*10:Robert B. Strimple, “Amillennialism,” Three Views on the Millennium and Beyond, Darrell L. Bock, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1999) 88-89. なお、太字強調部は原文における斜体強調部を示す。

*11:Saucy, “Israel and the Church,” 242.

*12:創49:10;イザ11:1;エレ23:5-6参照。新約聖書からの視点となるが、McKnightは、イエスの地上生涯での働きは旧約聖書で与えられていたイスラエルへの希望を成就させるため、またイスラエルに不信仰からの悔い改めを伝えるためのものであったということを強調している。Scot McKnight, A New Vision for Israel: The Teachings of Jesus in National Context (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1999) 10-13.

*13:Saucy, “Israel and the Church,” 242.

*14:Michael J. Vlach, “What Does Christ as ‘True Israel’ Mean for the Nation Israel?: A Critique of the Non-Dispensational Un-derstanding,” The Master's Seminary Journal, 23(1) (Spring 2001) 50-51. 文中の引用はRobert L. Thomas, “The Mission of Israel and of the Messiah,” Israel, the Land and the People: An Evangelical Affirmation of God’s Promises, H. Wayne House, ed. (Grand Rapids, MI: Kregel, 1998) 264による。

*15:Fruchtenbaum, Messiah Yeshua, Devine Redeemer: Christology from a Messianic Jewish Perspective, Come and See, Vol. 3 (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2015) 25-26.

*16:Strimple, “Amillennialism,” 87; cf. Blaising, “A Premillennial Response,” Three Views on the Millennium and Beyond, 145.

*17:Fruchtenbaum, Israelology, 2.

*18:Saucy, “Israel and the Church,” 243-44.