軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

聖書における「イスラエル」の意味(7)ローマ人への手紙11:26について:その2

 前回から、ローマ人への手紙11:26の「全イスラエルが救われる」ということの意味を考えてきています。

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 今回はその続きとなります。トピックは以下の通りです。

3.新約聖書における「イスラエル」の意味(続き)

3–3.ローマ人への手紙11:26(続き)

前回からの流れ

 本シリーズでは「新約聖書において『イスラエル』という術語は民族的イスラエルに限って用いられているのか、それとも民族を超えた『神の民』にも適用されているのか」ということを問題としている。したがって、ローマ人への手紙11:26の「全イスラエル」が(9:6でそうであったように)民族的イスラエルから逸脱した意味で用いられてはいない、ということを論じただけでも十分であろう。しかし、「全イスラエル」を「(ユダヤ人信者と異邦人信者の双方を含む)霊的イスラエル」と解釈する選択肢が除外されたとしても、その表現が指している具体的対象は何なのか、という問題が残されている。先述のようにこの11:26は「イスラエル」という存在の将来に関する預言的箇所でもあるため、今後の議論の土台として、ここで「全イスラエル」の意味についてさらに詳しく考察したい。

3–3–3.11:25-26に時系列的順序は見られるか

 まず、11:25-26に含まれている「イスラエルの一部がかたくなになった[状態]」、「異邦人の完成のなる時」、そして「[全イスラエルが]救われる」といった事柄について、それが時系列的な順序をもって説明することができるのかどうか、観察する必要があるだろう。
 「(全イスラエルが)救われる」(新共同訳)は、ギリシャ語では未来形であり、明確に将来の出来事を指している*1。そして、これが将来の出来事であるということは、現在は25節でパウロが言っているように「イスラエル人の一部[は]かたくなになった」ままである。したがって、同節の「異邦人の完成のなる時」の到来もまた将来の出来事であるといえる。
 新改訳第三版、新共同訳ともに、11:25-26はその内容が時系列で説明されているものとして翻訳されているようである。英語訳においても「a hardening has come upon part of Israel, until the full number of the Gentiles has come in. And so all Israel will be saved」と訳されており*2、そこには現在:イスラエル人の一部がかたくなである状態将来–1:異邦人の完成のなる時の到来将来–2:全イスラエルの救い、といった時系列的順序が見られる。
 しかし、Merkleは11:25-26を単純に時系列的記述として解釈することを拒否している。彼は、多くの英語訳で「until」と時系列的繋がりを示す語として訳されているachriについて、「終末的な完結を示している」ものと考えている*3。それを理由として、「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであ[る]」という記述から、イスラエル人の一部がかたくなな状態、異邦人の完成のなる時の到来、そして全イスラエルの救い、という時系列的に単純化された解釈を導き出すことは否定されている。

かたくなな状態はこの時代からキリストの再臨まで通して続く。パウロはかたくなな状態が覆されることを示唆しているのではなく、かたくなな状態は終末の時に完結することを示しているのである。*4

このMerkleの解釈は、「パウロが9–11章で問題にしているのはイスラエルの現在の状態のみである」という前提に立っている*5。しかしながら、彼の前提が確定的であるかどうかには、疑問を挟む余地があるものと考えられる。
 11:25-26以前では、パウロは父祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)を通して民族的イスラエルに与えられた契約に言及している(9:4-5;11:1-2a)。9:3-13に関しては「アブラハム契約の継承者」という点が議論の主題となっていることは、先に9:6について論じた中で指摘した通りである*6。また、11:28b-29についても、民族的イスラエルアブラハム契約が与えられていることを強調しているようである*7。このアブラハム契約には、既に述べたように、「民族的イスラエルを通した諸国への祝福」の約束が含まれている*8。この約束の概念は預言書において、終末的預言の文脈の中で発展させられている(イザ55:3-5;エゼ36:22-36など)。旧約聖書に精通していたパウロが、アブラハム契約に言及した際にこの約束を想起していたことは十分あり得る。さらに、ローマ人への手紙9–11章の文脈の中では、パウロアブラハム契約の将来的成就を排除し、現在的成就にのみ焦点を当てて預言を解釈していたことを指示する根拠は見られない*9。したがって、9–11章において「イスラエル」の現在の状態により焦点が当てられているのは確からしいが、それはパウロが「イスラエル」の将来にも言及している可能性を排除するものではない。また、パウロは11:1において「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか」という仮定の質問に「絶対にそんなことはありません」(mē genoito)と強力な否定表現をもって答えている。彼がこの質問への「否」という結論を弁証するために「イスラエル」の現在のみならず将来にまで(しかも旧約聖書からの引用を持って)言及しているということは、11:1の問題設定と矛盾するものではない。
 よって、たとえMerkleが主張するように11:25のachriが「終末論的な完結」を意味しており、11:25が「イスラエルのかたくなな状態が終末の時に完結する」ことを示していたとしても、11:25-26の時系列的解釈を否定するための根拠とはなり得ないものと考えられる。

3–3–4.「異邦人の完成のなる時」と「全イスラエルの救い」

 次に、「異邦人の完成のなる時」と「全イスラエルの救い」という両概念の時系列的および性質的な関係について考える。そのためには、kai houtōsという成句、pās Israēlという表現、そして将来におけるイスラエルの民族的救いという概念について検討する必要がある。
 第一に、11:26のkai houtōsという成句に着目したい。この句は新改訳第三版、新共同訳では「こうして」、ASVやNRSVでは「and so」、NIVでは「in this way」と訳されている。これは直訳では「in this manner」であり、時制というよりはNIVのように論理的繋がりを示している表現である*10
 ある者は、この「in this manner」が直前の11:25の「異邦人の完成のなる時」と結びつけられていることから、「全イスラエル」(pās Israēl)は「異邦人の完成」(to plērōma tōn ethnōn)と並行した概念であると考えている*11。ここでの「異邦人の完成」は、「救われる異邦人の数が満ちること」を指しているものと考えられる*12
 また、11:12で「彼ら[イスラエル]の完成(plērōma)」という表現が用いられていることから、11:26の「全イスラエル」は11:12の「[イスラエル]の完成」と同じことを指しているものと解釈されることがある。したがって、「全イスラエル」と「異邦人の完成」を並行した概念と捉えている者の多くは、「全イスラエル」について「救われるユダヤ人の数が満ちること」だと考えているのである*13。そうした釈義者たちは、11:25-26aに見られる各出来事のフローを以下のように捉えているといえるだろう。

イスラエルの救い → イスラエルの完成=全イスラエルの救い
   ‖  (並行関係)  ‖
異邦人の救い   → 異邦人の完成

すなわち、現在異邦人の中から救い出される者がおり、将来その数が満ちたときに「異邦人の完成の時」が来るように、現在イスラエルの中からも救い出される者=残れる者がおり、その選ばれた「残れる者」の数が満ちるとき、「全イスラエル」が救われることになる、と彼らは考えているのである。したがって、「全イスラエル」とは歴史を通した全ての「残れる者」のことであり、「全イスラエルの救い」は現在進行形で起きている出来事として捉えられている*14
 Vlachは、以上のような「救われる『全イスラエル』とは歴史を通した少数のユダヤ人信者たちであるという考えは、『奥義』(ロマ11:25)である、もしくは[11:33-36で展開されている]偉大な頌栄の主題であるとは考え難い」と述べている*15。このような見解に対して、「全イスラエル」と「異邦人の完成」を全く異なる概念として説明することはできるのだろうか。またその場合、11:12についてはどのように説明することができるのだろうか。
 ここで、11:26の「全イスラエル」(pās Israēl)という表現をさらに詳しく論じる必要が生じる。「全」(pās)は、文字通り「全員」を指す。Thayerはpāsが特定の国、都市、民族と合わせて使われている場合、それらの国、都市、もしくは民族の全体を指すものとしており、その一例として11:26を挙げている*16。Fruchtenbaumもまた11:26のpās Israēlイスラエル民族全体を指していると考えており、彼によればその意味するところは「全ての時代の全てのユダヤ人ではなく、特定の時期に生きている全てのユダヤ人」である*17
 Vanlaninghamは、パウロpās Israēlという表現の使用および理解は七十人訳聖書におけるpās Israēlという表現に基づいている可能性があることを指摘している*18

七十人訳において、「all Israel」という成句は最も包括的な意味で使われている時でさえ、通時的に(全時代を通した意味で)使われていることはない。むしろ、共時的に(ある特定の時における意味で)使われているのである。「all Israel」が主によって荒野に導かれた全ユダヤ人を指しているときでさえ、「all Israel」はその特定の時の特定の集団を指して使われている。……この事実は全イスラエルの救いが将来に起こるという見解[the futurist view of all Israel being saved]を指示している。*19

したがって、「パウロの表現と七十人訳の『all Israel』という成句に共通点を見出すことが可能であれば、[ロマ11:26の]『all Israel』という成句は、その文脈により指示された[特定の時の]『ユダヤ民族』を意味しているといえるだろう」*20
 以上のpās Israēlという表現に対して、「異邦人の完成」(to plērōma tōn ethnōn)という表現については「特定の時のある民族全体」という概念は見られない。したがって、「全イスラエル」と「異邦人の完成」を完全に並行した概念として捉える必然性はないものと考えられる。むしろ、上記のようなpās Israēlの理解に基づけば、「全イスラエルが救われる」という出来事は「特定の時にある民族全体が救われる」という出来事であり、「現在異邦人の中から救われる者が出ている状態が将来完成に達する」という「異邦人の完成」の概念とは性質が異なるものである*21
 この将来におけるイスラエルの民族的救いという特徴的な概念は、旧約聖書に既に見られるものである*22。たとえばゼカリヤ書12:9-10では次のように書かれている。

9: その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。
10: わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

さらに、パウロがローマ人への手紙11:26b-27で引用しているイザヤ書59:20-21も同様である。

20: 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」──の御告げ── 21: 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」とは仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」とは仰せられる。*23

この箇所では、ヤハウェが罪を悔い改めたヤコブ(民族的イスラエル)と契約を結び、それに伴って彼らの上に霊が注がれ、霊は民から離れることがないという約束が与えられている。ここには、(1)イスラエルの不従順の終結、(2)将来におけるイスラエルの民族的救い、といった2つの要素が見られる。また、この2つの要素は民族のもとに直接到来する「贖い主」なるメシア的人物と結びつけられている。
 さらに、将来イスラエル民族に与えられる「契約」という概念は、エレミヤ書31:31-34の「新しい契約」と結びついている*24。以下に引用するように、そもそも「新しい契約」はヤハウェと民族的イスラエルとの契約として啓示された概念である。

31: 見よ。その日が来る。──の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32: その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──の御告げ──
33: 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34: そのようにして、人々はもはや、『を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思いださないからだ。

上記の聖句について、以下に示す議論において明らかにしておくべきいくつかの前提条件がある。まず、ここではまだ、新約聖書における「イスラエル」の全用例について民族的イスラエルからの逸脱が見られるかどうか、議論が終了していない。しかし、現在のところ、ガラ6:16;黙7:4;同21:12を除いては、「イスラエル」はあくまで民族的イスラエルを指している(もしくはさらに狭義にイスラエルの残れる者を指す)と言っていいだろう。次に、旧約聖書では全体として「イスラエル」は民族的イスラエルを指していた。第三に、かつて示した漸進的啓示の性質に関する考察に基づいた解釈学的枠組み*25によれば、旧約聖書で啓示された内容は変更/置換されることはない。以上の3つの仮定に基づけば、「新しい契約」はイスラエルと結ばれたものであり、その契約はイスラエルの民族的救いを含んでいるのだということになる*26。このエレミヤ書31:31-34においても、イスラエルの不従順の終結と将来における民族的救いという要素が見られる。
 さらに、マタイの福音書23:39には次のような興味深いイエスの言葉が記されている。

あなたがたに告げます。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。

ここでイエスは、「あながた」=ユダヤ人たちが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言うまで、彼らが「わたし」=イエスを見ることはない、と言っておられる。この「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」という言葉は、詩篇118:26からの引用である。Saucyはこの点に着目して、次のように述べている。

この詩篇118:26から引用されている賛美の言葉は、ユダヤ人によってメシア的な詩篇として解釈されてきた。彼らはイエスの[エルサレム]凱旋の日、弟子たちによって引き起こされた熱狂により[この詩篇の言葉を]叫んだ。これらの事実に基づいて、G. R. Beasley-Murrayは次のように適切な解説をしている。「[ここで]イエスが……終わりの時に受ける賛美を表現している、ということを拒否する考えは……受け入れ難い。」それよりも、この裁きの宣告に続く主張は、エルサレムの人々がメシアを喜びをもって出迎えるという約束として捉えられるべきであろう。*27

確かに、イエスは23:37-38においてイスラエルの不従順な状態を強調し、彼らへの裁きを宣告しておられる。23:39もまたその流れに位置づけられているが、しかし(再臨の約束などの)イエスの教えを総合的に捉えれば、ここに「イエスの再臨のときにはユダヤ人はイエスを受け入れるようになるのだ」という希望を見出すことは可能である。さらに、この希望は先に取り上げたゼカリヤ書12:10などと調和している。したがって、Vlachが言うように、「マタイの福音書23:37-39は裁きと希望の両方を教えている。イスラエルの現在の世代には裁きがあるが、将来においては回復の希望がある」ということができるだろう*28
 ローマ人への手紙11:12の「[イスラエル]の完成」もまた、「将来におけるイスラエルの民族的救い」を意味しているものと考えられる。なぜなら、これまでの考察に基づけば、民族的イスラエルについては、その「完成」(plērōma)の時には、その時点での民族全体を含むことが11:26および複数の他の聖書箇所によって示唆されているからである*29
 以上のことをふまえると、「[イスラエル]の完成」は「選ばれた者の数が満ちる」という意味では「異邦人の完成」と類似しているということがいえる。しかし、その「選ばれた者」が「[イスラエル]の完成」時点での民族的イスラエル全体を含んでいる点で、両者は根本的に異なる概念であるともいえる*30。こういった理解に基づけば、11:25-26aの内容は以下のようなフローチャートで示されよう。

現在:イスラエルは現在かたくなな状態である(11:25)。それによって、「救いが異邦人に及んだ」(11:11)。
   ↓
現在:異邦人が救われ続けている。イスラエルからも召し出される「残れる者」がいるが(9:24-29)、全体としては不信仰の状態が続いている(11:7-10, 25)。
   ↓
将来:救われる異邦人の数が満ちる=異邦人の時が完成する(11:26)。
   ↓
将来:異邦人の完成の時にイスラエルのかたくなな状態が終了する。それによって(in this manner)、イスラエルが民族的に救われる(11:25-26)。そして、イスラエルが民族的に救われることで、イスラエルが完成する(11:12)。

 上記のフローチャートにおいて、「in this manner」(kai houtōs)は論理的接合部としての役割を果たしている。しかし、その論理の中には時系列的概念が含まれているため、ここではkai houtōsは時系列的順序を示す役割も同時に果たしている*31
 以上のことから、上記のフローチャートに示される理解は、ローマ人への手紙11:25-26の解釈の妥当な選択肢であるものと考えられる*32

3–3–4.まとめ

 これまでのローマ人への手紙11:26の観察および考察の結果からより妥当性が高いものと思われる解釈の要点を、以下に示す。

  1. 11:26における「イスラエル」の意味には、民族的イスラエルという概念からの拡張は見られない。
  2. 11:25-26は、将来の「異邦人の完成の時」にイスラエルのかたくなな状態は終結し、それによってイスラエルが民族的に救われることを教えている。
  3. したがって、11:26の「全イスラエル」はイスラエルの民族的救いが起こる時点におけるイスラエル民族全体を意味している。

 「新約聖書における『イスラエル』の意味」という本来の論点の中で最も重要であるのは、11:26の「全イスラエル」は、旧約聖書および新約聖書の大部分を通して一般的である「民族的イスラエル」という意味から逸脱した「イスラエル」の用例ではない、ということである。

*1:この箇所は、ASV、NASB、NIVおよびNRSVといった英語訳において未来形で訳されている。

*2:引用はNRSVからであり、斜体強調は引用者による。なお、KJV、ASV、NASBについても訳文はNRSVと同様に時系列的説明となっている。NIVにおいては、26節の「[a]nd so」が「[i]n this way」と訳されているが、25節については他の訳のように時系列的な説明として訳されている。なお、26節冒頭で「こうして」(新改訳第三版、新共同訳)、「[a]nd so」(NRSV)、また「[i]n this way」と訳されている「kai houtōs」という成句の解釈については後述する。

*3:Ben L. Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” Journal of the Evangelical Theological Society, 43(4) (December 2000) 715.

*4:Ibid., 716. Cf. Robert B. Strimple, “Amillennialism,” Three Views on the Millennium and Beyond, Darrell L. Bock, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1999) 117.

*5:Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” 711-14.

*6:拙稿「聖書における「イスラエル」の意味(5)ローマ人への手紙9:6について」を参照のこと。

*7:John Murray, The Epistle to the Romans, (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1997[1965]) 2:99-100; William Sanday and Arthur C. Headlam, A Critical and Exegetical Commentary of the Epistle to the Romans, The International Critical Commentary, 5th ed. (Edinburgh: T. & T. Clark, 1902) 337; Matt Waymeyer, “The Dual Status of Israel in Romans 11:28,” The Master's Seminary Journal, 16(1) (Spring 2005) 69.

*8:聖書における「イスラエル」の意味(5)ローマ人への手紙9:6について

*9:Michael G. Vanlaningham, “An Evaluation of N.T. Wright’s View of Israel in Romans 11,” Bibliotheca Sacra, 170 (April-June, 2013) 179-93.

*10:Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” 716. 一方、Fruchtenbaumは、文脈をふまえてロマ11:25-26のkai houtōsを含むテキスト全体を「論理的かつ時系列的順序を提供している」ものとして解釈している(Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 220-21)。

*11:A. T. Robertson, “Romans 11:26,” Word Pictures of the New Testament, in PC Software e-Sword X; Louis Berkhof, Systematic Theology (Edinburgh: The Banner of Truth Trust, 1958) 699; Strimle, “Amillennialism,” 117-18.

*12:Ibid., 118; Fruchtenbaum, Israelology, 220; 785.

*13:Berkhof, Systematic Theology, 699; Strimple, “Amillennialism,” 118; Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” 717.

*14:Berkhof, Systematic Theology, 699; Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” 717.

*15:Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing Group, 2010) 161.

*16:Joseph. H. Thayer, Thayer’s Greek-English Lexicon of the New Testa-ment: Coded with Strong’s Concordance Numbers, G3956. 他にThayerが挙げている用例はマタ2:3である。

*17:Fruchtenbaum, Israelology, 785.

*18:Vanlaningham, “The Jewish People according to the Book of Romans,” The People, the Land, and the Future of Israel: Israel and the Jewish People in Plans of God, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2014) 125. 旧約聖書における「all Israel」という表現の用例との比較については以下も参照のこと。Fruchtenbaum, Israelology, 785; J. Lanier Burns, “The Future of Ethnic Israel in Romans 11,” Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, eds. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992) 214.

*19:Vanlaningham, “The Jewish People according to the Book of Romans,” 125.

*20:Ibid. Cf. Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-Dispensational Theology (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1993) 254-56.

*21:Cf. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism, 256-61.

*22:Cf. Erich Sauer, The Dawn of World Redemption: A Survey of the History of Salvation in the Old Testament, G. H. Lang, trans. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1951) 119-20; Ibid., 153-54; Fruchtenbaum, Israelology, 793-808; Vlach, Has the Church Replaced Israel?, 177-82. このことについて、Sauerは次のように述べている。「しかし、メシアが現れるとき、パレスチナにいるイスラエルは(エレ16:15)、大きな民族的悔い改めを経験し(ゼカ12:10-14;黙1:7)、霊的に新生する──民族的な努力によってではなく、ナザレのイエスによってである。……イスラエルの死者からの霊的かつ民族的な『よみがえり』(エゼ37:1-14)は、彼らが聖になること、それに伴う祝福(イザ60:18;61:10)、そして主の栄光の祝福(イザ40:5;46:13)と密接に結びついている。『万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(イザ9:7)」(The Dawn of Wolrd Redemption, 154.)

*23:パウロはこの箇所をロマ11:26b-27において七十人訳より引用しているため、ヘブライ語聖書とは文言が異なっている。「しかし、我々はこれをパウロによって旧約聖書に描かれていることを再解釈しようとして故意に試みられた結果だと捉えるべきではない。……彼は、Murrayの注解にあるように、その[引用成句の]言葉の選びによって、贖い主とイスラエルとの関係に焦点を当てることを望んだのであろう。」(Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism, 262.)

*24:Walter C. Kaiser, “Kingdom Promises as Spiritual and National,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg, ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988) 302.

*25:以下の拙記事を参照のこと。

  1. 旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(後編)
  2. 旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その1)
  3. 旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その2)

 上記リスト1. の結論において4点から成る筆者の解釈学的枠組みを提示した。また、2. では福音主義神学における「新約聖書旧約聖書使用法」に関する各立場を概観した。そして、3. においてそれらの立場の問題点を指摘した上で、解釈学的枠組みの妥当性を補足している。

*26:イエスによって新しい契約が締結されたのは最後の晩餐の席であることから(ルカ22:20)、契約の締結と(ここで論じられている)イスラエルの民族的救いとの間に大きな時間的ギャップがある、ということはここではさほど問題ではない。アブラハム契約においても、その条項が成就するまでには大きな時間的ギャップが見られるからである(さらに、その中には未だ成就していない条項もあると考えられる)。

*27:Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism, 265. 文中の引用はG. R. Beasley-Murray, Jesus and the Kingdom of God (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1986) 306からのものである。

*28:Vlach, Has the Church Replaced Israel?, 187.

*29:なお、Vlachはイスラエルの「民族的救い」と「民族的回復」を区別している。彼によれば、「民族的回復」とは「イスラエルの約束の地への帰還と地上の千年王国における民族的役割[の回復]」を含んだ概念であり、その中には「民族的救い」も含まれている(Vlach, Has the Church Replaced Israel?, 12, n. 15)。厳密に表現すれば、もし「イスラエルの民族的回復」が聖書の終末論に見られるとすれば、「イスラエルの完成」は「イスラエルの民族的回復」が含まれることになるだろう。また、「全イスラエルの救い」に民族的回復の要素も見出されれば、それは霊的救済だけではなく民族的回復も含んだ表現だということになるだろう。しかし、こういったことは本項では論点としない。

*30:Merkleは、民族的イスラエルに特別な救いの計画が与えられているという考えは、ロマ10:12における「救いについてはユダヤ人と異邦人の区別はない」というパウロの教えと矛盾していると主張する(“Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” 712)。しかし、将来におけるイスラエルの民族的救いに関する議論では、人は福音を信じてイエスをメシアとして受け入れることによって救われる、という救済論については全く問題にされていない。イスラエルの民族的救いもまた彼らがイエスを信じることによってもたらされると考える限り、ユダヤ人と異邦人の間に救済論的区別はないという事実は「将来におけるイスラエル民族の特別な救いはない」とする根拠とはなり得ない。

*31:ロマ11:26のkai houtōsについてのFruchtenbaumの解釈は既に取り上げた。Saucyは「26節の導入部におけるhoutos(so)の基本的な意味は『thus』もしくは『in this manner』であるにもかかわらず、そこには時制的意味も含まれていることがある」と述べている(The Case for Progressive Dispensationalism, 258)。
 なお、Kaiserは、そもそも「in this manner」は11:25ではなく11:26b以下のイザヤ書からの引用にかかっているという理解を示している(“The Kingdom Promise as Spiritual and Natural,” 302)。

*32:なお、初期の教会史において、多くの場合、ロマ11:26はイスラエルの(大規模な)民族的救いが将来に起こることの根拠として解釈されてきた。「……教父時代の神学者の中には、教会を新しいもしくは真のイスラエルとみなしていた者もいた。しかしながら、この置換神学的信条は穏健なものであった。初期の神学者の多くは、旧約聖書の預言とローマ人への手紙11章におけるパウロイスラエルへの言葉をふまえて、イスラエルの民族的救いが来ることもまた信じていた。」(Vlach, Has the Church Replaced Israel?, 42.)