軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ヨハネの手紙第一 覚書き(2)手紙の背景について

 前回少しお話した通り、奉仕の準備としてヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

balien.hatenablog.com

 今回は、この手紙の背景についてです。本論に入るまでは先が長いですね(笑)。

トピック

はじめに(続き)

B.手紙の背景

1.執筆年代と執筆場所

 エイレナイオスの記述等の伝承を受け入れるならば、この手紙は使徒ヨハネがエペソに移り住んでから後にかかれたことになる。また、第四福音書の内容との比較から、この手紙は福音書より後に書かれたものだという説が注解者の間で広く受け入れられている*1。ストットは次のように言っている。

第一の手紙が宛てて書かれたのは、真理を既に知っていて、初めに聞いたことにとどまっているかぎり(Iヨハネ2・24)改めて教えられる必要のない人々である(Iヨハネ2・20–21、27)。NEBが第一の手紙に「基本を思い起こせ」と標題をつけているのは適切である。ヨハネは新しい真理を教えようとしているのではなく、また新しい戒めを命じているのでもない。そのようなことをするのは異端者たちである。ヨハネの役割は彼らが既に知っており、既に持っているものを思い起こさせることである。読者の側に想定されているのは、福音書についての知識、あるいは福音書に含まれている、ある程度の教理的理解である。Plummerが第一の手紙を「福音書についての注解」とか「福音書をテキストとした説教」と述べているのは、同意して良いと思われる。*2

第四福音書と第一の手紙が同一著者によるものであること、また両書の執筆意図は異なるということ(ヨハ20:31およびIヨハ2:24-27参照)は、おそらく確実に言えることだろう。その時間的関係については、それほど明らかではない。ただ、両書の顕著な類似点である第一の手紙の序文(1:1-4)の複雑な構文とその内容について、スミスは次のように述べ、第一の手紙が第四福音書よりも後に書かれた可能性を指摘している。彼の考察は福音書著者と手紙の著者が異なる可能性が高いという観点からのものであるが、この問題にとって有益である。

ヨハネの手紙1の序言は福音書を基にして理解できるようになるが、ただし福音書がなければ、Iヨハネ一・一–四は非常に謎めいた本文になるであろう。問題の本文は、言葉がいっぱい過ぎて本題からそれているのである。……福音書に照らして我々はすぐに、Iヨハネ一・一–四が何を問題にしているのか察しがつく。しかもそれどころか、当該箇所が実質においてだけではなく、ヨハネ一・一–一四の一種の注釈としても理解できるようになる。*3

 両書の序文に関するスミスの注解について、ストットが指摘したような執筆目的の違いと合わせて考えると、手紙が福音書より後に書かれたことの根拠となり得るものと考えられる。確かに、手紙の序文は、福音書の序文ほど詳細な説明がされておらず、スミスがいうように福音書の序文を知らなければ解釈が困難になると思われる。両書の序文の違いは、「書簡の序文が発展させられ、福音書の序文として完成した」としても説明できるかもしれない。しかし、ヨハネが手紙を執筆する際に既に教理的理解を持っている読者を想定しているという内的証拠に基づけば、読者は福音書の序文に関する理解を既に持っていた可能性がある。それ故に、ヨハネもまた自身の福音書を念頭に置き、この序文を書いたのかもしれない。
 したがって、ここでは多くの注解者たちに同意し、手紙が福音書よりも後に書かれたものであると仮定する。
 次に、具体的な執筆年代について考えたい。福音書については、21:29に「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかについて、言われたことであった」とあることから、ペテロの(伝承によればローマにおける)殉教後に書かれた──すなわち紀元60年代後半以降に書かれたものと思われる。Hartは福音書の執筆時期は紀元80–90年のどこかではないかと推察しつつ、5:2のベテスダの池に関する説明が現在形となっていることから、紀元70年のエルサレム陥落前に執筆された可能性があることも指摘している*4。Bockもまた、「紀元70年のエルサレム陥落への言及の欠如および共観福音書の不使用」を根拠に福音書の執筆時期を「紀元60–70年代」とする説を紹介しつつ、「外的証拠は使徒[ヨハネ]の生涯の終わり頃である80–90年代を示唆しているようだ」と言っている*5福音書の執筆時期に関する問題については「ある程度開かれており、時期としては60年代半ばから90年代のどこかである」とまでは言えるだろうとする、Bockの結論が概ね正しいものと考えられる。
 Barkerは、ヨハネ(および彼を指導者とする共同体)が小アジアへ移ったのは紀元70年より前のどこかであろうと主張している*6。これから先見ていくことになるが、第一の手紙で扱われているのは異邦人信者から生じた問題もしくは異邦人の地で生じた問題である。このことは、テキストの内的証拠からも広く認められているところである。また、A.著者の序盤で述べたように、この手紙には著者と読者との間の親密な関係が見られる。したがって、この問題は著者がよく知る共同体の中で起きたものであると言うことができる。よって、この手紙で扱われているのは、ヨハネがエペソ移住後に起きた問題だという可能性が高いのである。
 以上のことから、この手紙が執筆された時期については、早くて紀元60年代の終わり頃から70年代初頭、遅くて90年代であると言うことができるだろう。また、執筆された場所、あるいは読者がいた場所はエペソを含む小アジアであろうと推測される。

2.執筆背景に関する内的証拠

 ある手紙の背景を考える上でさらに重要なことは、執筆の意図である。これをテキストの内的証拠から考察することによって、ヨハネがこの手紙を執筆した背景をより明らかにすることができる。
 これから見ていく内的証拠によれば、前述の通り、この手紙の主題は異邦人信者から生じた問題を扱っているものと考えられる。Sauerは「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」という末筆(5:21)について、「この警告は、第一ヨハネがユダヤ人ではなく、……エペソのような異教の土地にいる異邦人に向けて書かれたことを示唆している」と述べている*7。確かにそのように解釈することは可能だが、この「偶像」が何を示しているのかは明確ではない*8。したがって、この箇所をもって手紙が異邦人に向けて書かれたことの根拠とするには弱いように思われる。むしろSauerのこの説は、他の箇所に示されている手紙の主題を観察して初めて説得力を持つようになるのである。
 新約聖書の3つのヨハネ書簡が扱っている主題について、スミスは次のように要約している。

言うまでもなく、ヨハネの手紙3は、例の[第三ヨハネの著者である]長老と対立しているディオトレフェスという人が首領的な役割を果たした教会戒律と指揮権の諸問題を扱っている。同様にはっきりしているのは、ヨハネの手紙2がイエスの肉の現実に関するヨハネの手紙1の教えを強調し、さらにそのようにする際に論敵たちの教えを拒絶しているということである。それゆえ、明らかにこれらの手紙の一つの主要目的は、真の教義を言明し、まちがった教義の支持者たちからそれを守ることなのである。*9

では、ヨハネが第一の手紙で論じている「真の教義」とは何か。それをいくつか抜き出すことによって、手紙の背景にいる異邦人信者たちの「まちがった教義」が明らかになる。
 このことについて、最も直接的に触れられている箇所のひとつは、2:18–22であろう。

2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来るのを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。
2:19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。
2:20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。
2:21 このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。
2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

ここから、手紙において想定されている論敵に関して次の3点が推察される。

  1. 論敵は「イエスがキリストであることを否定する者」であり、「反キリスト」と呼ばれている(2:18、22)。
  2. 「多くの反キリスト many antichrists」(NRSV)という言葉や「彼ら」という代名詞から、そのような教理を抱いていた論敵は複数いたようである(2:18–19)。
  3. 「反キリスト」たちはヨハネのいた共同体に入っていたが、この手紙が書かれた時点では既に離脱していたようである(2:19)。

したがって、ヨハネの論敵たちは、彼の属する共同体から離れていった「イエスがキリストであることを否定する者たち」であるということができる。
 この「イエスがキリストであることを否定する者たち」は、福音書に登場するユダヤ人指導者たちのような「ナザレのイエス旧約聖書で待望されていたキリストであることを……信じていなかった」人々ではない*10。多くのユダヤ人指導者たちは、キリストが既に来られたということ自体を拒んでいたのである。それに対してヨハネの論敵たちは、キリストが来られたということは認めつつ、キリストが「人として」来られたという教えを拒否していたようだ(Iヨハ4:2;IIヨハ7)。このような神学を持っていたということは、ヨハネの論敵たちは異邦人であった可能性が非常に高い。少なくとも、この問題はパレスチナの外部、より異教の影響が強い土地で起きたのだということは言えるだろう。
 キリストが「人として」来られたという教え──すなわち「受肉」の教理──を拒否していたとは、どのような場合が考えられるのだろうか。第一の可能性は、論敵たちは神(的存在)であるイエス・キリストが人間でもあったことを拒否していた、ということである。次に考えられるのは、人間イエスと神(的存在)であるキリストとを区別していたということである。どのような形であれ、彼らが受肉の教理を否定していたということは間違いない。そしてそのような論敵たちの考えは、「偽りの霊」である「反キリストの霊」から出たものである、とヨハネは断言している(4:4、6)。
 論敵たちの「まちがった教理」として、受肉の否定以外はそれほど明確に語られているわけではない。しかし、ストットが言うように、「それが含意されていることは明らかであり、ヨハネが『私たちが……と言うなら』とか『だれでも……と言うなら』という表現を使う時は、[論敵たちのまちがった教え]が視野にあると思われる」*11。この「私たちが……と言うなら」という表現は、1:6–10に3度登場している。そこから、受肉の否定以外の論敵たちの教理や状態を推測することができる。

  1. 論敵たちは「神と交わりがある」と言っていながら、「やみの中を歩んでいる」状態にあったようである(1:6)。
  2. 論敵たちは「罪はない」と言っていたようである(1:8)。おそらくこれは、彼らが何らかの形で人間の罪の性質を否定していたということであろう。
  3. 彼らは自分たちについて「罪を犯していない」と言っていたようである(1:10)。

 1:6にある「やみの中を歩んでいる」という表現、また人間の罪の性質を否定しているという神学的誤りから、論敵たちは倫理・道徳的にも「まちがった」状態にあったようである。

  1. 彼らは「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者」たちだったようである(2:4)。
  2. 彼らは「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者」たちだったようである(2:9)。同様に、彼らは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでい」たのかもしれない(4:20)。

したがって、ヨハネの論敵たちは「罪のうちを歩む者」であり、ヨハネは彼らのことを「悪魔のこども」であり、「神から出た者では」ないと強調している(3:8–10)。
 以上のことから、手紙において論敵として想定されている異端者たちについては次のことが言えるだろう。

  1. 彼らは異邦人であった/もしくは異教の影響を強く受けていた。
  2. 彼らはキリストが既に来たことは認めつつ、キリストが人として来られたという受肉の教理を否定していた。
  3. 彼らは人間の罪の性質を否定していた。
  4. 彼らは自分たちの行いを罪と認めることを拒否していた。
  5. 彼らは自らについて「神を知っている」、また「光の中にいる」者としていた。
  6. しかし、彼らは神の命令を守っておらず、兄弟を憎んでいる者たちであった。

こうした内的証拠から見るヨハネの論敵たちの特徴と先に1.で考察した内容とを合わせると、ヨハネは小アジアで起きていた異端的教えの勃興やそれによる共同体の分裂といった問題に対処し、そうした状況に面している信者たちを励ますべく、この書簡を記したものと考えられる。

3.執筆背景に関する外的証拠

 最後に、第一の手紙のテキスト内に見られる議論に関する外的証拠を検討することにより、この手紙の執筆背景をより明らかにすることを試みたい。
 まず、テキストの内的証拠からわかるヨハネの論敵たちの「キリストが既に来たことは認めつつ、キリストが人として来られたという受肉の教理を否定していた」という特徴は、「仮現論 Docetism」の教義に類似している。マクグラスは仮現論を次のように説明している。

これは「〜のように見える」という意味のギリシア語の動詞dokeoに由来している。この行き方は一つの明白な神学の立場と言うよりは、神学の中の一傾向と見做されるのがおそらく一番よいであろうが、その主張によると、キリストは完全に神であって、その人性は単なる現れに過ぎない。キリストの苦難は、こうして現実のものというよりも見かけだけのものとして扱われる。*12

すなわち、仮現論とは「イエスは現実の人間ではなく、ただそのような外観をとったに過ぎないと説く」教えであり*13、キリストは天使のように人間の「外見」を取って来られただけだ、というのである。
 しかし、ストットによれば、ヨハネの論点から見るに、論敵たちを単なる仮現論者と見做すことは適当ではないようである。

しかし、ヨハネの用語法を注意深く調べて分かるのは、彼に関心があるのは「肉体」をとって来られたイエスの現実性ではなく、人間「イエス」と神としての「御子」あるいは「キリスト」との関係なのである。「強調点はイエスの真の人間性にあるのではなく、イエスが先在していた神なるキリスト本人であるということにあった」(Law)。*14

 この手紙におけるヨハネの議論では、決して「『肉体』をとって来られたイエスの現実性」に関心が払われていないわけではない(1:1など)。しかし、2:22などを見ると、確かにより強調されているのは「イエスがキリストである」ということである。したがって、「このことから大多数の注解者は、その異端を半グノーシス主義であったとする」*15
 グノーシス主義について、ヤマウチは以下のように要約している。

グノーシス主義者とは,キリスト教の初期に,人々に秘密の知識(ギリシア語グノーシス)によって救われると説いた多様な宗教運動の信奉者たちのことである.一まとめにグノーシス主義として知られるこの運動についての最も明確な証言は,2世紀のキリスト教文書に見られる.これらの文書は,種々のグノーシス・グループをキリスト教の異端と見ている.
 グノーシス主義は,そもそもキリスト教徒は無関係だったかもしれない.例えば,死海文書に救いに「知識」を強調することが見られるように,どこにもグノーシス主義の影響をたどることができると,ある学者は言う.中には,霊的世界と悪の物質的世界との対立を強調するものがグノーシスだと言う者もいる.*16

このグノーシス主義という立場の特徴は、「はっきりとした二元論」にある*17マクグラスもまたその点を指摘している。

グノーシス主義の最も重要な形態においては、人類を世界から贖った神と最初にその世界を創造した劣等の神的存在(しばしば「デミウルゴス」と呼ばれる)とは非常にはっきりと区別される。グノーシス主義者は、旧約聖書がこの低次の神を扱っており、新約聖書は贖い主なる神にかかわると見做す。*18

したがって、ヤマウチによればグノーシス主義の中には「物質的被造物はすべて悪だと見なす」傾向があった*19。それ故に、「グノーシス主義者のほとんどは、性や結婚については全く禁欲的な態度をとった」が、「中には極端な放蕩にふける者もいた」。そういった者たちは、秘密の知識(グノーシス)を得た「霊的な人々」は「いかなる表面的な泥にも決してまみれない『真珠』だと」という教義に基づき、積極的に放蕩を推奨していたのである。こういった特徴は、罪の性質を否定していたヨハネの論敵たちの特徴に近いと言えなくもない。
 以上のような過度な禁欲主義にしろ、極端な放蕩にしろ、そうした態度は聖書的な愛の態度とは言えない。また、彼らは自分たち知識(グノーシス)を取得した者に対し、そうではない者を見下す傾向があったようだ。

彼らは悟り[グノーシスによる理性や霊性の解放]によって救われるということを信じていた。この悟りは秘密の入会儀式において、ある奥義が与えられることによって得られるとされていたのである。入会した者はpneumatikoi(真に「霊的」な人)であり、未入会の者をpsychikoi(地上の動物的生命)と軽蔑した。*20

第一の手紙において使徒との交わり(1:3)や兄弟愛(3:16など)が強調されているのは、論敵たちがグノーシス主義的な考えを持っており、使徒たちの教えやそれを保持する信者たちを軽蔑していたからなのかもしれない。
 しかし、この手紙には、紀元2世紀に既に発達していたグノーシス主義の一般的な創造論への反論が見られない。その中心はあくまでキリスト論や信者たちの交わりにおける愛の戒めの遵守であり、後にエイレナイオスが行ったような創造論や霊肉二元論に対する反論は見られない。したがって、ヨハネの論敵たちについては、以下のような推測ができる。彼らは、確かにキリスト論や倫理的性質についてはグノーシス主義的傾向を持っていたものの、創造論などについては十分に発展させていなかった「グノーシス主義的」な人々、あるいは「前グノーシス」や「原グノーシス」と表現できる人々であった。
 ヨハネの論敵たちについてさらに詳細な外的証拠を提供してくれるのは、エイレナイオスの記述である。彼の『異端反駁』には、ヨハネの敵対者としてのケリントスの描写がある。また、同書の中に記されているケリントスの神学には、ヨハネの論敵たちの教理との類似性が見られる。このことから、ストットは、「紀元一世紀のエペソの住人で『前グノーシス』もしくは『原グノーシス』という説明が当てはまる人物が、ケリントスであった」と言っている*21
 ケリントスに関する記述として非常に有名なのは、『異端反駁』3.3.4に記録されているケリントスとヨハネの関係を示す逸話だろう。しかもこの逸話は、ヨハネを直接知っていたポリュカルポスから聞いたものだという。以下は『異端反駁』3.3.4における該当部の抜粋である。

主の弟子であるヨハネがエペソで入浴しに行ったところ、ケリントスが中にいることを知ったので、入浴せずに急いで浴場から出てきて叫んだという。『飛び出そう、浴場よ崩れ落ちろ、真理の敵であるケリントスが中にいる!』*22

エイレナイオスはその『異端反駁』の中で、ケリントスの誤った教理を幾度かにわたって記述している(1.26.1、3.11.1、3.11.7など)。特に1.26.1によれば、ケリントスはイエスについて次のように言っていたという。

イエスは処女から生まれたのではなく、ヨセフとマリヤから普通に生まれた人間だが、通常の人間以上に正しく聡明で賢かった。さらにバプテスマの後でキリストが至高者のもとから彼の上に鳩の形で降り、知られざる父〔大文字〕のことを宣べ伝え、奇蹟を行った。しかし最後にキリストはイエスを離れ、それからイエスは苦しみを受け、後に復活したが、キリストは霊的存在なので痛みを感じなかった。*23

これによれば、ケリントスは、人間イエスと神的存在キリストとを区別していたようである。しかも、イエスがバプテスマを受けた際に降ったキリストが受難前に離れ去ったということは、彼のキリスト論によれば、イエスの十字架における受難は救済論的な意義を持っていないことになる。こうした特徴は、第一の手紙における異端への反論や真理の主張の内容とよく合致しているように思える。
 「しかし近年、一部の注解者たちは、その偽りの教えがケリントス主義とは異なっているのではないかと疑問視するようになってきている。」*24 Barkerは、至高神と世界を創造した低次な神との区別といったケリントスのグノーシス主義創造論への反論が手紙の中には見られないとし、ヨハネの論敵たちが「ケリントスとは明らかに異なっている」と述べている*25。また、彼は「罪がないことへの信奉(1:8, 10)、霊感によって神を知るという主張(2:2;4:1–3)、彼らの神との『交わり』の欠如(1:6)、そして光の中を歩んでいるという主張(2:9)については、ケリントスの教えからは独立している」という。したがって、彼は「[ヨハネの論敵である]偽教師たちをケリントスもしくは彼の信奉者たちだと特定することは疑わしい」と結論づけている*26
 Barker (1981:295-96)やストット(2007:53-55)が紹介しているように、ヨハネの論敵たちの正体をケリントス主義者以外に見出そうとする理論は数多く提唱されているものの、いずれも依然として推測の域を出ていない*27。ここではそういった議論をこれ以上詳しく紹介するよりも、以上で示した外的証拠の観察・考察から得られる結論を述べるに留めたほうが懸命だといえるだろう。その結論については、ストットが要約して次のように述べている。

結論として述べたいのは、異端的キリスト教や道徳的無関心、それに胚胎期のケリントス的グノーシス主義に見られる傲慢な無慈悲に対して、ヨハネが強調したのは次の三点である。つまりイエスを人となって来られたキリストであると信じること、神の戒めに従うこと、そして兄弟愛である。*28

*1:D・M・スミス『現代聖書注解 ヨハネの手紙1、2、3』新免貢訳(日本基督教団出版局、1994年)49–55頁;D. A. Carson, "1 John," Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, G. K. Beale and D. A. Carson, eds. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2007) 1063-64.

*2:ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)25頁

*3:スミス『ヨハネの手紙1、2、3』64頁

*4:John F. Hart, "John," The Moody Bible Commentary, Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham, eds. (Chicago, IL: Moody Publishers, 2014) 1605.

*5:Darrel L. Bock, Jesus According to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2002) 43.

*6:Glenn W. Barker, 1 John, Expositor’s Bible Commentary, vol. 12, Frank E. Gaebelein, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1981) 301.

*7:Ronald Sauer, "1 John," The Moody Bible Commentary, 1973.

*8:ストット『ヨハネの手紙』220頁

*9:スミス『ヨハネの手紙1、2、3』37頁

*10:ストット『ヨハネの手紙』45頁

*11:前掲書、46–47頁

*12:アリスター・E・マクグラスキリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館、2002年)487頁

*13:ストット『ヨハネの手紙』48頁

*14:同上

*15:同上

*16:エドウィン・M・ヤマウチ「グノーシス主義」『キリスト教2000年史』井上政己監訳(いのちのことば社、2000年)96頁

*17:同上

*18:マクグラスキリスト教神学入門』407–08頁

*19:ヤマウチ「グノーシス主義」96頁

*20:ストット『ヨハネの手紙』49頁

*21:前掲書、50頁

*22:訳文はストット『ヨハネの手紙』50頁による。

*23:訳文はストット『ヨハネの手紙』50頁による。

*24:前掲書、53頁

*25:Barker, 1 John, 295.

*26:Ibid.

*27:Ibid., 295–96; ストット『ヨハネの手紙』53–55頁

*28:前掲書、56頁