軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ヨハネの手紙第一 覚書き(5)1章3–4節

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

balien.hatenablog.com

 今回は手紙の「序論」の最後、1章3–4節を取り上げています。

トピック

序論(1:1–4)(続き)

1: 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
2: ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
3: 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
4: 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
ヨハネの手紙第一1:1–4)

1章3節

 この節において、ヨハネは「私たちの見たこと、聞いたこと」と言うことで、読者の注意を再び「いのちのことば」に戻させようとしている。そして、その「いのちのことば」を伝える第一の目的は、「あなたがた[読者たち]も私たち[使徒たち]と交わりを持つようになるため」だと宣言する。

 驚くべきことに、ヨハネは「[使徒たち]の交わり」とは「御父および御子イエス・キリストとの交わり」であると断言している。1節でヨハネが強調していたように、使徒たちはイエスを五感によって体験し、イエスと交わりを持った。しかし彼らは、イエスがこの地上にまだおられたときには、その交わりの重要性を分かっていなかったのである。
 イエスは渡される夜、「今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに見たのです」と教えられた。しかし、使徒のひとりであるピリポは、イエスとの豊かな交わりを持ちながら「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言った(ヨハ14:8)。その問いを受けて、イエスは使徒たちに「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われ(ヨハ14:9)、さらに「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい」と諭された。使徒たちは御父とともにおられるイエスとの交わりを持っていた。すなわち、彼らは「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に入れられていたのである。
 後にイエスが昇天されてからは、「もうひとりの助け主」である御霊が来られた(ヨハ14:16)。ここでの「もうひとりの allon」は、両者の性質が違うことを意味しない*1。したがって、御霊はイエスと違わない、同質の方なのである。また、イエスが御父と同質の方であるが故に、御霊は御父とも同質の方である。その御霊が「いつまでもあなたがたと、ともにおられる」とイエスは約束されたのである。したがって、御霊は使徒の働き2:3において実際に使徒たちを含む信者たちに降られた。イエスは昇天されたが、ヨハネたちはこの手紙が書かれた時点でもなお、御霊を通して「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を保ち続けていたのである。

 こういったことから、読者が「[使徒たち]と交わりを持つ」ことの重要性がわかる。使徒たちと交わりを持つということは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に入れられるということなのである。
 さらに、現代の信者もまた、初代教会の信者たちから続いて御霊をいただいている(5:13;Iコリ2:13およびエペ1:13参照)。したがって、内なる御霊との交わりを持つとき、我々もまた「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に入れられているのである。

 他にも、ヨハネがただ神との交わりを強調しているだけではなく、根本的に「私たちの交わり」と言っていることに注目すべきである。それは、信者個人が神と交わりを持つというだけのことではなく、互いに聖霊をいただいている信者同士の交わりが、神との交わりにもなっているという主張である。
 この後ヨハネは、教会に問題をもたらした異端者たちが「私たちの中から出て行」ったことに言及している(2:19)。一方で、読者たちに対しては「兄弟を愛する」ことが何度も勧められ、命じられている(2:10;3:11–18;4:7、11など)。しかも、その愛自体が、信者自身から出るものではない。愛である神御自身が内におられるからこそ、信者は愛を知り、愛を実践することができる(4:12–19)。すなわち、信者同士の交わりは、神の愛に根差しているのである。

福音宣教における使徒のこの目標提示、つまり人と人との交わりは神との交わりから自然に発生するものであるということは、現代の私たちの伝道と教会生活に対する叱責でもある。改宗者を教会に導かず、また表面的で社交辞令的な教会生活にとどまらせ、御父と御子との霊的交わりに導かないような伝道に満足することはできない。……本当のangelia(「知らせ」5節)は真のkoinōnia(交わり)を生み出すのである。*2

 以上のことから、ヨハネは「いのちのことば」を伝えることの第一の目的について、「交わり」を強調していることがわかる。それは、御霊を持った、兄弟姉妹同士の交わりである。その交わりは神の愛に根差している。したがって、愛に根差した信者同士の交わりは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に根差しているとも言えるし、その中には御霊がおられるが故に、その交わり自体が「御父および御子イエス・キリストとの交わり」であるとも言える。ヨハネが手紙を通して伝えている「いのちのことば」を受け取り信じることは、そのような交わりをキリスト者にもたらすはずなのである。

1章4節

 続けてヨハネは、「いのちのことば」を伝える第二の目的を宣言する。それは、「私たちの喜びが全きものとなるため」である。
 この節の「私たちの(喜び)」については、NRSVの欄外注にあるように、「他の古代の権威ある写本の中には、『あなたがたの』と読むものがある」。では、ヨハネの執筆の第二の目的は、「私たち[使徒たち]の喜びが全きものとなるため」なのか、それとも「あなたがた[読者たち]の喜びが全きものとなるため」なのだろうか。
 写本の信頼性という点では、いずれの読み方も権威ある写本に見られるものであり、どちらの読み方が正しいかを決定づけることはできない*3。もし正しい読み方が「私たちの喜び」であるとしたら、「読者が御父と御子との交わりの中に導かれるなら、使徒たちの喜びとなる」という意味になる*4
 一方で、ストットは「あなたがたの喜び」という読み方の方が「より蓄前性が高い」と主張している*5。その理由は、これまでの文脈において「私たち」と「あなたがた」の対照が強調されているためである。「福音宣教の目的が『あなたがたも私たちと交わりを持つようになるため』であるように、執筆の目的も『私たちの喜びが全きものとなるため』なのである。交わりと喜びの両方を使徒と読者は胸中に持つべきである。」*6
 Westscottの考えによれば、ヨハネがこの手紙を執筆する目的が果たされれば、「[読者である]弟子たちの喜びだけではなく、使徒たちの喜びも」同様に満たされる*7。その方向で考えると、ストットが言うように、4節についてはNEBの訳が相応しい意味を提供していると言えるのかもしれない。

And we write this in order that the joy of us all may be complete.(私たちがこれを書くのは私たちみんなの喜びが全きものとなるためである。)*8

 「いのちのことば」を受け取った信者同士が御父と御子との交わりの中に導かれるなら、「[使徒と読者]みんなの喜びが全きものとなる」。信者の持つ喜びは、神の愛に根差した信者同士の交わり、そして「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に根差しているのである。

*1:Joseph H. Taylor, Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded with Strong's Concordance Numbers, 11th printing (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 2014[1896]), G243;M. R. Vincent, "John 14:16," Word Studies in the New Testament, in PC Software e-Sword X.

*2:ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)71頁

*3:前掲書、72頁;Brooke Foss Westcott, The Epistles of St John: The Greek Text with Notes and Essays, 3rd ed. (Cambridge and London: Macmillan and Co., 1892) 13.

*4:中川健一『ヨハネの手紙 第一「救いの確信を得る喜び」』2016年聖書フォーラムキャンプ配布資料(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)3頁

*5:ストット『ヨハネの手紙』72–73頁

*6:前掲書、73頁

*7:Westcott, The Epistles of St John, 13.

*8:訳文はストット『ヨハネの手紙』73頁による。