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balienのブログ

キリスト教(神学)に関する雑感・情報などをメインにまとめていきたいと思います。

ヨハネの手紙第一 覚書き(7)補足:「いのちのことば」の意味について(その2)

聖書研究 ヨハネの手紙第一

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

balien.hatenablog.com

 前回から引き続き、「補足」として1:1の「いのちのことば」という表現の意味について取り上げています。前回は「いのちのことば=イエス・キリストご自身である」という第一の立場を紹介しました。その立場では、ヨハネ福音書1章における「ことば」とヨハネの手紙における「いのちのことば」とは同じ意味であると考えられています。したがって、「いのちのことば」の意味を考えていく上では、ヨハネ福音書の「ことば」の意味をも考えていく必要があります。そこで前回では、ヨハネ福音書の「ことば」は旧約聖書の背景やユダヤ教的背景と照らし合わせて理解されるべきだ、ということを指摘しました。
 今回はその続きとして、旧約聖書旧約聖書外典、そして古代ユダヤ教文献であるタルグムにおける「ことば」の意味を確認していきます。

トピック

補足 1:1「いのちのことば」の意味について(続き)

C.ヨハネ福音書における「ことば」の意味について(続き)

旧約聖書における「ことば」

 旧約聖書において、「ことば」という用語は、神の自己表現もしくは発言を意味している*1。Bockは神の「ことば」を「効果的な発言 effective speech」と表現している*2。それは「神が誰であって何をするかという啓示であり、神の目的を実行するという意味では仲保的な存在である。発せられた言葉が心の思いを明らかにするように、ことばは言葉と業の両方において神を表現し、啓示する」。したがって、旧約聖書における「ことば dâbâr」は「[神によって]発言されたものと実行されたものという二つの意味を示す」ものである*3。以下では、旧約聖書において「ことば」が持っている具体的な意味を示す。
 第一に、「ことば」は天地創造の際に既に存在していた。創世記1章における創造の記述および詩篇33:6によると、神の創造の業は「ことば」によって為されたことがわかる*4
 第二に、「ことば」は神から発せられるものであり、神とは区別される。イザヤ書9:8には「主がヤコブに一つのことばを送られた」とある。「そのことばは神が送られたものであるから、神とは区別される存在である」*5。また、イザヤ書55:11では「わたしの口から出ることばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」とある。ここでは「ことば」が擬人的に、神から遣わされた者として描写されているようである。Köstenberger (2007:421)は、「この節において、イザヤはヨハネの『遣わされる』キリスト論の基盤を与えている」と述べている*6。「そのキリスト論とは、イエスが父なる神から遣わされたことばであり、彼を遣わした方への従順の内にその使命を続行し、成し遂げるというものである。」
 イザヤ書55:11からは、第三に、「ことば」は神の意志を実行するものだということがわかる。これは、既に創造の業が「ことば」によって為されたことからもわかる。詩篇147:15には「主は地に命令を送られる。そのことばはすみやかに走る」とある。ここでは、「ことば」が「物事を成し遂げる」存在であることが「擬人的に表現され」ている*7
 第四に、神は「ことば」によって御自分を現される。創世記15:1では、「のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた」とある。Fruchtenbaumによれば、「ことば」は神を啓示する者 revealerである*8。また、それが「幻のうちに」アブラハムに臨んでいることから、Fruchtenbaumはさらに具体的に「何らかの形で可視化された啓示者」であると表現しており、「[旧約聖書においても]ことばが時には神と同一視され」ている例であるとまで主張している。エゼキエル書1:3では、エゼキエルの上に「主のことばがあ」ったということと「主の御手が彼の上にあった」ということとが並行して記されている。このことから、エゼキエル書においても、預言者に対する神の臨在を指して「ことば」が使われている可能性がある。
 第五に、「ことば」は人の歩みを照らす「ともしび」である。詩篇119:105で「あなたのみことば dâbârは、私の足のともしび、私の道の光です」と歌われている通りである。
 第六に、「ことば」には「裁きの権威」が含まれている*9詩篇147:19では、「主はヤコブには、みことば dâbârを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる」とある。ヤコブもイスラエルも同様に民族的イスラエルを指す術語であることから、ここでは「主はイスラエルにことばを告げられる」と「主はイスラエルにおきてとさばきを告げられる」という内容が対句的に表現されているものと考えられる。したがって、この箇所では「ことば」と裁きとが関連付けられているものと言える。
 第七に、「ことば」は正しいものである。イザヤ書45:23では、神の「口から出ることばは正しく、取り消すことはできない」と言われている。
 第八に、以上のことから明白なように、旧約聖書において「ことば」は頻繁に擬人化されている。  第九に、「ことば」には知恵との関連が見られる*10箴言8–9章では、「知恵」が擬人化されている(ただし、箴言において知恵は女性形で擬人化されている)。さらに、箴言8:22–31によれば知恵は創造のときに既に存在しており、創造の業に参加したとされている。また、Bockは6:23において知恵による命令が「光であ」るとされていることを指摘している*11。こういった特徴は、「ことば」の特徴と類似しており、「ことば」と知恵との間には関連性があるものと推測される。
 以上のことから、第一に、旧約聖書において「ことば」は神の言葉そのものを指すと同時に、頻繁に擬人化されていることがわかる。しかし、これはヘブライ的な擬人化表現の枠から出るものではないという可能性もある。いずれにしても、旧約聖書における「ことば」に関しては、ヨハネによる「ことば」に関する叙述ほどには発展させられていない。Köstenbergerが「ヨハネだけが、このことばが実際の人物すなわちイエス・キリストとして、時空的─時間的歴史に現れたと主張している」と言っていること*12は、正しいものと考えられる。第二に、旧約聖書において「ことば」と「知恵」とは密接に関連した概念である。この特徴は、旧約聖書外典においてさらに顕著になっていく。

旧約聖書外典における「知恵」と「ことば」

 旧約聖書外典においては、特に「知恵」について豊富な言及があり、多くの場合において擬人法が用いられている。たとえば知恵の書7:22では、知恵が「万物の制作者」であると言われている。さらに、知恵と創造の業との関係については、次のような記述がある。

知恵はあなたと共にいて御業を知り、
世界をお造りになったとき、そこにいました。
知恵は、あなたの目を喜ばすものは何か、
あなたの掟に適うものは何かを知っています。(知9:9)*13

 また、7:25–29では、第一に知恵が「神の力の息吹」であると言われている。このことから、知恵は神から発せられるものであるということがわかる。第二に、知恵は「全能者の栄光から発する純粋な輝き」であり、「永遠の光の反映」である。第三に、知恵は「神の働きを映す曇りのない鏡」である。第四に、知恵は「神の善の姿」である。第五に、知恵は「ひとりであってもすべてができ、自らは変わらずにすべてを新たに」する。第六に、知恵は「神の友と預言者とを育成する」。
 9:1–2では、知恵がことばと並行したものとして叙述されている。

「先祖たちの神、憐れみ深い主よ、
あなたは言によってすべてを造り、
知恵によって人を形づくられました。(知9:1-2a)

ここでは、神がことばと知恵を通して人を創造されたことが謳われている。ヘブライ的な対句法によっているところからすると、ここではことばと知恵が同一視されていることも十分にあり得るだろう。
 シラ書24:1–22について、新共同訳(旧約聖書続編つき)では「知恵の賛歌」という題がつけられている。その通りに、本文では知恵自身が「自分自身をほめたたえ、その民の中で誇らしげに歌」っているという内容が記されている。そこでは知恵が「いと高き方の口から出て、霧のように大地を覆った」と言われている(24:3)。すなわち、知恵が神から発せられたものであり、創造の業に参加したのだという概念が見られる。
 24:4では、知恵が「わたしは高い天に住まいを定め、わたしの座は雲の柱の中にあった」と言っている。このことから、知恵は神に非常に近い存在であり、神と栄光を共有していたようでもある。
 24:8によれば、「万物の創造主」が知恵の「憩う幕屋を建てて」、「ヤコブの中に幕屋を置き、お前はイスラエルで遺産を受けよ」と命じたということが記されている。これは、ヨハネ福音書1:14において「[ことばは]私たちの間に住まわれた」と言われていることと比較すると、興味深い記述である。福音書1:14は、「[ことばは]私たちの間に幕屋を張られた」とも訳すことができるからである*14
 24:9からは、知恵が「この世が始まる前に」造られ、「永遠に存続する」ものであるということもわかる。
 また、24:23–34では律法が「知恵であふれている」と言われており(24:25)、知恵と律法との間にある深い関連を示している(シラ15:1–10参照)。
 Bock (2002:411)は知恵の書およびシラ書に見られる知恵に関する記述から、次のような内容を抽出している*15。以下は、Bockの記述を要約したものである。

  1. 知恵は創造の前に造られ、創造の業を実行した。
  2. 知恵は永遠に神と共にある。
  3. 知恵は栄光を有している。
  4. 知恵は神から発せられる。
  5. 知恵は神の働きを映す鏡である。
  6. 知恵はイスラエルの中に幕屋を張った。
  7. 知恵は律法と同一視されている*16

 以上のことから、知恵の書やシラ書における知恵の概念は、旧約聖書における知恵を「ことば」に非常によく似た概念として発展させられているものと考えられる。特に、知恵の書9:1–2でことばと知恵が並行したものとして記述されていることは注目に値する。このことからBockは、「[知恵かことばの]一方に言及することは、他方を示唆することになる」と述べている*17。さらに、彼は次のように結論づけている。

よって、ユダヤ的思想との関連から言えば、[ヨハネの「ことば」の]背景は神のことばであり知恵ではないという主張を試みることは、支持することが困難である。一方の考えは他方を想起させるのである。*18

 ただし、シラ書では明確に知恵が神の被造物であるとされている。旧約聖書では、ことばや知恵が人格的に扱われているとしても、それが人格を持つ被造物であるとまでは明記されていない。このことから、シラ書では知恵の人格化に関する概念が発展させられつつ、神学的整合性を取るために被造物とされた可能性が考えられる。旧約聖書外典の知恵概念がヨハネの「ことば」の背景にあったとしても、先の点において、両者の違いは非常に大きいものであると言える。ヨハネは、「ことば」が人格的存在であること、またことばが「神とともにあった」存在でありながらも「神であった」ことを明言しているからである。

タルグムにおける「ことば」

 「知恵」の詳細な概念は旧約聖書外典において発展させられたが、「ことば」については、ヘブライ語聖書のアラム語訳であるタルグムにおいて発展した形を確認することができる。その類似性故に、外典における「知恵」はタルグムにおいて「ことば」と統合させられているのかもしれない(前述のように、外典において既にことばと知恵の同一視がされている可能性が高い)。
 前述のように、ヘブライ語の「ことば dâbâr」は、アラム語ではmemraと訳されている。ギリシャ語のlogos七十人訳においてdâbârの訳語として用いられていることから、これらの3語はそれぞれ訳語として対応していると言える*19
 Bockは、memraが「トーラーのいくつかの鍵となるタルグムに登場する」ことを指摘している。

[M]emraは民の間において神の臨在であり、彼らを助けた(タルグム・オンケロス、出4:12)。出19:17のタルグムでは、民が神と会合を持ったという描写において、彼らが直面したのはmemeraである。言い換えれば、memraは神が人と契約を結ばれるときや人を扱われるとき、神の臨在の現れとして仕えていたのである。この役割は、ヨハネがイエスについて1:18で[「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と]述べているものと類似している。*20

 Fruchtenbaumは、タルグムなどの文献から得られる情報に基づき、古代ユダヤ教におけるmemraに関する教理を6つに要約して示している*21。また、彼はそれらの全ての要素が福音書序文の「ことば」に見出されると主張している。以下はFruchtenbaumによるmemraの6つの教理のリストであり、<>内は対応している福音書序文の箇所を示している。

  1. Memraは神とは区別されているが、神と同一の存在である。<1:1–2>
  2. Memraは創造の仲介者である。<1:3>
  3. Memraは救いの仲介者である。<1:12>
  4. Memraは神が目に見える形で現れたことを示している。<1:14>
  5. Memraは神が契約を結ばれたことを示している。<1:17>
  6. Memraは啓示の仲介者である。<1:18>

 以上のような特徴から、タルグムにおいてmemraは時にメシアと結びつけられることもあった*22。よって、Fruchtenbaumは福音書序文の「ことば」とタルグムのmemraの関係について、次のように結論を述べている。

福音書の冒頭部はイエス[原文ではイェシュア Yeshua]がギリシャ哲学の目的を成し遂げたと主張しているのではなく、彼がユダヤ的なメシア待望を成就させるために来たということを述べている。Memraについてラビたちが教えていた6つの教理は、ナザレのイエスに当てはまるものである。*23

結論

 福音書序文における「ことば」に関するブロック・ロジック的表現、旧約聖書や他の古代ユダヤ教文献における「ことば」やmemraという概念をふまえると、ヨハネは当時のユダヤ教的背景に基づいて「ことば」という概念を理解していたと結論づけることが妥当であろう。
 Bockは、ユダヤ教における「ことば」や知恵の概念について、「これらのことは全て、『ことばは人となった』、すなわち恵みとまことがイエス・キリストにおいて決定的に到来したという記述において説明されているのである」と述べている*24。さらに、「イエスはことばが受肉した方であるだけではなく、彼において知恵、律法、そして表現された神の言葉がある。彼は神の計画を知っており、その生涯と人格において神が何者であるかを示す、神を『啓示する者 revelator』である」。
 また、Fruchtenbaumはこれまでの旧約聖書における「ことば」理解やタルグムにおけるmemraを念頭に、福音書序文の主張を以下の4点に要約して示している*25

  1. ことば──the Davar、the Memra、the Logos──は目に見える形で到来した。
  2. 悲しいことに、世全体は彼を認めることに失敗した。
  3. さらに悲劇的なことに、彼自身の民であるユダヤ人もまた、彼を認めることに失敗した。
  4. 彼を認めた個々のユダヤ人たちおよび異邦人たちは、シャカイナ*26の光の子 the children of the Shechinah lightとなり、救いの仲介者である彼から救いを受け取った。

 ただし、BockやFruchtenbaumが指摘したような古代ユダヤ教的背景におけるmemra理解──すなわち「ことば memra」は神的存在あるいは人格的存在であるという理解──をふまえた上で再度強調されるべきは、旧約聖書において「ことば」がやはり神から発せられる「言葉」であるという認識も捨て去られていないということだろう。
 以上で確認してきた内容に基づけば、「ことば」について次のように要約することができる。

  1. 「ことば」には神の発言と業が含まれている。
  2. 「ことば」は神の言葉であり、同時に人格的存在である。
  3. 「ことば」は神とは区別される存在であり、同時に神と同一視される存在である。

特に「いのちのことば」が福音のメッセージ(神の言葉)を指すのか、それともイエス御自身(神御自身、すなわち人格的存在)を指すのかという議論においては、上記の第2項目が重要な役割を果たすものと考えられる。この点については、「補足:『いのちのことば』の意味について」シリーズの結論部で再び取り上げることとする。

*1:Andreas J. Köstenberger, “John,” Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, G. K. Beale and D. A. Carson, eds. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2007) 421.

*2:Darrell L. Bock, Jesus According to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2002) 411.

*3:Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective, Vol. 1 (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2016) 278.

*4:Bock, Jesus According to Scripture, 411; Fruchtenbaum, Yeshua, 278.

*5:Ibid., 278

*6:Köstenberger, "John," 421.

*7:Fruchtenbaum, Yeshua, 278.

*8:Ibid.

*9:Bock, Jesus According to Scripture, 411.

*10:Ibid.

*11:Ibid.

*12:Köstenberger, "John," 421.

*13:以下、旧約聖書外典の書名および引用は新共同訳聖書(旧約聖書続編つき)による。

*14:ヨハ1:14では「ことば」が「私たちの間に住まわれた eskēnōsen en hēmin」と言われている。ここでのeskēnōsenは、skēnoōという動詞の完了形である。このskēnoōは「幕屋を張る」といった意味の動詞であり(Joseph H. Thayer, Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded with Strong's Concordance Numbers, 11th Printing [Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 2014(1896)] G4637)、したがってヨハ1:14は「[ことばは]私たちの間に幕屋を張られた」とも訳すことができる。この動詞は新約聖書では他に黙7:15;12:12;13:6;21:3でしか使われていない(しかも、ヨハネ文書にしか使われていないことは非常に興味深い)。特に21:3では、新天新地において「神の幕屋が人とともにあ」り、そのような形で「神は彼らとともに住[む] skēnōsei met' autōn」と描写されている。

*15:Bock, Jesus According to Scripture, 411.

*16: 前述のシラ24:23–34に関する考察では「知恵と律法との間にある深い関連を示している」と述べるに留めたが、Bockはシラ書において知恵が律法と同一視されていると結論づけている。

*17:Ibid.

*18:Ibid.

*19:Fruchtenbaum, Yeshua, 216.

*20:Bock, Jesus According to Scripture, 412.

*21:Fruchtenbaum, Yeshua, 225-77.

*22:Ibid., 255-60.

*23:Ibid., 277.

*24:Bock, Jesus According to Scripture, 412.

*25:Fruchtenbaum, Yeshua, 278.

*26:Fruchtenbaumが要約した古代ユダヤ教におけるmemraに関する6つの教理の第4項によれば、memraは神の顕現の現れでもあるとされる(Bock, Jesus According to Scripture, 412参照)。神の顕現は、キリスト教神学においては「神顕現 theophany」という用語によって表現される(フスト・ゴンサレスキリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳[教文館、2010年]51頁)。一方、ミドラシュやタルグムなどの古代ユダヤ教文献では、この概念を表現するものとしてシャカイナ the Shechinahという用語が用いられている。これはschechinahというヘブライ語をそのまま用いたものであるが、このヘブライ語の単語は、幕屋を意味するmishkanと同じ語源を有しているものである。Fruchtenbaumは、聖書の記述および古代ユダヤ教文献に基づき、シャカイナは「神の臨在」、とりわけ目に見える神の臨在(顕現、出現)を意味するものであるとしている(Fruchtenbaum, Yeshua, 250-60)。
 Fruchtenbaumによれば、「シャカイナはしばしば神の栄光と結びつけられており、この二つの言葉は神のシャカイナ・グローリー the Shechinah glory of Godとして頻繁に共に用いられている」(Ibid., 251)。このことから、彼は神学用語としてシャカイナ・グローリーを「神の目に見える現れ」として定義している。「目に見えない神が目に見える形で現れるごと、偏在の神が特定の場所に現れるごとに、この目に見える局所的な臨在は、シャカイナ・グローリーとして言及されてきた。」(Ibid.)
 また、先述のようにヨハ1:14における「[ことばは]私たちの間に住まわれた eskēnōsen en hēmin」という記述は「[ことばは]私たちの間に幕屋を張られた」という意味であること、また「ことば」が光であるとも記述されていることから、Fruchtenbaumは、福音書序文における「ことば」の概念にはシャカイナ・グローリーも含まれていると主張している(Ibid., 250-52)。このことと関連して、Robertsonはヨハ1:14の注解において同じくskēnoōという動詞が用いられている黙21:13などを引き合いに出し、次のように述べている。「黙示録ではこの動詞は神が人々の間に幕屋を張るという意味で使われており、ここではロゴスが幕屋を張るという意味で使われている。ここでは、神のシャカイナ・グローリーが、その御子という人間において我々の間に臨んでいるのである。」(Robertson, Word Pictures of the New Testament, in PC Software e-Sword X. 同書における黙示録21:3の注解も参照)