軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ヨハネの手紙第一 覚書き(9)1章5–7節

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。前回までは1:1–4を取り上げた後、補足として1:1の「いのちのことば」について詳しく考えてみました。
 本論の直前部である1:1–2および3–4については↓

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 このブログでは、1:1–4を手紙の「序論」、1:5–2:2を手紙本論の第一部として扱っています。今回は第一部「キリストのメッセージの本質」の冒頭部、1:5–7を取り上げます。

トピック

§1 キリストのメッセージの本質

1.キリストのメッセージの要約(1:5)

5: 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

5節

 「私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせ」について、原文では「キリスト」という固有名詞は使われていない。ただ、「私たちがから聞いて、……」と、代名詞autouによって表現されているのみである。新改訳および新共同訳は代名詞autouを「キリスト」あるいは「イエス」と意訳している。一方で、ASV、NASB、NIV、NRSV、ESVなどの多くの英語訳では、autouは「him」とそのまま訳されている。
 この「彼」は、直前の「神」を指すか、それとも1:1–4の中でテーマになっていた「いのち」──すなわち、御子イエス・キリストを指すかのいずれかだろう。序文では、この手紙の主題である「いのちのことば」は、使徒たちが「聞いたもの」であることが強調されていた。そして、その「いのちのことば」はイエス御自身のことであり、彼が伝えた福音のメッセージでもあることは既に指摘した通りである。したがって、ここでの「彼」は新改訳および新共同訳の通り、イエス御自身のこととして捉えても何ら問題はないだろう。
 しかし、この手紙における「彼」が御父を指しているのか御子を指しているのかは、それほど大きな問題ではない。ヨハネにとって──そして他の使徒たちや信者にとっても──御父も御子も同一の神である。御子は「御父とともにあ」る方であり(1:2)、「御子を告白する者は、御父をも持っている」のである(2:23)。2:24では「御子および御父」という言い回しが使われていることで、ヨハネの神論が端的に表されているのかもしれない。したがって、ここでの「彼」が「神」を指しているのか「キリスト」を指しているのかは、釈義上それほど大きな問題ではない。
 ここでヨハネが述べている「神は光であり、神には闇が全くない」(新共同訳)という「知らせ」は、一見単純明解であり、誰にでも想像しやすい叙述である。彼は、この「知らせ」こそ「私たちがキリストから聞い」たことであると言っている。彼にとっては、これこそがイエスのメッセージの要約なのであろう。
 注解者たちは、この「知らせ」の意味するところを、多様な言い回しを用いて説明を試みている。スミスは、この「知らせ」は「神には闇もなければ死もないということを意味する」と説明している*1。Ryrieは、これを「神は聖でありけがれがない」という意味で捉えている*2。Bakerは、「光」という表現が「神の栄光の荘厳さ、神の真実さ、そして神の純白さを強調している」と主張している*3。Sauerは、「神は光であ」るとは神が「完全に聖なる方だ」ということを示しており、「神には闇が全くない」とは「罪が全くない」という意味でもあると言っている*4。ストットは、「神の存在の本質を述べることばとしては、『神は光である』というより包括的なものはない」と言っている*5。「ご自身を啓示することは、ちょうど光が輝くものであるように、神のご性質であり、その啓示は完全な清さと言語に絶する荘厳さをもったことなのである」。そして、ここから読み取ることができる解釈のひとつとして、「神が道徳的に絶対の完全性を備えておられる方だという意味で光である」という意味を提示している*6
 以上の注解者たちの主張は、いずれもが「神は光であり、神には闇が全くない」という「知らせ」の持っている諸側面を的確に表現しているものと思われる。
 さらに、この「知らせ」は、読者に福音書1:5の「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」という宣言を思い起こさせる。Bockは、この宣言に「光と闇が互いに戦い、そして光が勝利したのである」という、勝利者としての「光」が見出されると述べている*7。これもまた、「神は光であ[る]」ということのひとつの側面であろう。
 ここで、第一の手紙に見られる「神は……である」という宣言について、手紙全体の文脈から考察を試みる。それにより、5節における「神は光であ[る]」という「知らせ」のもうひとつの側面を明らかにしたい。
 後の3:11では、ヨハネは「互いに愛し合うべきであるということ」が「あなたがた[読者]が初めから聞いている教え」だと言っている。さらに、4:8では「神は愛だからです」という宣言が登場している。はじめに C.では、この手紙の主題は「救いの確信の提示による信者たちへの励まし」であると述べた。しかし具体的に言えば、その「救いの確信」を提示するに当たって、ヨハネが一貫して主張していることは「義」と「愛」である。この手紙では、愛を行うことも義を行うことも、同様なものと見做されているようである(2:29および3:11参照)。特に3章では、前半で罪を犯すのではなく義を実践するようにと勧められ、後半でその具体例として兄弟愛の実践が勧められている。そして、4章から5章に至って、「義の行いの具体例である兄弟愛の実践は、神の愛がまずあってこそ実行することができるのだ」と、ヨハネは「義」と「愛」の2つのテーマを見事に統合している。そのようなテーマから見てみると、この手紙において「神は……である」という形で「神は光である」、そして「神は愛である」と教えられていることは、非常に興味深い。4:8では、「神の愛」を説明する文脈において「神は愛である」という宣言がなされている。そしてこの1:5では、これから先、「罪」という(義と密接に関連した)テーマを扱う上で「神は光である」という宣言をまず行っている。ここでの「神は光である」という表現は、ヨハネにとって、神が義であるという側面を強調している可能性が考えられる。
 さて、先述の通り、「神は光である」という知らせは、一見抽象的ではあるが、誰にでも想像しやすいものである。特に古代世界においては、スミスが言う通り、「それは異教徒であろうとユダヤ教徒であろうと、……多くの人々が容易に同意できたであろう一つの命題である」*8
 しかし、ヨハネはここで「神は光である」ということについて、先に指摘したこと以外にどのような考えを持っていたのであろうか。それについて、旧約聖書の記述やヨハネ福音書の記述を引用しつつ、考えていきたい。まず、「光」ということで、ユダヤ人であるヨハネは神の顕現のときに現れる光(シャカイナ・グローリー;補足その2、注釈26参照)を思い浮かべたことだろう。パウロもまた、神について「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見ることのない、また見ることのできない方」であると、シャカイナ・グローリーのイメージを用いた表現によって描写している(Iテモ6:16)。神はただ象徴的に光であると表現されているだけの方ではなく、実際に「光の中に住まわれ」、光を発するお方なのである。黙示録21:23および22:25では、新天新地における新しい都(エルサレム)において、神のシャカイナ・グローリーが光源であるということが預言されている。
 他に、神と光を結びつけている聖書箇所について、いくつかの例を見ていきたい。詩篇27:1では、ダビデが次のように歌っている。

は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

ダビデは、神を「私の光、私の救い」と言っている。彼は「光」というモチーフで、救いの希望を表しているのだろう。ダビデにとって、神は救いの希望の光なのである。福音書1:9においても、このモチーフが連続しているように思える。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」光であるイエスは、自らを救いの希望として世に提示された。
 さらに、「救い」のモチーフとしての光は、それを信じて救われた者を(義の道に/道徳的に)導く光でもある。詩篇119:105では、神のことばについて「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と歌われている。神のことばは、それを受け取る者の「ともしび」であり、その者が行く「道の光」なのである。イエス御自身もまた、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われた(ヨハ8:12)。また、「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい」とも言われた(ヨハ12:35)。イエスは、彼に従う者を世において義の道へ導き、その道を照らす「光」なのである。
 要約すると、まず、神は栄光の光の中に住まわれる方であり、光そのもののお方である。次に、その光は、神だけが与えることができる救いという象徴的意味を持っている。そして、それは義の道へと導く「ともしび」の象徴でもある*9
 さらに、ヨハネ福音書には記録されていないが、ヨハネと「光」の関係について無視することができない重要な出来事がある。それは、彼はイエスが「目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」のを直接目撃したということである(マタ17:1–8)。彼は、旧約聖書の伝統や、イエスの教えの中で「神は光である」という感覚を持っていただけではない。彼は、イエスが持つ栄光の輝きを目撃したのである。この体験はヨハネにとって、単なる教理以上に「神は光である」ということを教えるものであったに違いない。
 そのことの衝撃に、私たち自身の想像力はとても及ばない。私たちの理性自体は、「光」という表現の意味を、聖書の様々な記述から分析・考察していくしかない。しかし、私たちは御霊をいただいている者である。「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」方である(Iコリ2:10)。神の御言葉である聖書から「神は光である」ということについて分析し、学んだことを用いて御霊が私たちの理解を助けてくださることに、大いに期待しようではないか。

2.闇の中を歩みつつ神との交わりを保つことはできない(1:6–7)

6: もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。
7: しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

6節

 直前の「知らせ」において、「やみ」は「光」と対照をなしていた。福音書であれ手紙であれ、「光」と「やみ」は一貫して対照をなしている。福音書1:5などを見れば、対立していると言っても過言ではない。そして、先述の通り、「光」は既に「やみ」に対する勝利者でもある。したがって、もし誰かが「やみが少しもない」神と「交わりがある」と言うならば、彼の歩みは「やみの中を歩んでいる」こととは相容れないはずなのである。
 この手紙が主題として異端者たちの主張への反駁を含んでいることから(はじめに B. 参照)、ヨハネは「もし(私たちが)……と言うなら」という表現を通じて、異端者たちの主張を否定している可能性が高い*10グノーシス主義者の中には、自分たちが神を知っている「霊的な人々」であるとしながら、自分たちは「いかなる表面的な泥にも決してまみれない『真珠』だと」考え、放蕩を推奨していた人々さえ存在したことが確認されている*11。少なくとも手紙の内的証拠からは、ヨハネの論敵たちは兄弟愛を実践していなかったようだ(2:4、9;4:20参照)。このことからも、彼らが「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでい」たことがわかる。
 後に見ていくことになるが、ヨハネは「私たちには神との交わりがあるのだから、罪の性質さえもない」という主張をも退けている。「神と交わりがある」としても、人間の罪の性質そのものは残ったままである。したがって、ヨハネのこの批判は、「[やみの中を歩んでいながらも、神と交わりがあるという]主張を故意に、また意図的かつあからさまにするなら、『偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません』」という意味で捉えるべきなのだろう*12。もっとも、積極的ではなくとも罪を犯すことは、真理を行っていることにはならない。信者の罪に対するバランスの取れた適切な態度は、次の7節においても垣間見ることができる。

7節

 6節では、「やみの中を歩んでいる」者は神との交わりを持っていない、ということが強調されていた。この7節では、「神と交わりを持っている」(6節;新共同訳)とはどのような状態なのかが教えられている。
 ここでは、3節に続いて「交わり」が強調されている。光の中を歩んでいる──つまり読者たちが使徒たちの教えに従い、義の道を照らす光に導かれて歩んでいる(5節参照)のであれば、彼らは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に根差した「交わりを保」つことになる(3節参照)。以下で論じていくように、イエスが伝えた福音のメッセージを「信じる」ことと、「光の中を歩」むこととは、切っても切り離すことができない関係にある。
 御子イエスがその血によってすべての罪から(私たちを)「きよめ[る]」という動詞katharizeiの時制は現在形である。ダフによれば、ギリシャ語における動詞の時制は「その動作が『どのように起こるか』という様態(継続、完了等)をも示」す*13。また、現在時制は「継続と不定義の2つの様態を表現しうる時制で」ある。ここでの「御子イエスの血[が]すべての罪から私たちをきよめ」てくださるという教えについては、「私たちも光の中を歩んでいるなら」というやはり現在時制の表現が先行しているという文脈を考えると、継続した動作を表していると考えてもよいだろう。
 また、ここではhamartias(単数形)が新改訳では「すべての罪」、新共同訳では「あらゆる罪」と訳されている(また、多くの英語訳についても同様である)。Westcottは、この単数形の「罪」は「[罪の]源、原理であり、[罪の]個々の現れのことではない」と言っている*14。いずれにしろ、ここでは個別の罪の行いではなく、「罪の原理そのものを扱うキリストにある神の働き」が強調されている*15。そのような意味では、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」という新共同訳の翻訳は正しいのである。
 すなわち、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを保ち、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ」続けるのである。ストットは次のように要約している。

明らかなことは、もし私たちが光の中を歩むなら、神はどのような罪からも私たちをきよめてくださるのであり、さもなくば妨げられていた相互の交わりを賜物により与えてくださるのである。*16

 私たちは、イエス・キリストを信じることによって既に罪赦されたのではなかったか。パウロによれば、それによって、イエスを信じた者たちは既に神と和解しているのである(ロマ5:8–10)。もしそれだけで罪の赦しが完了しているのであれば、なぜ私たちは罪からきよめられ続けなければならないのか。この問いに対する答えは、続く8節を読むことで明らかになる。
 パウロがこの問題を論じているローマ人への手紙を参考にして結論的に言えば、私たちが既に「義と認められた」としても(ロマ5:9)、アダムから引き継いだ罪の性質(ロマ5:12)は依然として残ったままなのである。だからこそ、私たちはきよめられ続けなければならない。
 イエスを信じた者たちが義と認められ、神と和解することのただひとつの条件は、「信仰」である(ロマ4:2–3)。確かにアブラハムの「信仰による義」は後の行いによって確証されたのだが(ヤコ2:21–24)、その前に「信仰による義」があったのである(ロマ4:10–12)。
 しかし、ヨハネはここで「私たちも光の中を歩んでいるなら……御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と言っている。既にイエスを信じた者たちが「キリストの血によって清めを受け、互いの喜びに満ちた交わりを受ける条件は、光の中を誠実に、堂々と、正直かつ率直に歩むことなのである」*17。この主題は、9節で再度取り上げられることになる。
 ここには、罪の現実を確かに見つつ、しかし罪を決して大目に見てはならないというヨハネのバランスある罪認識が見られる。このバランス感覚は、この後も義について、愛について、そして御子について論じていくこの手紙の中で、一貫して存在しているものである。
 さて、旧約聖書の時代には罪を犯すたびに動物の犠牲を捧げる必要があったのに対して、今の時代の私たちが罪からきよめられ続けるための土台は、既にただ一度流された「御子イエスの血」である。ヘブル人への手紙の著者が言うように、モーセの律法について、「やぎと雄牛の血」は「聖めの働きをし」たものの、「罪を除くこと」はできなかった(ヘブ9:13;10:4)。しかし、「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」られた(ヘブ10:12)。

もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブ9:13-14)

 ヨハネの論敵たちは、神であるイエス・キリストが人間でもあったことを拒否していた。もしくは、ナザレのイエスと神であるキリストとを区別していた。仮にケリントス主義に見られるような教理が異端者たちにあったのだとすれば、後者の可能性が高い。しかし、いずれの立場でも、人間イエスが十字架で苦難を通過され、血を流されたことの重要性は低められている。いや、全くもって失われていると言っても過言ではない。それでありながら、彼らは神と交わりを持ち、キリストを知っている霊的な人々であると自認していたのである。
 だが、「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とする」のは御子イエスの血なのである。「いのちのことば」を信じる者は、何があろうとも、この真理の土台から離れてはならないのである。
 したがって、信者が罪からきよめられることは「光の中を歩」むことによるのであるが、「光の中を歩」むことは、「御子イエスの血」によって既に義と認められ、神と和解させられているから可能になるのである*18。「罪」についてのバランスの取れた理解が必要であるように、この「光の中を歩」むことと「きよめられ」ることの間にある関係についても、バランス感覚が必要である。いずれか一方に傾くことは、律法主義を持ち込むか、罪を大目に見てしまう危険性があるからである。

*1:D・M・スミス『現代聖書注解 ヨハネの手紙1、2、3』新免貢訳(日本基督教団出版局、1994年)75頁

*2:Charles Caldwell Ryrie, The Ryrie Study Bible: English Standard Version (Chicago, IL: Moody Publishers, 2011) 1534.

*3:Glenn W. Barker, 1 John, Expositor's Bible Commentary, vol. 12, Frank E. Gaebelein, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1981) 309.

*4:Ronald Sauer, "1 John," The Moody Bible Commentary, Michael Rydelnik and Micahel Vanlaningham, eds. (Chicago, IL: Moody Publishers, 2014) 1976.

*5:ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)78頁

*6:同上

*7:Darrell L. Bock, Jesus According to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels (Grand Rapids, MI: Barker Academic, 2002) 413.

*8:スミス『ヨハネの手紙1、2、3』75頁

*9:なお、ストットは「聖書における光の象徴的用法」について、「知的には光は真理を、闇は無知や誤りを意味し、道徳的には光は清さを、闇は悪を意味する」と要約している(ストット『ヨハネの手紙』79頁)。

*10:Barker, 1 John, 310;ストット『ヨハネの手紙』46–47頁

*11:エドウィン・M・ヤマウチ「グノーシス主義」『キリスト教2000年史』井上政己監訳(いのちのことば社、2000年)96頁

*12:ストット『ヨハネの手紙』83頁

*13:ジェレミー・ダフ『エレメンツ 新約聖書ギリシャ語教本』増補改訂版、浅野淳博訳(新教出版社、2016年)45–46頁

*14:Brooke Foss Westcott, The Epistles of St John: The Greek Text with Notes and Essays, 3rd ed. (Cambridge and London: Macmillan and Co., 1892) 22.

*15:Barker, 1 John, 311.

*16:ストット『ヨハネの手紙』84頁

*17:前掲書、85頁

*18:スミス『ヨハネの手紙1、2、3』76頁