軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「聖書信仰」を考える(後編)

 本記事は、以下の「『聖書信仰』を考える(前編)」の続きとなっています。

balien.hatenablog.com

 「前編」では最近いのちのことば社から出版された『聖書信仰と諸問題』を取り上げました。この「後編」では、私自身が最近「聖書信仰」について考えた3つのことを書き並べておきたいと思います。その「考えたこと」とは、第一に「土台としての聖書論」、第二に「聖書論と理論体系に関する問題」、そして「『聖書信仰』をめぐる議論について」であります。
 先の記事に比べて内容が雑多になってしまい、また各項目についても大した結論が出せておりませんが、あくまで「雑感」ということでよろしくお願い致します。拙いながらも、読者の皆様が「聖書信仰」を考えていくきっかけ、問題提起としてお役に立てれば幸いです。

トピック

3.「聖書信仰」に関する雑感(その1):土台としての聖書論

 聖書論(Bibliology)とは聖書自体を扱う、すなわち「聖なるテキストについて聖書自身が言っていること」を扱う組織神学の一分野である*1。いかなる教理であれ、そこに反映されている聖書観や解釈規範は、その神学体系を規定する土台となっていると言える。特に聖書論は聖書の性質自体を扱っているものであり、ある神学体系における聖書観や解釈規範をも統合した教理である。したがって、ある神学体系に含まれる諸教理に対しては、その体系における聖書論が大きな影響を及ぼしているといっても過言ではないだろう。
 よく言われることで、あらゆる神学的営みは「キリスト論的」でなければならない、ということがある。キリスト教神学者は受肉された神の御子であるイエス・キリストの権威を大前提としているのだから、至極当然のことである。しかしながら、キリストはどのようなお方なのかということに関する情報源は聖書である。したがって、「キリスト論的」というアプローチについても、ある聖書観や聖書解釈があり、そこからキリスト論が導き出され、そのキリスト論に基づいて聖書論が構築されるという循環性が存在している。今の段階では、その循環性の是非を問うのではなく、ある神学的営みや教理は、それに取り組む者の聖書観や聖書信仰──すなわち聖書論が土台になっているのだということを強調したい。
 信者の信仰生活を規定していくのは、その信者の持つ神学である。あらゆる信者が聖書解釈に基づいた教理から構成される神学体系を意識的に持っているということではない。しかしながら、どのような信者であれ、彼/彼女は父なる神、キリスト、聖霊、救い、教会、終末論といった様々な事柄に関して、聖書の記述に基づいた何らかの理解を持っており、それらを信仰生活に適用している。ここには聖書の記述に関する知的活動が働いているのだから、先述のように「信者の信仰生活を規定していくのは、その信者の持つ神学である」と言うことが可能であると思われる。ともかく、信者の信仰生活には、彼/彼女の聖書理解が大きな影響を与えているということは言うまでもない。そして、それをふまえれば、信者の聖書観や聖書信仰は彼/彼女の信仰生活において土台の一部を成しているということができるだろう。
 したがって、信者の実践という分野に関係してくる(1.はじめにの冒頭で触れた)「キリスト者の一致」のようなテーマについても、これを考える上で聖書信仰に触れることは避けられないのである。

4.「聖書信仰」に関する雑感(その2):聖書論と理論体系に関する問題

 先の『聖書信仰とその諸問題』の書評で鞭木氏の「キリストの権威と聖書信仰」という章を扱う中で、また直前の3.においても、聖書論には循環性が見られるということを指摘した。それでは、この循環性というのは必ずしも問題視され、乗り越えられなければならないものなのだろうか、ということを少し考えてみたい。これは、理論体系における循環性という問題でもある。
 私の友人のひとりである@makoJOSIAH氏が、ある体系の閉鎖性について、Twitterにおいて次のような発言をしていた。

 上記の発言は、「無神論・反宗教bot」である@AtheismBotJPの投稿に対する応答であり、その文脈において理解される必要がある。発言の文脈が如何なるものであるにしろ、私は@makoJOSIAH氏の「基本的に、キリスト教も科学も唯物論も自己無矛盾な閉じた体系である」という認識に同意する。いかなる理論体系や思想体系であれ、そこにおいて諸々の「理論」が体系化されている時点で、それは閉じた体系(閉鎖系)となっている*2。その体系が閉鎖系であるということは、ある一定の条件が体系を構築する際の前提として組み込まれているということである。したがって、そのような閉鎖系の体系には、本質的にある種の循環性が備わっていると言うことができるだろう。
 マクグラスは閉鎖系へのアプローチとして、「理論における閉鎖系の範囲は実在の性質によって定められる」という批判的実在論の認識を採用している*3。批判的実在論においては、科学的営みの対象となる実在は基本的に「不変の随伴現象など滅多に起こらない」、「開いた」(すなわち開放的な)実在であると認識されている*4。しかしながら、このことから科学的営みが開放系の体系を生み出すことができると決めつけることはできない。なぜなら、科学的営みの中で理論を確立し、体系化していくことにおいては条件づけられた閉鎖系が求められるからである*5。したがって、批判的実在論を導入して理論体系の構築を試みたとしても、対象とする実在が開放系であろうと閉鎖系であろうと、その観察から理論として規則性を記述し、さらにそれらの理論の体系化を図れば、基本的にその理論体系は閉鎖系であると言える。キリスト教神学において対象となる実在──最も大きなものは聖書というテキストであろう*6──を表現し、理論を記述し、体系化しようとしても、やはりその理論は研究者自身の思考、及びそこに導入された前提などによって条件づけられた閉鎖系となる。前述のようにマクグラスの批判的実在論的な閉鎖系へのアプローチを前提にしたとしても、ある者が立てた理論体系自体は閉鎖系であって、そこに「自己無矛盾」性が求められている*7ということは変わらないものと考えられる。
 さて、こういった認識は、聖書信仰についての論争にどのような影響を及ぼすのであろうか。マクグラスや藤本氏が聖書の無誤性を強調する保守的聖書信仰に対して行われた批判のひとつは、「そういった聖書観は近代合理主義に基づいたものである」といったものだ。これは、保守的聖書論がある哲学的前提を持ち、それに基づいた閉鎖系であることに伴う循環性を有していることから発出される批判でもあろう。しかし、ある聖書観に哲学的前提が置かれているという意味では、マクグラスの聖書観や藤本氏の聖書観においても相違ないのである。前者における前提を「近代合理主義」という哲学思想でまとめてしまうのであれば、後者における前提はポストモダニズムであると言うことができるだろう*8
 保守的であるかどうかには関係なく「ある聖書論は閉鎖系であり、何らかの前提を有している」ということを論じたところで、聖書信仰を抱く福音主義神学における「循環性」の問題に的を絞って考えてみたい。マクグラスは、先述のように「閉鎖系の範囲は実在の性質によって定められる」という批判的実在論的認識を科学的神学の前提とした。しかし、聖書の性質はどのように定められるのか。それが主に聖書の自己証言によって定められるとしたら、ではキリスト教神学においてなぜ聖書のテキストという実在を権威あるものと認めるのかという問題に対する循環性は残されたままである。
 では、マクグラスや藤本氏のように、聖書の権威を認める正統的福音主義の土台として、(教父たちや宗教改革者たちに代表される正統主義神学者たちの、また正統主義を保持してきた教会の)「歴史」や「伝統」を持ち出した場合*9はどうなるだろうか。この場合も、まずほとんどの歴史上の神学者たちは聖書の権威を大前提として置いてきたのであって、福音主義神学の聖書論に関する循環性は解決されない。
 では、聖書論の土台に、神の権威、キリストの権威、また聖霊の導きといったものを導入したらどうか。この場合もまた「唯一なる神が存在する」ということや、「ナザレのイエスは受肉された神である」といったこと、さらに「教会の歴史には聖霊の導きが働いている」といった前提が残されている。しかも、そういったことを説明するための最終的なソースは聖書のテキストであり、結局は聖書の権威に関する循環性は残されてしまうのである。
 以上のようなことをふまえると、マクグラスや藤本氏がなされたような主張は、立場に関わらず福音主義聖書論には前提条件及びそれに伴う循環性が存在していることを浮き彫りにしているものだと思われる。そして、彼らによる保守的聖書信仰への批判が、そのような聖書信仰において述べられている聖書の性質を根本的に覆すことの必然性を確立しているようには思えないのである。
 繰り返し述べてきたように理論体系の循環性を前提とするならば、その体系(及びそこに含まれる理論)の自己矛盾性を強調して指摘していくこと、あるいは自己無矛盾性を強調して主張していくことが、議論としては有益なのではないだろうか。たとえば、2.で引用したように赤坂氏が「歴史的・文法的釈義の訓練と、聖書解釈における聖霊の働きへの信頼とは相補的・相乗的に働くものである」と述べておられることは、保守的聖書論の自己無矛盾性の擁護であると捉えることができるだろう。さらに言えば、どのような立場の聖書信仰であれ、私たちはまず自らの立場が自己無矛盾であるかどうかを吟味していく必要性があるのではないだろうか。

5.「聖書信仰」に関する雑感(その3):「聖書信仰」をめぐる議論について

 これまで、「聖書信仰」について私が最近考えていたことを書き並べてきた。聖書信仰について福音派においても様々な議論が交わされている中で、私にはどの立場がキリスト者にとって規範的な聖書観であるか、ということに対する普遍的答えを提供する力はない。だが、私個人は、自分が保守的聖書信仰に立つことに今のところ満足している。
 親しい兄弟姉妹方の中には、保守的聖書信仰を抱いている方々もおられれば、より藤本氏の聖書観に近い立場の方々も、山﨑ランサム氏の聖書観や、エンズの聖書観に近い立場の方々もおられる。いずれの立場にも非常に献身的な方々がおられるし、彼ら/彼女らと出会えたことに、心の底から主に感謝している。
 また、藤本氏や山﨑ランサム氏がされているような取り組みは、聖書信仰を改めて根本から考えていこうという問題提起を促してくださっている点で非常に尊いものだと思っており、感謝している。氏らの取り組まれた成果である文献に触れてこそ、私はここで述べてきたような事柄を考えることができたし、その準備として御言葉にじっくり耳を傾けることもできた。
 しかしながら、私は聖書観の違う兄弟姉妹の話を聞いてもなお、保守的聖書信仰から「進む」ことの必然性を感じることができないのである。まず、この立場の聖書論やそこから編み出される神学体系において、致命的な欠陥があるとは思えない。かつてこの聖書論を発展させてきた人々において近代合理主義の影響があったとしても、神の御言葉の意味を歴史的・言語的に追求していこうという取り組み自体ははたして問題なのだろうか。この点について、藤本氏や山﨑ランサム氏がされているような主張が決定的であるようには思えない。また、保守的聖書信仰から離れた後はどうしたら良いのかという代替案も、十分には示されていないように感じるのである。
 さらに、この聖書論から編み出される神学について、そこに人をキリストから引き離してしまうような問題があるとも思えない。その神学に立つ者が語るメッセージの中には、そのような問題がある場合も考えられる。しかし、その問題は神学体系そのものが持つ根本的問題かというと、そうではないように思える。たとえば、保守的聖書信仰に立つ者の中に進化論を否定する者*10がいることについて、現代自然科学との関係から批判がなされることがある。だが、「進化論の否定」そのものがはたして問題なのかどうかについては、一考の余地がある。そこには、進化論が普遍的な真理であると断言できるのかどうか、また神学的営みにおいて聖書の権威と自然科学の関係をどう考えるべきなのかといった問題がある。進化論を否定する者の言動の中に、キリスト者が実践すべき「愛」から見て問題が起きていることはあるかもしれない。しかし、それは進化論を否定するということに至る論理や、その判断、ましてやその者が立つ神学体系自体の問題ではないのである。
 藤本氏らの著作や『聖書信仰とその諸問題』などを読んで、私は自らの聖書観を改めて考えることを迫られた。しかし、結論としては、その聖書観からシフトチェンジを行うことの必然性を見出したのではなく、その聖書観そのものについて論理的補強をするための取り組みを続けていく必要性を感じさせられた。これが私とは聖書観が異なる方々にとっては、上記の文献などをふまえると、保守的聖書観に「留まる」必然性は見出されないという結論が下されるかもしれない。しかし重要なのは、それらの文献などから、それぞれの立場の考えやパラダイムを知り、その知的対話の中に身を置くことである。また、そういった対話をふまえて自らの立場について冷静に論理的研摩を加えることである。そして、何よりも、キリストにある兄弟姉妹における異なる立場の考えを知るということは、互いの交わりを健全にしていくことに貢献してくれると思う。

 ただし、最後の最後に取って付けたような形になってしまうのだが、この聖書論についての議論にのめり込むあまり、聖書自体に耳を傾けることを忘れてしまってはならない。佐藤優氏は、神学に取り組む者、いやキリスト者にとっては、聖書を虚心坦懐に読むこと、すなわち「神の啓示に虚心坦懐に耳を傾けること」が最も大切であるということを随所で強調しておられる*11。私は佐藤氏の神学的立場には同意していないが、氏が仰っていることはもっともだと思う。以前神学にのめり込み、聖書よりも神学書を多く読んでいるような状態に陥っていたとき、私はどこかで氏のそういった主旨の発言を目にし、最も大切なことを疎かにしてしまっていたことに気づかされたことがあった。そして、まず聖書の言葉に耳を傾けることの必然性が次の聖句を土台としていることは、どのような聖書信仰を持っている方であれ、同意してくださることだろうと思う。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(テモテへの手紙第二3:16–17;新改訳第三版)

 私たちはまず聖書を虚心坦懐に読み、その御言葉に耳を傾けていかなければならない。それは、「教えと戒めと矯正と義の訓練」のために有益なのである。また、私たちが「『すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者』となるために神が求めておられるのは何か?」と考えていくためにも、有益なのである。
 聖書信仰に関する議論もまた、「十分に整えられた者」によって展開されていくことこそが、キリストのみからだなる教会にとって有益なのではないかと思う。そう考えたとき、私は自分自身の姿を見つめ直して恥ずかしくなる。自分がキリストのみからだに属する者として仕えていくためには、どうしたら良いのか──聖書信仰論争からは随分と離れた着地点となってしまった気はするが、ここ最近聖書信仰について考えていく中で、常にこの部分に着地せずにはいられなかった。そして、今後もあちこちで展開されていくと思われる聖書信仰論争においても、この着地点と共通する視点──キリストのみからだにとって何が有益なのかという点──が忘れられないことを願って止まないのである。

*1:Charles Ray, "Bibliology," Evangelical Bible Doctrine: Articles in Honor of Dr. Mar Couch, Kenny Rhodes and Keith Sherlin, eds. (Bloomington, IN: AuthorHouse) 100.

*2:アリスター・E・マクグラス『神の科学──科学的神学入門』稲垣久和・岩田三枝子・小野寺一清共訳(教文館、2005年)232–33頁

*3:前掲書、233頁

*4:ロイ・バスカー『自然主義の可能性──現代社会科学批判──』式部信訳(晃洋書房、2006年)11頁;同『科学と実在論──超越論的実在論と経験主義批判』式部信訳(法政大学出版局、2009年)92頁も参照のこと。

*5:バース・ダナーマーク、マッツ・エクストローム、リセロッテ・ヤコブセン、ジャン・Ch・カールソン『社会を説明する──批判的実在論による社会科学論』佐藤春吉監訳(ナカニシヤ出版、2015年)103–09;276–77頁

*6:マクグラス『神の科学』259–61頁

*7:Geislerはキリスト教弁証学において無矛盾律(Law of noncontradiction)を積極的に導入している。ここには、キリスト教神学には自己無矛盾性が求められているという認識があるものと考えられる。Norman L. Geisler, "Review of Five Views on Biblical Inerrancy, edited by J. Merrick and Stephen Garrett," Vital Issues in the Inerrancy Debate, F. David Farnell, ed. (Eugene, OR: Wipf and Stock Publishers, 2015) 79.

*8:藤本満『聖書信仰──その歴史と可能性』(いのちのことば社、2015年)254–57頁;赤坂泉「聖書信仰の諸問題」『聖書信仰とその諸問題』聖書神学舎教師会編(いのちのことば社、2017年)37頁

*9:マクグラス『神の科学』266–68、277–80頁;藤本『聖書信仰』284–97頁

*10:ここでは、保守主義者が否定している「進化」は大進化 macroevolutionであるということを想定している。そのような主張については以下の文献を参照のこと。エリクソンキリスト教神学』第2巻、153頁;ドン・バッテン編『聖書に書かれた「創造」の疑問に答える─創造論、進化論、創世記に関する60以上の解説─』(バイブル・アンド・クリエーション、2009年)125–44頁

*11:例として、『神学の思考 キリスト教とは何か』(平凡社、2015年)45頁を参照。