聖書の「無誤性」論争をゆる〜く考える
年明けに「『聖書信仰』を考える(前編)」および「同(後編)」の2つの記事で、「聖書信仰」をめぐる論争について少しだけ考えてみました。その後も何となく考え続けておりまして、ここではその考えたことをゆる〜く書き残しておきたいと思います……が、所詮人間の考えでありまして、これからも変化し続けていく……かも、しれません。
いつもよりもさらに雑然とした記事になっているかと思いますが、肩の力を抜いてお付き合いいただければ幸いです(笑)。
トピック
「無誤性」とは?
さて、記事のタイトルにある「無誤性」とは何でしょうか? 「『聖書信仰』を考える(前編)」でも説明しましたが、ここでもう一度振り返っておきたいと思います。
日本の福音主義神学では、「無誤性」と言うとき、多くの場合は英語のinerrancyの訳語として使われています。Inerrancyとは「間違い(誤り)がないこと」を表す名詞です。他に、「無謬性」という表現もあります。多くの場合、こちらはinfallibilityの訳語として使われています*1。Infallibilityもinerrancyと意味が似ていますが、どちらかというと「間違い(誤り)得ない」という意味です。ちなみに、赤坂泉氏は聖書に関して「誤り得ない」といった信仰告白が明確化され始めたのは宗教改革以来、「誤りがない」ということも加えられはじめたのは19世紀後半からのようだと述べています*2。
「無誤性 inerrancy」にしろ「無謬性 infallibility」にしろ、それが聖書の性質を表しているというのは、「福音主義」の神学であれば当然のような気がします。たとえば、日本福音同盟の「規約」では、信仰基準の中に「聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である」と書かれています。また、私も所属しておりました関東地区キリスト者学生会の信仰基準にも、「旧新約聖書66巻は、神の選ばれた聖書記者たちによって、神の霊感のもとにしるされた神のことばであって、原典において誤謬を含まず、信仰と生活の唯一の規範である」と書かれています*3。
では、なぜ福音派において「無誤性」をめぐる論争が起きているのでしょうか。色々な要素は考えられますが、一番大きい要素は、「無誤性」を主張する人の多くが「聖書は歴史的記述にも誤りがない」と考えていることです。「歴史的な記述」というのは、たとえば、聖書に出てくる人名、地理的情報、また歴史的出来事のことです。創世記の天地創造の記述とか、ノアの洪水とか、そういった自然科学の定説では有り得ないように思えるアレコレの記述も、「歴史」を記述しているように読むことができます。ですので、「聖書の歴史的記述には誤りがない」と信じていて、創世記1〜11章の記述も全て「歴史的記述」だと解釈すれば、「創世記1〜11章の記述も歴史的事実だ」ということになるわけです。(これは、もっと突っ込んで、色々な場合分けを考えていけば極端な説明になってしまうのですが…ということだけお断りしておきますm( )m)
そのように「無誤性」という考えを聖書の全ての記述に文字通り当てはめていく考えの人々がいれば、当然反論も出て来ます。たとえば、「聖書が『誤り得ない』というのは、救いと信仰生活にかかわることだけだ。聖書に書かれていることの歴史性にまで誤りがない、という意味ではない」という反論があります。他にも、そもそも「無誤性」という言葉をやめるべきだとか、そんな概念は聖書論から取っ払ってしまえ! とか、色々な議論が交わされております。
そういうわけでして、「無誤性」の論争には色々な側面がありますが、ひとつの大きな側面は「聖書に『誤りがない』とは、どこまで『誤りがない』ということなのか?」という論争だということです。もうひとつは、「聖書の記述の歴史性にも誤りがない、ということは福音的信仰において必須なのか?」ということです。「無誤性」の論争で最も盛んに議論されているのは、この2つのトピックじゃないかな〜と思います。
さて、この論争が盛んにされることがはたして有意義なのか? という根本的なところはさて置き(笑)、この論争を追いかける中で考えてみたことをとりあえず書き並べておきたいと思います。
認識論から考える──基礎づけ主義だからダメなのか?
「聖書の記述では歴史性にも誤りがない」という主張への反論として多いのは、「そういった聖書論は、誤った認識論を前提としている」ということです。要するに、「物事はどうやって認識されるべきか」という哲学的な前提が、そもそも間違ってるんだよ〜っていうことですね。
たとえば、現代における「聖書の無誤性」という聖書論の土台を据えた人々の中に、19世紀のアメリカの神学者であるチャールズ・ホッジやB・B・ウォーフィールドといった人たちがいます。彼らはプリンストン神学校の教授陣だったということで、その神学は「古プリンストン神学」と呼ばれています。しかし、彼らの古プリンストン神学については、その背後に「(古典的)基礎づけ主義」や「理性主義」、「スコットランド常識哲学」といった哲学的前提があるのだという批判がされています*4。そして、それらの哲学に基づいた認識論では、人間の理性が絶対的なものだということが前提とされているので、理性によって神の啓示について何かしら判断を下そうとはけしからん! というわけですね(やや乱暴なまとめですが)。
ここでは「基礎づけ主義 foundationalism」についてちょっと考えてみたいと思います。この認識論を主張した人々の中で最も有名なのは、デカルトでしょう。「我思う、故に我在り」で有名な人ですね。彼は、「たとえすべてのものが疑うことができるとしても、その場合疑っている自分が存在していることだけは疑うことはできない」という洞察に行き着きました*5。彼はこれが明らかな真理であるということを根拠にして、「自己意識の確実性は近代の学問的知識の確実性を最終的に保証する原理」としました。要するに、自分が考える中で正しい自己意識にたどり着けるのだから、自分の思考において明らかに認識できるものは真理である、ということでしょうか。このように、人間の「理性」を確実なものとして基礎に据え、そこに基礎づけられた信念は正しいものである、とするのがデカルト的な基礎づけ主義(Cartesian foundationalism)です。
しかし、このように人間の理性を絶対確実なものとして基礎づける行為に対しては、様々な批判がされてきました。この基礎づけ主義とは異なる立場でも代表的な認識論は、整合主義(coherentism)でしょうか。基礎づけ主義では、ある信念が正しいかどうかの判断は、それが基礎づけられたものは何であるかによって判断される、とされています。一方整合主義では、信念を体系づけていったとき、その体系の中で整合していることで、ある信念が正しいかどうかが判断される、とされています。その整合性を重視しているために「整合主義」と呼ばれているわけですね。ただし、この整合性を考えていく上ではやはり人間の理性や認識、経験といったものが含まれていくわけで、やはり「基礎」という問題は避けられない、といった考察もなされています*6。
認識論に関する議論では、極端な基礎づけ主義や極端な整合主義を避けていくように、他にもまあ実にたくさんの論が展開されています。ちなみに、「基礎づけ主義」という立場が完全に下火になっているかというと、そうでもありません。「基礎づけ主義」で検索すると、それに反対する立場からある程度擁護する立場まで、色々な主張がわんさか溢れています。英語で「foundationalism」とか「穏健な基礎づけ主義 modest foundationalism」とかで探せばもうすっごいですよ。ものすっごいです。
で、聖書の歴史的記述が全て正しいとする聖書論(これをとりあえずは「保守的立場」としておきましょうか)が本当に「人間の理性は正しい!」ということを土台にしているのであれば、確かにそのような基礎づけ主義は退けられるべき…かもしれません。ですが、どのような聖書論であれ、それを考えていく上では人間の理性が用いられているわけです。しかも、どのような立場であれ、聖書を読む過程では聖霊の導きと読者の理性の両方が必要だということでは、(よっぽど極端な立場でなければ)否定されることはまずないと思います。ですから、保守的な立場に対して「理性主義が土台にあるからダメ」と言われても、いまいちピンと来ないんですよねぇ。
福音主義神学って、「聖書は神のことばである」という大前提があるわけですよ。であれば、福音主義神学っていうのはある程度の基礎づけは避けられないんじゃないかっていう気がします。ですから、聖書論についてのある立場を考えていく上で、認識論や論理学から考察していくことは重要だと思いますが、「まず認識論から」出発していくことはあまり有益じゃないな、と思いました。
ということで、次のトピック、「歴史」に移りたいと思います。
歴史から考える──「無誤性」は新しい教理なのか?
先に述べたように、保守的立場が捉えている「無誤性」というのは、比較的新しい教理なのだという議論があります。伝統的には聖書が「神のことば」であるということは認められつつも、そもそも「無誤」や「無謬」といった用語はそこまで発展させられていません。ですので、「無誤性」がすごく細かく論じられている時点で、保守的であれそれに反対するのであれ、どの立場における教理も「比較的新しい」と言わざるを得ないのではないでしょうか。
「聖書の記述の歴史性も完全に正しい」という認識に反対するということは、その歴史性にある程度疑いを入れるということです。たとえば、モーセ五書(創世記〜申命記)の著者がモーセであるという「モーセ著者説」に関する議論があります。「伝統」ということであれば、モーセ著者説は伝統的立場です。これに反対する代表的立場は「文書資料説」というものでしょう。これは、モーセ五書は様々な資料が後代になって編集されたもので、モーセ本人が著者であるわけではない、とする立場です。この仮説が広く受け入れられ、盛んに研究されるようになったのは19世紀以降だと言われています*7。ですから、「伝統」というものを軸にして議論するのであれば、無誤性論争は袋小路に入ってしまうように思います。
歴史や伝統は貴重なソースでありまして、尊重されるべきだということは強調されていいと思います。ですが、やはりこの議論の落とし所は「聖書に書かれていること」に求められるべきではないでしょうか。
おわりに──やっぱり聖書に着地した
色々と考えてみて、そもそも福音主義では「聖書というテキストに何が書かれているか」が出発点なので、なんらかの認識論や、歴史・伝統を出発点にして聖書信仰を考えていくのは間違ってるんじゃないか? という感覚が残りました。
創世記1〜11章の象徴的解釈でも、モーセ五書についての文書資料説でも何でもいいですが、聖書を解釈する上でそういった立場を取るなら保守的に「無誤性」を考える必要はありません。逆に、そういった立場を取らないなら、保守的な「無誤性」を退ける必要はありません。ではそういった立場をどう考えればいいかというと、ひとつには聖書のテキスト自体を厳密に解釈することから出発すべきかなと思います。それは旧約聖書のテキストそのものでもありますし、イエスが旧約聖書について発言をされている限り、新約聖書のテキストも対象となってきます。たとえばジョン・ウォルトンなどは、テキスト研究という面から、創世記1〜2章の象徴的解釈を擁護しています*8。それに対し、津村俊夫氏などは、やはりテキスト研究という面からウォルトンの解釈に反対しています*9。
なので……やっぱり聖書の「無誤性」論争って、聖書解釈ありきの問題であって、各立場の認識論や歴史性を議論してもそこまで意味はないんじゃないかなぁ……なんて、身もふたもないことを思ってしまった次第ですf^_^; まあ「テキスト研究から出発するったって、批評学の知見とか取り入れないとダメじゃないか!」と言われると話がひっじょ〜に複雑になってくるのですが、それでも議論の「出発点」として、聖書そのものから離れちゃいけないんだなぁというところに着地したわけです。その聖書のテキストから出発して初めて、私たちが聖書解釈に文献批評学や自然科学の知見をどの程度/どのように導入していくべきか、という問題が論じられると思うのですね。お後がよろしいようで……
おまけ:参考文献紹介
とりあえず、このテーマを考えている中で(ちょろっとでも)参考にした文献の中で、本ブログでは(脚注等も含めて)ご紹介したことがなかったものをば。このテーマについてもっと突っ込んで考えてみたい!という奇特な方がいらっしゃれば、是非ご参考にしてください。
認識論とか哲学的な諸々のテーマについて
- ハンス・アルバート『批判的理性論考』萩原能久訳(御茶の水書房、1985年)
- 今道友信『西洋哲学史』(講談社、1987年)
- 新田義弘『哲学の歴史──哲学は何を問題にしてきたか』(講談社、1989年)
- 村上陽一郎「科学的実在論について」『科学基礎論研究』Vol. 19、No. 4(科学基礎論学会、1990年)157–60頁
- 榊原研互「超越論的実在論の批判的検討──R. バスカーの所説を中心に──」『三田商学研究』Vol. 51、No. 4(慶応義塾大学出版会、2008年)43–57頁
- 稲垣久和「キリスト教哲学と科学論」『福音主義神学』第25号(日本福音主義神学会、1994年)3–23頁
- Brian K. Morley, Mapping Apologetics: Comparing Contemporary Approaches (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2015)
- James Beilby, "Contemporary Religious Epistemology: Some Key Aspects," The Enduring Authority of the Christian Scriptures, D A. Carson, ed. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2016) 795–830.
- R.Scott Smith, "Non-Foundational Epistemologies and the Truth of Scripture," The Enduring Authority of the Christian Scriptures, 831–71.
- Norman L. Geisler, "The Philosophical Roots of Modern Biblical Criticism," The Jesus Quest: The Danger from Within, Norman L. Geisler and F. David Farnell, eds., Kindle ed. (Xulon Press, 2014)
福音主義とその聖書信仰的な諸々のテーマについて
- 宇田進『福音主義キリスト教と福音派』(いのちのことば社、1984年)
- 宇田進「福音派聖書論の文献と動向」『福音主義神学』第10号(1979年)149–69頁
- 舟喜順一「霊感の用語と概念──用語整理のための覚え書──」『福音主義神学』第15号(1984年)13–33頁(※聖書神学舎教師会編『聖書信仰とその諸問題』(いのちのことば社、2017年)302–29頁にも収録)
- 伊藤明生「テクスト、意味そして読者──解釈学からの挑戦」『福音主義神学』第30号(1999年)5–22頁
- 津村俊夫「『ポストモダン』の聖書解釈──特にインターテクスチュアリティー(間テキスト性)について──」『福音主義神学』第30号(1999年)23–34頁
- 関野祐二「震災後の日本における福音主義神学の教理的課題」『福音主義神学』第45号(2014年)71–98頁
- ジェームズ・I・パッカー「啓示についての現代の諸見解」上沼昌雄・舟喜順一共訳『聖書論論集』メリル・C・テニー=カール・F・H・ヘンリー共編、舟喜順一訳編(聖書図書刊行会、1974年)121–48頁
- ネッド・B・ストーンハウス「文書としての特別啓示」内田和彦訳『聖書論論集』75–94頁
- Millard J. Erickson, "Biblical Inerrancy: The Last Twenty-Five Years," Journal of the Evangelical Theological Society, 25(4) (December 1982), 387–94.
- D.A. Carson, "The Many Facets of the Current Discussion," The Enduring Authority of the Christian Scriptures, 3–40.
- Bradley N. Seeman, "The 'Old Princetonians' on Biblical Authority," The Enduring Authority of the Christian Scriptures, 195–237.
- Henri A. G. Blocher, "God and the Scripture Writers: The Question of Double Authorship," The Enduring Authority of the Christian Scriptures, 497–541.
- Barry G. Webb, "Biblical Authority and Diverse Literary Genres," The Enduring Authority of the Christian Scriptures, 577–614.
- Norman L. Geisler, "'It's Just a Matter of Interpretation, Not of Inerrancy' Examining the Relation between Inerrancy and Hermeneutics," Vital Issues in the Inerrancy Debate, F. David Farnell, ed. (Eugene, OR: Wipf and Stock Publishers, 2015) 115–31.
*1:ただし、「無謬性」がinerrancyの訳語として使われている文献もあります。
*2:赤坂泉「聖書信仰の諸問題」『聖書信仰とその諸問題』聖書神学舎教師会編(いのちのことば社、2017年)16頁
*3:米国福音同盟(NAE)の信仰基準には「infallible」という表現が出て来ます。関野祐二氏はこれを「誤りなき」と訳し、「『無誤の』(Inerrant)や『無誤性』(Inerrancy)という語句」よりも「やや緩やかに解釈可能」な語であるとしています(「震災後の日本における福音主義神学の教理的課題」『福音主義神学』第45号[2014年]86頁)。ただし、単純な表現の意味から考えていくとすれば、赤坂氏の言う通り「infallible つまり『誤りえない』とすれば、inerrant つまり『誤りがない』のは当然のことである」と言えるでしょう(「聖書信仰の諸問題」16頁)。氏は続けて、「本来は同義語であるのに、現実には使用者によって多様な意味を持たされて用いられてきたために、これらの用語の使用と理解には注意深さが必要である」と述べています(前掲書、16–17頁)。
関野氏は「無誤性(Inerrancy)という否定的かつ誤解と分裂を生みやすい用語に代わる、より聖書の持つ性質と目的にふさわしい、聖書が誤りなき神のことばであると告白する肯定的述語に置き換える」ことを主張されていますが、その「肯定的述語」が告白することが「聖書が誤りなき神のことばである」という表現に着地するのであれば、「無誤性」という言葉を退ける必然性が見当たりません。個人的には、それよりも「無誤性」を単純に「誤りがない」と捉え、「無謬性」との違いよりも同義性をしっかりとふまえた上で、「無誤」の範囲が福音主義者の間では異なるのだと認識することの方が重要ではないかと思っています。
*4:藤本満『聖書信仰──その歴史と可能性』(いのちのことば社、2015年)74–80頁
*5:新田義弘『哲学の歴史──哲学は何を問題にしてきたか』(講談社、1989年)68–69頁
*6:R. Scott Smith, “Non-Foundational Epistemologies and the Truth of Scripture,” The Enduring Authority of the Christian Scriptures, D. A. Carson, ed. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2016) 840–43.
*7:K・A・キッチン『古代オリエントと旧約聖書』津村俊夫訳(いのちのことば社、1979年)23–27頁
*8:John H. Walton, The Lost World of Genesis One: Ancient Cosmology and the Origins Debate (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2009)
*9:津村俊夫「聖書信仰と批評学──『アダムの歴史性』」『聖書信仰とその諸問題』87–90頁