軌跡と覚書

キリスト教に関する雑感とか。

ヨハネの手紙第一 覚書き(11)2章1–2節

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

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トピック

§1 キリストのメッセージの本質(続き)

5.罪に対する正しい認識(2:1–2)

1節:私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
2節:この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

2章1節

 1章8節で罪に関する偽りの主張が反駁された後に9節で信者の罪についての教えが述べられたように、10節で偽りの主張が退けられた後、ヨハネはそれに関連して、信者が罪に対する正しい認識を持つようにと再び教えている。しかも、彼はこの節を「私の子どもたち teknia mou」という呼びかけで始めている。「子どもたち teknia」という呼びかけはこの後2:12や3:18などで繰り返し使われている。また、「小さい者たち paidia」という類似した呼びかけも、2:14、18で使われている。しかし、「私の mou」という所有格がつけられているのは、この2:1のみである。このような呼びかけは、特に「彼の親愛の情や読者との間にあった思いやりある関係」が含まれているものと考えられる*1。それだけの「親愛の情」と「思いやり」を込めて、ヨハネは読者に罪に対する正しい認識を教えようとしているのである。
 9節では、「自分の罪を言い表す」ことによる、罪によって汚されてしまう神と私たちの交わりが回復される道が教えられていた。さらに、それによって罪が赦され、「すべての悪」から私たちが清められることの土台は、御子イエスの血であった。ここでヨハネはさらに進んで、これまでの内容を述べてきた目的が「あなたがた[読者]が罪を犯さないようになるため」でもあるということを明かす。これは、9節で論じたキリスト者にとっての「罪」の適切な理解と調和している。罪は、神の義とは相容れないものである。しかし、信者であっても罪の性質の問題は残されており、罪を犯してしまうことがある。そのような場合には、罪を認め、神の御前で言い表す必要がある。そうすれば、神は御自分の義の故に赦しを与えてくださる。しかしながら、信者たちは「光」である神を信じているのであり、「光の中を歩」むべきなのは当然である。したがって、本来的には罪は信者の性質とも相容れないものなのであり、信者は「罪を犯さないようになる」べきなのである。

[罪に対して]あまりにも寛大すぎると、それは罪人への神の配剤を強調して、クリスチャンに罪を奨励するようなことになってしまう。これに対して厳格さを強調しすぎると、クリスチャンなら罪を犯すことができないとしたり、堕罪の時の赦しも復帰も拒絶してしまうことになる。ヨハネはこれらの両極論を反駁している。*2

 パウロは罪の性質について詳しく論じて「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と言いながら(ロマ5:20)、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」という問いには「絶対にそんなことはありません mē genoito」という強い否定表現をもって答えている(6:2)。彼は、信者は「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」(6:3)ことで、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ」(6:6)、「罪に対して死んだ」のだと教えている(6:2)。彼自身の言葉をもって要約すれば、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8:1–2)。彼の論理によれば、信者は本来罪の原理から解放されているのだから、罪を犯すことは相応しくないのである。
 ヨハネもまた、信者が神の子であれば、本来的には罪を犯さないはずだということを強調している。その詳細は3章でさらに論じられていくことになるが、既に1:6–7でも提示されていたことである。したがって、信者には「罪の性質故に罪を犯してしまう」ということと、「信者は本来的には罪を犯さないはずだ」ということとを、両方とも現実として受け止めることが要求されているのである。
 ヨハネは「私の子どもたち」が「罪を犯さないようになるため」にこの手紙を書いていると明らかにした上で、今度は再び、信者が罪を犯してしまうことの問題を取り上げる。1:9で既に述べられている通り、信者が犯す可能性がある罪の行いに対しても、神は赦しの道を備えてくださっているのである。ここでの「もしだれかが罪を犯したなら ean tis hamartēi」は不定過去であり、現在時制により表される「継続的な罪の習慣とは対照的」である*3。新共同訳ではこの部分は「たとえ罪を犯しても」と訳出されている。この表現には、信者が本来的には罪から自由にされているという真理が影響しているのかもしれない。
 ヨハネは次のように言う。信者が「たとえ罪を犯しても」、「私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるキリストです」。ここに見られる「弁護者イエス」は、先に1:10で触れたヘブル人への手紙における「大祭司イエス」と類似している概念である。新共同訳で「弁護者」と訳されているparaklētonという語の第一義的な意味について、Thayerは「誰かを援助するために呼び出された者」という意味であると言う*4。この語は新約聖書の中では、他にヨハネ福音書14:16、26;15:26;16:7で使われているのみである。しかもそれらの箇所ではイエスによって聖霊の称号として用いられている。注目したいのは、14:26でイエスが聖霊を「もうひとりの助け主」と呼んでおられることである。「これはイエス自身が第一の助け主であることを意味している。」*5 聖霊は、昇天されたイエスに代わり、地において私たちの助け主である。また、助け主なる聖霊はイエスについて証する方である(ヨハ15:26)。一方、イエスは天の御座において私たちの助け主であり、「御父の御前で」私たちを弁護してくださる方である。神の右の座において、大祭司としてとりなしてくださっているのである。

13節:造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
14節:さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15節:私たちの大祭司は、私たちの弱さに同上できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16節:ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙4:13–16)

ヘブル人への手紙の著者は、私たちは神の前で弁明をする必要があるのだと言う。そのときに「あわれみ」と「恵み」により、「おりにかなった助け」を与え、私たちが「大胆に恵みの御座に近づ」くことができるようにしてくださるのが、「大祭司である神の子イエス」なのである。パウロもまた、イエスが私たちのためにとりなしをしてくださっていることを教えている。

33節:神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34節:罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
(ローマ人への手紙8:33–34)

 私たちは、信者となっていてもなお、罪を犯してしまう可能性がある。しかし、その時には御父のもとで御子が弁護をしてくださる。御子はあらゆる試みと苦難とを通過された「正しい方」である(Iヨハ2:1;新共同訳)からこそ、義なる御父のもとで私たちを弁護することができるのである。

ひとたび罪人が神によって義とされたなら、その人は神の家族となったのであり、神がその人の父となったのである。たとえその人が罪を犯したとしても、神の裁判官によってもう一度義とされる必要はない。既に神の子どもなのだから、父の赦しを必要とするだけである。これが「義なるイエス・キリスト」によってその人に保証されたことであり、キリストが人間(イエス)の性質を持ちながら、救い主(キリスト)の職権を持った義なる方であるということが示している事柄なのである。義なる弁護人が御父の前に立って私たちのために弁護するという図式で、「愛が正義に訴えているというのではない」。むしろ逆で「正義が私たちの解放のために愛に訴えている」(Findlay)のである。*6

 それでは、イエスが御父の御前で私たちを弁護するからには、私たちを訴える者がいるのだろうか。それとも、裁き主である御父の前で、ただイエスが私たちを弁護してくださっているというだけなのだろうか。罪は神の義と相容れないものであり、それだけで裁きの対象である。しかし、聖書は神の御前で私たちの罪の行いを訴える者がいることを教えている。

今や、私たちの神の救いと力と国と、また神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。(ヨハネの黙示録12:10b)

この「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」はサタンである。サタンは、ヨブ記において既に信者を告発する者として描かれている(ヨブ1:6–12;2:1–6)。ゼカリヤ書3:1では、サタンは大祭司ヨシュアを訴えようとしている者である。したがって、私たちが罪を犯したとき、サタンはその事実を用いて神の御前で私たちのことを告発しているのだと考えられる。しかし、そこで私たちを弁護してくださっているのが大祭司であり弁護者であるイエスなのである。

2節

 イエスが神の右に座す大祭司であり、そこで私たちを弁護してくださる理由を、ヘブル人への手紙の著者は次のように述べている。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(2:18)さらに、イエスの大祭司としての務めはその犠牲と関連していることが、次のように述べられている。

7節:キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
8節:キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
9節:完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
10節:神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。 (ヘブル人への手紙5:7–10)

既に1章7節や10節で論じたように、罪の赦しの土台は、「御子イエスの血」が神の義を満たす犠牲として捧げられたことにある。そのことを表現して、ヨハネはここでイエスのことを「私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物」であると言っている。
 新改訳では、この「なだめの供え物」という表現は他にローマ人への手紙3:25で使われている。しかし、原文ではパウロの「なだめの供え物 hilastērion」とヨハネの「なだめの供え物 hilasmos」とでは使われている語が異なっている。パウロが使っているhilastērionという名詞は、他の箇所ではヘブル人への手紙9:5で契約の箱の「贖罪蓋」を指すために使われているのみである。ヨハネhilasmosという名詞は、新約聖書の中でも第一の手紙の中でしか使われていない(2:2;4:10)。動詞形hilaskomaiが使われているのもルカの福音書18:13(「あわれんでください」)、ヘブル人への手紙2:17(「なだめがなされる」)の2箇所のみである。ThayerおよびVincentは、hilasmosの意味を「[怒りなどを]なだめること、鎮めること」であるとしている*7。この語の動詞形、および複合動詞exilaskesthaiのいずれも、七十人訳聖書では「なだめ」の意味合いをもって用いられている。特に後者については、「ヘブル語kipperの訳語として八十三回使われているが、文脈的には通例、『特にkopher(身代金)の支払によって神の怒りによる罰を避ける』、または犠牲をささげることによって『神と人との和解を成立させる』という儀式的な意味に用いられている」*8七十人訳聖書における言葉の背景を考えると、ヨハネはここでhilasmosを「神の怒りをなだめる」という意味合いで使っているものと考えられる。先に見た通り、罪は神の怒りの対象である(ロマ2:5)。そして、パウロがローマ人への手紙5:9で「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と教えていることは注目に値する。イエスの犠牲の死は、神の怒りをなだめるものだった。だからこそ、それを自分のために捧げられた犠牲として受け入れる者は、罪の上に定められていた「神の怒りから救われる」のである。
 この「神の怒り」は、「恣意的でも気まぐれでもなく、異教の神々に見られるような予想もできない激情や執念深さとは何の共通点もない。むしろ、それは沈着で抑制されたものであり、すべての悪に対する聖なる敵意なのである」*9。ここに至るまでのヨハネの言葉を読んでいた読者たちは、罪の性質の根深さを感じたことだろう。そして、もしローマ人の手紙などを合わせて読んでいたら──いや、そこまで言わずとも、旧約聖書に親しんでいれば、そこで明らかにされている人間の罪の深さ、そして罪そのものの邪悪な性質を感じ取ることができただろう。これに対して神が「怒り」を向けられているということは、神の義の性質の現れに他ならない。そして、「神の怒り」が向けられて当然である罪の性質を有している私たちは、自分たちではこの性質をどうにも解決できないがために、自らを「なだめの供え物」として身代わりに犠牲を払ってくださる救い主が必要なのである。
 しかし、イエスが「私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物」であるということは、自動的に全世界の罪が赦されるということではない。ヨハネ福音書3:16では次のように述べられている。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が世に御子をお与えになったのは、「すべての人が滅びることなく、永遠のいのちを持つため」ではない。それは、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。ヨハネが後に述べるように、「だれでも御子を否認する者は、御父を持た」ない(2:23)。イエスの福音のメッセージを受け入れない者は、イエスの犠牲が自分たちのためのものであったとは認めていないということになろう。人が御子を認めず、受け入れないということは、自らのための「なだめの供え物」が捧げられたことを拒否していることと同等なのである。もしも「御子イエスの血」によって全世界が自動的に罪赦されたのであれば、ヨハネがここまでしてメシアであるイエスのことを証言する必要はない。使徒たちが、また今に至るまでの全ての殉教者たちが、自らの命を賭してまで福音のメッセージを宣べ伝える必要はなかったのである。
 これまで「世全体のためのなだめの供え物」について否定的な側面を述べてきたが、肯定的に言えば、イエスを否定した世(ヨハ1:10)に属する者でさえ、誰に対しても「なだめの供え物」によって神の怒りから免れる道が提供されている。これこそが、「福音」が「良い知らせ」である理由なのである。
 以上のように「なだめの供え物」であるイエス・キリストは、死に打ち勝ち、今も生きておられ、私たちが犯した罪について、「御父の御前で弁護してくださ」っている。そのようにして、私たちは何よりも高く、また深い神の義と愛を知ることができるのである。そして、私たちが「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」ことを認識するならば、私たちが既に罪から自由にされたことを知るならば、「私たちをキリストの愛から引き離す」者など存在しないということを知るならば(ロマ8:35)、私たちは罪の現実を認めつつ、しかし「罪を犯さないようになるため」に「光の中を歩んで」いくべきなのである。

*1:ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)89頁

*2:同上

*3:前掲書、90頁

*4:Joseph H. Thayer, Thayer’s Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded with Strong’s Concordance Numbers, 11th Printing (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 2014[1896]), G3875.

*5:ストット『ヨハネの手紙』90頁

*6:前掲書、91頁

*7:Thayer, Thayer’s Greek-English Lexicon of the New Testament, G2434; M. R. Vincent, Word Studies in the New Testament, in PC Software e-Sword X(Rick Meyers, 2015), 1 John 2:2.

*8:ストット『ヨハネの手紙』96頁

*9:前掲書、92–93頁