軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(5)大嶋重徳ほか『生き方の問題なんだ。』

大嶋重徳・桑島みくに・佐藤勇・吉村直人『生き方の問題なんだ。』(いのちのことば社、2017年)

今はもうあまり読まれなくなっているのかもしれないが、正宗白鳥という作家がいる。小説家でもあったが、むしろ批評家・評論家としての評価が高い作家である。彼は1879年生まれ、1962年没なので、明治期に生まれ、敗戦まで経験した。彼は若き日に内村鑑三に魅せられたものの、その後は反キリスト教的な、ニヒリズムに満ちた評論を書き続けた。しかし終戦後、彼は若き日の師・内村を考え直さざるを得なくなり、長編評論『内村鑑三』を1950年に上梓する。改めて内村と向き直った白鳥は、その評論に「如何に生くべきか」という副題をつけた。白鳥が再び内村から学び取ろうとしたのは、その「生き方」だったのである。

白鳥が惹かれていったキリスト者内村鑑三の「十字架を仰ぎ見、復活に希望を置き、再臨を待ち望み、大なる希望の中に善行を力む」という「生き方」を考える中で、やはりキリスト者である私自身が「如何に生くべきか」を考えざるを得なかった。それで、今年の2月に出版されていた本書の存在を思い出し、急いで取り寄せて目を通してみた。

本書は、4名のキリスト者が「この国でクリスチャン『らしく』歩む」ということについて書いた論文やエッセイをまとめたものである。4名の著者の内、大嶋氏はキリスト者学生会(KGK)総主事であり、吉村氏、佐藤氏、桑島氏は本書執筆時点でKGK主事、あるいは大学生である。余談だが、著者らの中には私の大学時代の後輩もいるし、他の者たちも何回か言葉を交わしたことがあるか、どういう人物かを伝え聞いたことがある。私の知る限り、また伝え聞く限り、彼らは皆真摯な福音的キリスト者である。

さて、本書の帯には「教会、学校、職場、家庭、政治──『生きる』ことと『信じる』ことに葛藤しつつも向き合ってきた、若者たちの等身大の声を綴る」とある。しかし、本書の内容および構成から見ると、主題は「政治」に係る問題であり、その問題と「葛藤しつつも向き合ってきた、若者たちの等身大の声を綴る」というのがより正確な紹介になるだろう。事実、内田和彦牧師は「推薦のことば」の中で、本書が「現在の日本の状況、とりわけ戦前の国家主義に回帰しようとする動きの目立つ政治的状況において、聖書の教えに忠実に生きるとはどういうことなのか、若者たちの心に届く言葉で記された」ものであると説明している。

率直に言えば、本書を実際に手に取る前は帯の言葉を信じ切ってしまっていたので、著者らの顔ぶれから何となく想像してはいたものの、思っていた以上に「政治」色が強かったので面を食らってしまった。しかも、先の内田牧師の説明からも想像できると思うが、本書は「現在の日本の……政治的状況」について、様々なパラダイムから「聖書の教えに忠実に生きるとはどういうことなのか」考えている類のものではない。著者たちの抱いている政治的パラダイムは、ある一定のものに固定されているように思われる。したがって、その一定のパラダイムから「若者たち」が「聖書の教えに忠実に生きるとはどういうことなのか」を切々と語っているエッセイ集だと捉えて読むことが必要である。

私が学生の時、著者らと共にKGKに参加していた頃から、主事や学生たちが「政治」に関することを、徐々に、積極的に発言し始めた。私はその時分、こういったテーマについてぼうっと考えてはいたものの、著者らのようには踏み込んで行動を起こすなり発言なりすることはできていなかった。臆病であって、著者らの働きを指をくわえて見ていたのである。しかし今になって、遅ればせながら、実社会に出てみて試行錯誤を重ねつつ、著者らの悩みというものに共感を覚えつつページをめくってみている次第だ。

さて、本書の構成については、内田牧師の「推薦のことば」の中で要約されている。

本書はまず、聖書的な人生観、世界観のアウトラインを明らかにします。(1)創造に始まり、(2)堕落、(3)救い、そして(4)完成にいたる聖書のパノラマを見渡し、(3)と(4)の間、「すでに」と「いまだ」の間に生きている私たちの立ち位置を示します。その土台の上に、主イエスの弟子として「平和をつくる者」となる道筋を模索するのです。*1

具体的には、まず大嶋氏が「平和のつくり手となるために」と題して、「聖書的な人生観、世界観のアウトライン」を示している。ここで大嶋氏は「『神の国』こそが、私たちがここで考えたい中心なのです」と述べている。彼によれば、本書のテーマは「自分の生きている場所で、神の国を建て上げていく」ということである。

大嶋氏は、神による創造の目的を以下のように説明している。

その神に似せられて、人は男と女とに造られました。そして神さまは、人間に使命をお与えになったのです。「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ」と。神に似せられて男と女に造られた人間が、この世界に「われわれ」を生み出していくように。三位一体の神の愛のように、互いに「愛してる」と言いながら二人は結婚し、そして子どもが生まれ、家族が増え、親戚も生まれ、村が生まれ、町が生まれ、そしてやがて“神の国”が建設されていくように、神はこの世界を、そして人間を造られたのです。

上記のような神の目的にもかかわらず人間は堕落した。しかし、神はイエス・キリストを通した救いを人にお与えになった。そして、人が創造された目的は「“神の国”が建設されていく」ためであるから、私たちは地上で「神の国」を建て上げていくという使命を帯びている。さらに、イエス・キリストご自身が、私たちと共に「神の国」を建て上げていきたいと願っておられるという。

そして、大嶋氏はこの「神の国」建設というテーマが、本書で主に取り上げられている「政治」というテーマと密接に関係していると述べる。

今まで部活は信仰のことではなく、「自分」のことでした。しかし、部活も勉強も恋愛だって、世の中のことなどではありません。クリスチャンになったら、神の国の恋愛をするようになるのです。神の国で勉強するのです。神の国でものを考え、見ていくのです。そして、神の国建設という使命を受け取り直したとき、私たちは教育のことだって考える。神の国の教育とは何か? 神の国の営業とは何か? 神の国の医療とは、神の国の子育てとは何か? そして、神の国の政治だって考えるのです。

以上のように考えている大嶋氏にとっては、キリスト者はこの地上で「神の国」を建設し始めているが、それはイエス・キリストが再臨される時に完成する。したがって、彼は次のように言うのである。「私たちは、『やがて』完成するあの希望の神の国の完成を待ちわびながら、憧れながら、指さしながら、『すでに』と『いまだ』の間で、葛藤しつつ、祈りつつ神の国建設をするのです。」

大嶋氏の序論に続くのは、吉村氏のエッセイ「キリストの愛に生かされる信仰者『クリスチャン』」である。ここで彼は自らの学生時代の経験に照らし合わせ、クリスチャンがクリスチャンらしく歩むとはどういうことかを考えている。「信仰は自分の中にしまっておいて、日曜日とKGKに行くときだけ取り出せばよいのではないか」と考えていた吉村氏は、「冷たくもなく、熱くもない。中途半端にクリスチャンとして生きるくらいなら、クリスチャンをやめて、別のことに時間を割いたほうがよっぽど有意義ではないか」、また「逆に、もしクリスチャンとして生きるならば真剣にキリストに従っていくべきではないのか」と悩み始める。その経験から、このエッセイでも「全領域でクリスチャンである」とはどういうことかが語られている。

続く佐藤氏の「すべての生活をキリスト者として──学生たちと『政治』について語り合う中で気づいたこと」もまた、吉村氏と同様に、「全生活」で「クリスチャン」として生きるとはどういうことなのか悩んだという経験からエッセイを始めている。そして、吉村、佐藤両氏は「クリスチャンらしく生きる」ことについて、本書の主題に沿って「政治」に関する問題に的を絞りつつ語っていく。

他にも両者の論点で共通しているのは、「政治」について考え、議論し、また行動を起こすにしても、そこではキリスト者としての愛と交わりが最優先されなければならないということである。たとえば吉村氏は、「政治」に関する議論の中で、「正しさ」を求めすぎることの危険性を指摘している。彼は、未だ罪人であるクリスチャンが判断する「正しさ」には限界があり、それ故に「ほんとうに正しいのは神さまおひとりであり、私たちではない」という。「人間が振りかざす“正しさ”というのは時に暴力的であり、他人を排除してでも「自分」を押し通そうとするのである。ここに信仰の姿はない。」だから彼は、「『私は全領域でクリスチャンである』というのは政治の領域でも、自己理解においても、である。真の主権者であられる神さまを抜きにして、自分や自分の論理的正しさが神にならぬよう、深重な吟味が必要であると思う」と述べるのである。そして、「政治」に関する議論でも、クリスチャンは「信仰」から始めなければならない、と主張する。

 しかし、クリスチャンにとって問題なのは信仰である。(中略)信仰を抜きにしてこの事柄を考えるとき、意見の合わない相手への不満は募り、怒りで心が支配される。そして相手を裁き、対話は消え、批判することだけ上手になっていく。言葉には不必要なトゲが混ざり、相手も自分をも傷つけていく。やがて疲れ果て、必死に自分にしがみつこうとするのである。これこそ分裂を生み出し、宣教の妨げになっているのではないだろうか。そうだとすれば、ほんとうに残念なことだと寂しい思いになる。
 だからこそ、今一度自分に問う必要があるのだろう。自分の思い、動機はほんとうのところどこにあるのか。どこから出発しているのか。私はイエス・キリストの十字架のゆえにこの事柄と向き合っているのだろうか、と。

佐藤氏は若干強調点を変え、安保法制について自らと政治的見解を異にする学生と交わりを持った時、「安保法制反対でなければクリスチャンとしてだめなのか」と問われたという経験から語り始める。

この問いから伝わってきて、私が何よりもまず受け取ったこと。それは、その学生が傷ついている、ということでした。多くの学生たちが「安保法制反対!」と「盛り上がる」(あえてそういう言葉を使います)中、自分の政治思想とそれが相容れない、ということに気づき、葛藤してきた。考えを言葉にしたとき、変な目で見られたかもしれない。意見を取り扱ってもらえなかったかもしれない。蔑ろにされたかもしれない。そこに対話の橋は築かれなかった。その結果、その学生は、間違いなく傷ついていたのです。

そして佐藤氏は、「主事として、私は彼の政治思想云々の前に、まず、彼が交わりの中で傷ついているということを認める必要がありました」と語る。それに気づいた佐藤氏が意識するのは、政治的議論の中でも「交わり」が最重要なのだということである。

私が学生との関わりの中で確信していること、それは、このような「政治」に関わる話、特に「政治思想の違い」について語るときに必要なのは、「私たちは一つ体の存在で、キリストにあって一つだ」という「交わりの意識」です。その意識をもって、相手の意見に耳を傾けることです。

吉村、佐藤両氏のエッセイには、桑島氏の「この地で平和をつくるということ」が続く。これは「国会で『安全保障関連法案』が審議されていた二〇一五年の九月に、参議院議員会館で行われた『PMPM〔Peace Maker's Prayer Meeting〕@国会』でのスピーチをもとに加筆したもの」だそうだ。したがって、桑島氏がなぜ安保法制に反対するのか、という主張としての側面が強い。また、大嶋氏による最後の章は「日本における教会と国家の歴史と今──キリスト者が政治に関心を向ける理由」という論文であり、これもまた現在の自民・公明連立政権に対するキリスト者としての危機意識を謳ったものである。後半部分にはこういった「政治」色の強い章がまとまっているが、吉村、佐藤両氏のエッセイが特定の主張よりは「信仰」や「交わり」を強調していることで、「キリスト者の生き方」をテーマにした本書に一定のバランスがもたらされている。

ただし、桑島氏の以下の言葉には胸を打たれた。キリスト者は個人として如何なる政治信条を持っていても、その本質的な役割として、まずはこの国に立てられた政治家のために祈るべきなのである。

 イエスさまは特に、敵のために祈ることを教えられました。
 クリスチャンの友人と共に祈るとき、世との違いを決定的に感じるのは、権力者、政治家のために祈ることができるということです。安保法案に反対しながら、安倍首相をはじめとする政治家のために祈る人、その背後にいる地上の権力者のために祈る人、脅威とされている周辺諸国やテロリストのために祈る人が、どれだけいるでしょうか。

以上のように、吉村氏が「信仰」、佐藤氏が「交わり」、桑島氏が「祈り」といったキリスト者にとって本質的なテーマを取り上げている箇所では、大いに共感させられた。また、その土台として大嶋氏が論じた何点かについても共感している。人は神と交わりを持つため、また地上において交わりを形成していくために創造された。イエスの十字架にあって救われたキリスト者は、地上において交わりを形成し、神の御心に適った価値観を示して行動していくべきである。こういったことは、素直に「その通りだな」と思う。そして、こういった土台の上で吉村氏が「全領域でクリスチャンである」必要性を唱え、佐藤氏が「すべての生活をキリスト者として」生きることを考え、桑島氏が「この地で平和をつくるということ」がキリスト者の役割だと主張していることに、賛同を示したい。

しかし、私はここで著者らと自分との間に考え方の相違を見出すのである。決定的な相違は、「神の国」という概念にある。(少なくとも)大嶋氏は、キリスト者の役割は現在において「神の国」を建て上げていくことだという。一方で私は、「神の国」……すなわち神の「王国」とは今から建設され始めているというものではなく、世の終わりの時、イエス・キリストの再臨によってもたらされるものであると信じている。このような「神の国」観については、このブログにおいて何度か述べた。たとえば、以下の2つの記事を参照していただきたい。

balien.hatenablog.com

balien.hatenablog.com

神の国」という概念については様々な考え方があり、終末論の分野では種々の神学的ラベルが貼られて議論されている。しかしここでは便宜的に、本書で説明されている「神の国」に関連した世界観を「建設の世界観」、私が先に述べた世界観を「待望の世界観」と呼ぶことにしたい*2。ちなみに、内村鑑三もまた後者の「待望の世界観」を有している。だから、前回の記事で私は彼の信仰を「十字架を仰ぎ見、復活に希望を置き、再臨を待ち望み、大なる希望の中に善行を力む」ものだと要約したのである。

では「待望の世界観」に立つ場合、たとえば桑島氏が主張するような「この地で平和をつくる」というキリスト者の役割はどう考えるのか。それは、福音を伝えるための行為である。キリストを証ししていくためである。地上で「平和をつくる」という行為も、その動機に「神のため」がなければ意味がない。「愛のため」がなければ意味がない。言い換えれば、「平和をつくる」という行いが、本当に神のため、本当に愛から出ているなら、意味がある。

聖書を読むと、クリスチャンの行いには二面性があるということになるだろう。それは、その行いがクリスチャン自身の意志によるものであり、聖霊の働きによるものでもある、ということである。したがって、「本当に」神のため、愛のために行われることであれば、それは聖霊の働きに促された行動であり、逆に言えば聖霊の働きによらなければそういった行動を起こすことはできないのである。そして、聖霊の働きの本質は、「キリストの栄光を表す」ことにある。

であれば、「本当に」神のため、愛のために行われる「この地で平和をつくる」行いは、それを通して「キリストの栄光を表す」ことに繋がっていく。キリスト者としての意味ある証しとなる。これによって、福音宣教に貢献していく。

以上が、この「世」におけるキリスト者の行いの本質であると思う。キリスト者が悪魔的価値観の下にあるこの「世」において求められているのは、キリストの福音を宣べ伝え、将来もたらされる「神の国」に入る者がひとりでも多く起こされるために働いていくことにある。そのために、「待望の世界観」に立つキリスト者の中にも、地上における真の平和は再臨まで絶対に実現しないと知りつつも、「この地で平和をつくる」ために労している者がいる。

「建設の世界観」と「待望の世界観」。両者は「イエス・キリストの再臨とそれによって成就する神の国」というゴールでは一致している。また、そのゴールに向かった生き方の中で、キリストの栄光を表すような御心に適った生き方(第一ヨハネ3:10で言うところの「正しい生活」)が求められているということも同じである。しかし、ゴールに到るまでの行き方が異なっている。だから、先述のように、実際には世界観によって「如何に生くべきか」の説明の仕方、あるいは具体的な答えまでもが異なってくる場合も考えられる。

しかしながら、吉村氏が本書で述べているように、私たちは完全な善と真理は神にあるというところに立ち返るべきである。したがって、ただ世界観による「如何に生くべきか」の答えが違ったとしても、それを裁くのは無益なことになるだろう。事は聖書解釈の問題である。ただし、これは、クリスチャン同士が互いの生き方について何も裁いてはならない、という意味ではない(たとえば、第一コリント6:1–4を見よ)。聖書においてキリスト者の行いとして認められないものについては、律していくべきであろう。「聖書はすべて……教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」であることを忘れてはならない(第二テモテ3:16)。それでも、政治活動、日曜日の出勤が求められる仕事など、細かいところまで進むと、何を「戒め」るべきか否か、判断が難しいところはある。

しかし、別の見方を取れば、神はこのようなキリスト者における多様性をも許しておられる、ということができるだろう。そして、この多様性の中で、私たちがヨハネが教えているごとく「愛」と「真理」に基づいて、祈りの中で判断を為していくならば、それによって教会の中に働く聖霊の御業が表されていくのではないかと信じている。

この問題には、絶対的な解決策などあり得ない。しかし、キリスト者に「祈る」という行為、また神と人と「交わる」という行為が求められている理由のひとつは、ここにあるのではないだろうか。

以上のように、「イエス・キリストの再臨とそれによって成就する神の国」というゴールを持っているキリスト者の「生き方」は、その明確なゴール認識と多様性の存在によって、魅力的であると思う。

「世」の価値観は移ろいでいく。その中でキリスト者の「生き方」は、明確な歴史的ゴールと、神御自身によって示された価値観の上に立っている。そういった土台の上にあって、キリスト者は、「私たちの救いを始められたイエス・キリストは戻ってこられ、救いを完成させてくださる」という希望をお与えになった神を愛する。それ故に、神の子である兄弟姉妹をも愛する。神や兄弟姉妹を愛しているからこそ、神の御心に適った生き方をしていきたいと願う。しかし、自分たちはまだ罪の性質を持っていて、誤ることもあれば、分からないこともある。だから、人間の理性の限界を認め、ある程度の「生き方」の多様性を認めている。そして、多様性を保ちつつ、キリストの体として一致して、「世」における「正しい生活」を、祈りながら、主の助けを求めながら生きていこうともがき続ける……。

本書を読みながら、「キリスト者の生活」というのはそういうものかな、と考えた。何が正しいのか判断できず、遂には「何でも正しい」というところまで行き着き、心が混乱に満たされてしまうような現在の「世」において、何かひとつの「正しい」ゴールを持っていることで、希望を持った「生き方」を志していくことができる。そして私には、改めて、この生き方がひどく魅力的に思えた。

最初に正宗白鳥に触れたことを思い出そう。彼は青春の師・内村鑑三を振り返った長編評論の中で、内村が「再臨」というゴールを単純に信じて生き抜いたことへの魅力をあらわにしている。彼は、内村という一人のキリスト者の「生き方」に魅せられたのである。だから、白鳥はこの評論に「如何に生くべきか」という副題をつけたのだ。

内村の世界観は「待望の世界観」であり、本書が提示する「建国の世界観」とは異なるものである。しかし、彼の「生き方」は人々を魅了し、それをきっかけとして福音が伝えられた。……始まり(福音)とゴール(再臨)さえ一致していれば、そこまでの「行き方」が異なっていても、魅力的な「生き方」ができる。そのような「生き方」を通して主は御自身の栄光を表される。本書が提示している政治的な問題については明瞭に答えられない私でも、クリスチャンの「生き方」については、今のところそう考えている。しかし、今そう考えていても、この先も苦悶し続けるだろう……。

おそらく本書の著者らも、今もがきつつ、そしてこの先ももがき続けることを知りながら、キリスト者としての「生き方」を表明せざるを得なかったのだろう。彼らはその表明によって、彼らを愛し、救い、生かしてくださっている主を賛美しているかのようである。なぜなら、「世」においてもがきつつ、同時に神を信じているということに喜び、その喜びをもって賛美せざるを得ないのがキリスト者だからである。晩年のパウロが、次のように言っていたように。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ人への手紙3:12–14)

*1:引用文中()中に数字の箇所は、原文では○中に数字となっている。

*2:なお、福音主義神学における「神の国」に関係した終末論の立場については、以下の記事を参照されたい。

なお、本文中で提示した「待望の世界観」は、基本的に「千年期前再臨説」に基づいている。