軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

三浦綾子と「あかしの文学」について

2017年もあっという間にクリスマスが過ぎ、気づけば本当に残り僅かとなりました。今年考えたことは今年のうちに言葉にしておいて、来年考えるテーマとしたい。そんなことを考えつつ、思い出すのはやっぱり聖書と文学を学ぶ中で浮かんできた問題。文学について浮かんできたのは、やはりキリスト者と文学の関係についての問題です。特に今の今まで心に残っているのは、遠藤文学……ではなくて、実は三浦綾子の文学だったりします。

遠藤文学は、「読み込んでます!」とまではいかずとも、「読んでいます!」くらいなら胸を張れる程度には読んでいます。三浦文学はというと、正直に言って全然読むことができていなくて、『氷点』、『続氷点』、『塩狩峠』、『ひつじが丘』なんかの長編と、エッセイ集を多少読んだ程度なのです。ですので、以下は三浦文学には疎いど素人の見解なので、ご容赦いただきたいと思います。

クリスチャン、特に福音派のクリスチャンで、さらに文学が好きともなれば、三浦綾子っていうのは通らざるを得ない道だと思います。何せ、三浦自身が福音主義的クリスチャンで、信仰をもって、神のために文学作品に命を捧げたのですからね。

だからなのか、今まで私が出会ってきた福音派のクリスチャンの方々の中には、三浦文学が好きな方が大変多い。三浦文学を通して救いに導かれたという話は、直接的にも間接的にも、本当によく聞く話です。遠藤文学でキリスト教に触れて、三浦文学で信仰に導かれたという話も聞いたことがあります。それだけに、三浦文学は確かな魅力を持っていると思います。三浦が信じていた神の愛、無私の愛といったものがすごくストレートに書かれている。そういった「愛」は聖書に書かれている概念ですから、クリスチャンとして言えば、やっぱりそういう概念は、人の心にインパクトをもたらすことができるような力を持っているのです。クリスチャンではない方からも『塩狩峠』や『氷点』に感動したという話を聞いたことが何度かありますが、それは、三浦が書いた「愛」が聖書に根差したものであって、それに三浦自身が本当に信じているものを本気で書いたからなのでしょう(これは、彼女自身が全力を尽くして、その上で神の力により頼んでもいたという、クリスチャン的な意味の「本気」です)。

一方で、三浦文学に対しては、批判を聞くことも少なくないのです。そういう批判は、単に物語が面白くないといったものを差し置けば、文学技術に対する批判と、キリスト教的要素が散りばめられていることに対する批判の2つに分けることができるでしょう。だから、批判的な方の多くは、遠藤文学と三浦文学を比較した田川建三神学者)の次の発言に頷くことができると思います。

現在の日本でキリスト教文学として水準以上に達しているものは、遠藤周作だけではないかと思われる。(中略)実際、朝日新聞のおかげで大々的に売り出した三浦綾子などと比べてみれば──彼女の場合は、そもそも文学的構成力としても文学少女の域を出ていない感じなのだが──彼女が安手のキリスト教観念をそこここにちりばめることによって、キリスト教的な雰囲気を作品の中にふりまいているにすぎず、したがってキリスト教が文学的いとなみの基礎的な体質となりえず、というよりも、手軽にちりばめられたキリスト教的諸観念によりかかっているだけだから、文学的いとなみの基礎的な体質などをそもそも創出しえない水準の作品にしかすぎないのに対して、遠藤周作の場合は、キリスト教を徹底して彼の作品の中にとりこんでいるのである。(「弱者の論理」『批判的主体の形成』64頁)

ただ、田川の場合には、そもそも福音派キリスト教自体が「安手のキリスト教観念」によって構成された宗教のように見えていたでしょうし、また神学者であって文学者ではないので、そういった点を割り引いて上記の発言を受け止める必要があるでしょうが。

でも、三浦文学を読むクリスチャンの中には、そこに「キリスト教的諸観念」があまりにストレートに書かれているので、面食らって、赤面してしまう方も少なくないかなと思います。実際、私もたまにそう感じます。書くにしても、もうちょっとここは文学的な捻りを加えればいいのに……とか。文芸批評家の佐古純一郎は、日本キリスト教団の定期雑誌『信徒の友』に携わっていて三浦に連載小説の執筆を依頼した際の話として、『塩狩峠』が「ヤソ教の宣伝みたいだ」という批判が雑誌の読者(主にクリスチャンでしょう)からも出ていたことを明かしています(『三浦綾子のこころ』70頁)。

小説技術については自分で意見できるほどのものを持ってはいないので、何もいえないのですが、「キリスト教と文学」を考えているとどうしても引っかかるのが、上記の「安手のキリスト教観念」の問題です。要するに、三浦文学が「護教文学」に見えるから、「ヤソ教の宣伝みたいだ」という批判が出てくるのでしょう。「キリスト教文学」というと真っ先に批判の対象となるのが、「護教文学」です。これは、「キリスト教を擁護するために書かれた文学」とか、あるいはさらに広く、「キリスト教を宣伝するために書かれた文学」といった意味で使われることが多いようです。遠藤周作は、カトリック信者の作家として、よく次のように護教文学を批判していました。

護教文学というのはつまり、ある宗教の教義を擁護したり、証明したり、布教したりすることを目的として書かれた文学作品であります。たとえば、ある青年が非常な罪をおかしていたが、ある日きよらかな娘にめぐりあい自分の罪を改心したというように、はじめから、作中人物の行くさきをきめている作品がよくフランスの基督教書店などにまいりますと、書棚にならんでおります。読んでも別に害にもならなければ薬にもならない、つまり、いかなる芸術的な感動をも真摯な読者に与えない作品なのです。(「宗教と文学」『遠藤周作文学全集12』315頁)

私も遠藤文学だけにずっと夢中でいた時分、このような批判を鵜呑みにした状態で『氷点』『続・氷点』なんかを読んで、「そうだそうだ。だから三浦文学はだめだな〜」なんて思っていました。しかし最近になって、遠藤のように「文学」と「護教文学」を分けていいのか、それに「護教文学」をそうやって切り捨ててしまっていいのか、と考えるようになったのです。

文学作品の多くは、自分の感じたこと、自分の価値観、自分の哲学といったものを文芸として表現したい、というところから発しているのだと思います。芸術家の衝動自体はこのように簡単に言い切ることはできないと思いますが、以上のようなものが芸術家の衝動の構成要素に含まれているといっても、あながち間違いではないでしょう。そもそも遠藤だって、「基督教と私」という問題について、彼の感じたこと、彼の価値観、彼の哲学を表現しようとして数多の評論や小説を残したわけです。であれば、文学作品を発する者が福音的クリスチャンであった場合は、田川が言うような「安手なキリスト教観念」を盛り込まざるを得ないのです。なぜなら、そのクリスチャンは、神の愛、無私の愛、犠牲の愛、キリストの十字架の意義、福音を信じることによる救いといったものを、心から信じているからなのです。そして、そういったことを自分の価値観とし、そういったことに基づいて物事を見ているからなのです。

それだけではなく、福音的クリスチャンの場合は「何をなすにも神の栄光を表すため」という人生の価値観を持っていて、さらに「全ては人々に福音を伝えるために」という価値観をも持っておるわけです。だから、三浦綾子は自らの文学を「あかしの文学」と呼んでいました(「あかしの文章入門」)。

福音を伝えることは、私たちが受け取り、私たちを救いに導いた神の言葉を伝えることです。さらにそれは、私たちが受け取った神の言葉とは聖書の言葉に他ならないのですから、聖書の言葉を伝えることであります。そして、クリスチャンが心からその聖書の言葉を信じていて、聖書の言葉をそのまま自分のものにしていたならば、そのクリスチャンが文学に取り組もうとしたときには、それをストレートに盛り込んでいくことは、決して悪いことではないと思うのです。

さらに、福音的クリスチャンは、自分がこの「世」自体やその価値観などとは相容れない存在であることを認識しています。であれば、福音的クリスチャンが本気で文学を残すなら、それはこの「世」の価値観と対立したものでなければならないということになります。こういった面から見ても、やはり三浦綾子のようなストレートな姿勢というのは、決して間違ったものとはいえないのです。

私の場合には、こういったことを(若干、聖書研究の応用として)考えたとき、自分が三浦文学に抵抗感を感じたことを恥じました。その抵抗感の中には、クリスチャンとしての価値観よりも小説技術や芸術性を上に置くという高慢が混じっていたのです。上記の考えを突き詰めていくと、「護教文学でなぜ悪い!」とまで思うようにもなりました。

問題は……残された問題は、もはやクリスチャンのやる文学は何を表現すべきか、などというものではないでしょう。残されているのは、宗教と文学を巡って幾度となく繰り返されてきた、「信仰と文学の二律背反」という問題です。

佐古純一郎は『三浦綾子のこころ』の中で、三浦綾子のように信仰をもって祈りつつ、伝道のために本気で文学に取り組むような生き方は、日本の文壇では大変珍しいものなのだ、ありえないものなのだと、随所で強調してます。確かにそうなのです。また、自身も牧師である佐古は、田川と対照的に、三浦の文章に散りばめられた「キリスト教的諸観念」のストレートさと力強さを賞賛しています。確かに、福音派のクリスチャンとなった今、私もそこに感動することもできるようになってきたと思います。

ですが、文学とは、それが文学である限り、芸術作品なのです。小説は、それが小説である限り、芸術作品なのです。そこには文章の美しさ、巧さ/美味さという、遠藤が言うところの「芸術的な感動」を読者にもたらすものが求められているのです。そう考えたとき、クリスチャンは自らの信仰を、美しい文章、巧い文章、美味い文章によって表すことができるのか。そもそも、いかにクリスチャンが生活の全領域で神の栄光を表すよう召されているとはいえ、「芸術的」なものの創作を求めることは許容されるのか、どうか。真剣な福音的クリスチャンだった内村鑑三は、「芸術を宗教の侍女として使つた。彼等の芸術の偉大ないし理由はそこにあつた。それは義は美以上であつて、美は義につかふべきものであるから」と言っています(遠藤周作内村鑑三と文学」『遠藤周作文学全集12』327頁より)。

こういった信仰と芸術をめぐる、一見両者を両立させることはできないかのように思える問題──この問題が、古くから「信仰と文学(あるいは芸術)の二律背反」という問題として取り上げられてきたのです。では、文学に取り組む福音派のクリスチャンは、この問題をどう乗り越えていったらいいのか……今年、キリスト教キリスト者と文学、なんていう問題にも改めて真剣に立ち返ってみて、三浦綾子を読み返し、思い至ったのも、この古典的な問題でした。問題は問題として大事にして、2018年も優れた文学作品をもっともっと読んで、読んで、読みまくりたいと思っています。

……いや、でも来年は、もっと聖書を読んで、もっと聖書の価値観を身につけながら、文学のことを考えていきたい。2017年の反省でした。