軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

レビ18:5「人がそれらを行うなら、それらによって生きる」の意味(Michael Vlach)

またまたマイケル・ヴラック(Michael Vlach)氏の翻訳記事です。元記事はこちら↓

mikevlach.blogspot.jp

Michael J. Vlach, "'By Which a Man May Live': The Meaning of Leviticus 18:5," Feb. 3, 2018; accessed May 16, 2018.

さて、本文のご紹介の前に、前置きを少しばかり。このブログだと翻訳記事は(ONE FOR ISRAELのエイタン・バール氏の記事1つを除いて)ヴラック氏のものばかりご紹介しています。そもそも翻訳記事を扱う場合、以前の記事で申し上げたように、参考資料のアーカイブとして、なるべく「ディスペンセーション主義」や「メシアニック・ジュー運動」の内部からの視点自体をご紹介していきたいと思っております。(翻訳のクオリティが低く、その点申し訳ない限りなのですが。)だから本当は、出版されている論文や本をご紹介したいのですが、版権の問題もあるのでそうもいきますまい。

で、無料公開されていて、なおかつクオリティが担保されている記事ってそう多くないんですね……。しかも、翻訳によるシェアの許可をいただけなかったことがあるのも事実です。そうなると、以前許可を下さったヴラック氏のブログは参考になる記事が充実しているので、どうしてもそこからピックアップしていくことになってしまうのです。

現在、ディスペンセーション主義に立っていることを表明されている方、あるいはメシアニック・ジュー運動の中で奉仕をされている幾人かのブロガーさんにコンタクトを取ろうと考えているところです。そこで許可をいただければ、ブログにて拙訳によりご紹介させていただきたいと思っております。また、ヴラック氏のブログについても、まだご紹介したい記事があるので、随時シェアさせていただきたいと思います。

※1 本記事は「ディスペンセーション主義について」のカテゴリに分類しておりますが、実際にはこの立場に特有な主張がなされているわけではありません。しかし、ディスペンセーション主義を自認されている方の主張をご紹介するという意味で、このカテゴリにも分類させていただいております。

※2 本文中〔〕は訳者による補足を表しています。

トピック

"By Which a Man May Live": The Meaning of Leviticus 18:5

by Michael J. Vlach (Saturday, February 3, 2018).

レビ記18:5は、モーセの律法の時代、神の律法を守ることが生活の土台として重要だということを強調している。この真理はエゼキエル書20:11、13、21でも述べられている。パウロもまた、ローマ人への手紙10:5およびガラテヤ人への手紙3:12でレビ記18:5に言及している。レビ記18:5には、次のように書かれている。

あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしはである。*1

レビ記18:5の意味については、誰もが同意しているわけではない。時には、律法の遵守によって永遠の命が得られるという考えを支持するためにこの聖句が使われていることがある。しかし、より正確なレビ記18:5の意味は、次の通りである。イスラエルは、契約の民として神と関係性を持っている。イスラエルは既に神に属していたがために、彼らは(共同体と個人の両方として)神の命令を全て守ることによって、神に従うべきである。イスラエルは神の命令に従うことで、アブラハム契約の通りに、約束の地で豊かに生活し続けるようになる。

それでは、これから上記の解釈について説明していこう。

イスラエルは神に属している

レビ記の最初の17章は、神の聖性(holiness)や、犠牲のいけにえおよび捧げ物の重要性に重点を置いている。民の間における神の臨在は、民が聖なる者とならなければならないということを表している。そして、〔レビ記18章以降で〕神が御民イスラエルに期待していることの内容が続いていくのであるが、レビ記18:1–5はその前置きの役割を果たしている。その中で、神は3回、ご自分がイスラエルの神であるという基本的な真理を宣言しておられる。

18:2 イスラエルの子らに告げよ。わたしはあなたがたの神、である。
18:4 わたしがあなたがたの神、である。
18:5 わたしはである。

出エジプト記20章でモーセ契約が与えられる直前、神はイスラエルの民に対して、ご自分が「あなたの神、である」と断言された(出20:2)。

イスラエルもまた、彼ら自身を主にささげていた。出エジプト記14:31では、イスラエルの民が既に「……を信じた」と書かれている。この箇所は、創世記15:6においてアブラムが「を信じた」と言われているのと、よく似た言葉遣いとなっている。またシナイ山において、イスラエルの民は「私たちはの言われたことをすべて行います」と宣言している(出19:8;24:3、7も参照)。

すなわち、イスラエルは神を信じ、神に属していたのである。トーマス・シュライナー(Thomas Schreiner)が述べているように、レビ記18章は「神に属している者に宛てられている」。なぜなら、「イスラエルはエジプトから贖われ、神の恵みによって解放されていた」からである(40 Questions about Christians and Biblical Law, 59)。

重要なことに、神の掟に従えというレビ記18:5におけるイスラエルへの命令は、神とイスラエルの契約関係という文脈の中に置かれている。このことから、従順は神との関係をもたらすものではなく、既に神に属している民にふさわしい応答なのだということがわかる。ダニエル・ブロック(Daniel Block)が述べているように、モーセの律法は救いを与えるものではない。むしろ、〔モーセの律法を守ることは〕「既に救われている者の感謝に満ちた応答である」("Law, Ten Commandments, Torah," in Holman Dictionary)。言い換えれば、〔レビ記18:5で言われているのは〕

私の民になるために従え

ということではなく、

あなたがたは私の民なのだから、従いなさい!

ということなのである。

神の掟

レビ記18:5は「あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい」という書き出しで始まっている。「掟」および「定め」はモーセ契約の律法への言及である。ここには、モーセ五書の律法に関わる箇所に書かれている命令全てが含まれている。その律法は、イスラエルがかつて奴隷となっていたエジプトの「忌み嫌うべき掟」とは対照的である(18:30)。イスラエルはエジプトで奴隷となり、その法律の下にいた。しかし今や、イスラエルは神に属しているのであり、神ご自身の掟に従うことが求められていたのである。

約束の地における生活と長寿

次に、神への従順がもたらすのは、生きることである──「人がそれらを行うなら、それらによって生きる」(レビ18:5)。ここでの「生きる」ということは、約束の地における長寿と繁栄への言及である。すなわち、その地において、アブラハム契約の祝福に留まり続けるということである。このことは、死や除籍、また約束の地からの追放とは対照的である。レビ記の他の箇所や申命記では、従順が約束の地における長寿および繁栄と関係していることが示されている。

レビ25:18「あなたがたはわたしの掟を行い、わたしの定めを守らなければならない。それを行うなら、その地に安らかに住むことができる。」
申4:40「今日、私が命じる主の掟と命令を守りなさい。あなたがたも、あなたの後の子孫も幸せになり、あなたの神、が永久に与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」
申5:33「あなたがたの神、が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」
申30:16「もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら、あなたは生きて数を増やし、あなたの神、は、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたを祝福される。」

加えて、レビ記18:5の直後の内容は、土地における生活という解釈を支持している。レビ記18:6–23において、神はたくさんの避けるべき性的罪を列挙しておられる。これら〔の罪に表されている性的趣向〕はエジプト人やカナン人に特徴的なものであった。また、18:24–25において、神は他の民が罪の行いの故にその地から取り去られると仰せられた。土地からの追放が、不従順と関連付けられているのである。

あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。〔レビ18:24–25〕

異邦の民は、彼ら自身の罪深い行いの故にその地から「吐き出」されるのである。ここで重要なことは、罪の行いによって土地から追放されることが、レビ記18章で教えられているということである。

その後、レビ記18:26–29では、イスラエルが土地から取り去られないために神の掟を守る必要がある、ということが明確に教えられている。

あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間に寄留している者も、これらの忌み嫌うべきことを一つも行わないようにするためである。それは、あなたがたより前にいたその地の人々が、これらすべての忌み嫌うべきことを行い、その地が汚れたからであり、あなたがたがその地を汚し、その地が、あなたがたより前にいた異邦の民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないようにするためである。だれであれ、これらの忌み嫌うべきことの一つでも行う者、それを行う者は自分の民の間から断ち切られる。〔レビ18:26–29〕

イスラエルにとってレビ記18章における神の命令に服従しないことは、その土地から追放され、また民から「断ち切られる」ことを意味している。一方で、従順は土地における祝福が続くことを意味している。

また、レビ記26章は従順がもたらすことを詳細に述べている。「わたしの掟」の内に歩み、「わたしの命令」を守ること(26:3)は、以下の事柄をもたらす。雨、豊作、十分な食物、地における安全、害獣が除かれる、敵への勝利、そして神の臨在(26:3–12)。しかしながら、神の掟への不従順はこれらの祝福を破棄し、土地からの離散をもたらすものである(26:14–45)。したがって、レビ記26章は〔レビ18:5における〕「生きる」が意味することの注解だといえる。レビ18:5の「生きる」は、約束の地における豊かな暮らしへの言及なのである。

神学的な意義

レビ記18:5からは、どんな神学的意義が得られるのだろうか?

第一に、レビ記18:5の「生きる」が約束の地におけるイスラエルの生活への言及だということは、レビ記18章の文脈から十分に立証される。したがって、この節はモーセの律法が永遠の命の土台であると教えているのではない。シュライナーが指摘しているように、「したがって、文脈的には、この節を律法主義的に、あるいは行いによる救いを提示するものとして解釈するべきではない」(40 Questions, 59)。

後のユダヤ教の伝統において、律法の遵守が永遠の命の土台であるという主張のため、この節が使われることになるのは事実だ。また、パウロがローマ人への手紙10:5やガラテヤ人への手紙3:12においてレビ記18:5を引用した際、永遠の命を想定していたかどうかについては、大論争が繰り広げられている。しかし、こういったことは本稿の目的を超えたトピックだ。この節自体の文脈から見ると、レビ記18:5は基本的に、約束の地での豊かな生活に関係した聖句なのだといえる。

第二に、レビ記18:5における律法の遵守は、神との交わりにおいて求められているように思われる。イスラエルは神に属していたからこそ、従順を命じられた。よって、この当時、モーセの律法を守ることは個人の義認よりも聖化に関係していたと思われる。モーセの〔律法が有効であった〕時代、イスラエルの民に帰属する者が神への従順を表明するため、モーセの律法を守ることが要求されていた。信仰のみによって義認された主な例はアブラハムである(創15:6)。この例は、モーセの律法とは別に、信仰のみを通して義認が起こるということを立証した。

第三に、イスラエルにとって律法の遵守は共同体の問題であり、同時に個人的問題でもあった。イスラエルは民族的に律法を守り続ける責任を負っていた。レビ記26章や申命記30章といった箇所は、イスラエルが共同体として、契約に不従順であったことの責任を負うことになると預言している。また、両方の箇所が、神の掟への反抗による約束の地からの離散を預言している。数百年後のエゼキエル書20章では、3箇所でレビ記18:5が関連付けられ(エゼ20:11、13、21)、モーセ契約に不従順であったという点でイスラエル全体が訴えられている。同時に、イスラエルに帰属する個々人もまたモーセ契約の遵守が要求されていた(申27:15–26参照)。イスラエルの民に属する個々人は、悪質な律法違反を犯した場合、その民から断ち切らることもあったのである。

第四に、既に言及したように、本稿は新約聖書におけるレビ記18:5の引用──特にローマ人への手紙10:5やガラテヤ人への手紙3:12──について論じているものではない。左記の2箇所におけるレビ記18:5の引用については激しい議論がなされている。そして、多くの優れた神学者たちが、パウロはどのようにレビ記18:5を引用しているかということについて見解を異にしているのである。ある人々はパウロレビ記18:5を文脈に沿って引用していると考えている。しかし中には、パウロは予型論的に、もしくは再解釈によって、本来の文脈とは関係のない形でこの聖句を引用していると考える人々もいる。また、パウロはガラテヤ人への手紙3:12において、律法に関するユダヤ教的な誤解に言及しているのだという人々もいる。これらの問題は、ここで論じるにはいささか複雑すぎる。しかし、私はいずれこの問題について考えてみたいと思っている。

*1:訳注:聖書本文からの引用は新改訳2017による。