軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(8)フルクテンバウム『イスラエル学』

Arnold G. Fruchtenbaum. Israelology: The Missing Link in Systematic Theology. Revised edition. Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992.*1

これまでに読んだ本を取り上げて、その本にまつわる思い出を書き連ねていくこのシリーズ。久々に再開して扱いたいのは、最近ハーベスト・タイム・ミニストリーズより抄訳版が出版された、アーノルド・フルクテンバウムの『イスラエル学』だ。これは、言わずと知れた著者がニューヨーク大学Ph.Dを取得した際の学位論文である。

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「私の読書」の第1回目は、ミラードエリクソンキリスト教神学』だった。KGKの交わりに参加するようになって福音派でも聖書理解に多様性があるのだということに気づいた後、しばらく文字通りの「枕頭の書」になっていたのは、エリクソンキリスト教神学』とマクグラスの『キリスト教神学入門』、そして、フルクテンバウムの『イスラエル学』だった。当時は翻訳などなかったから、食費を浮かせて900ページ超えの分厚い洋書を買い、辞書を引きながらチマチマ読み進めた。

ある日本の神学者が、フルクテンバウムのことを「三流神学者」と見下していたのをみたことがある。確かに、彼は著名な注解書シリーズで執筆もしていないし、たとえばEvangelical Theological Societyなどでの活躍も見られない。彼はAriel Ministriesを率いてのユダヤ人伝道と、そのためのセミナー講師や執筆といった仕事に専念している。確かに、第一線で学術的な活躍をしている「学者」とはいえないかもしれない。

しかし、批判者が必ずしもフルクテンバウムの著作……特に彼の学位論文である『Israelology』の内容を熟知しているとは限らない。

たとえば、かの有名なジョージ・ラッドの見解をもってきてフルクテンバウムを批判する者もいる。しかし、フルクテンバウムは既に『Israelology』の中で、かなり包括的な形でラッドの終末論やイスラエル論に対する反論を述べている*2。だから、ラッドの見解をもってフルクテンバウムを批判する場合には、よほどの注意が必要である。そういった場合には、フルクテンバウムのラッド批判そのものに対して、別の視点から議論を展開していく必要があるだろう。

ある者が学術界で「有名でない」のには、それなりの理由がある。確かに当人の主張に問題があるからという場合もあるし、そういう場合は多い。しかし、「有名でない学者の説だから、傾聴に値しない」という考え方自体がバイアスを通したものであり、科学的営みにおいては問題がある。

私が工学分野で修士論文を作成していた時、指導教員からは常々こう言われていた。

「研究テーマに関係している文献は、出版物だろうがジャーナルだろうが、著名な学者の論文であろうが、どこぞの大学の修士論文だろうが、全部読め」

有名でない論文でも、自説と反する主張があれば、相手の実験条件等もふまえて、こちらの再実験も含め、徹底的に検証をしなければならない。たとえ馬鹿馬鹿しいと思おうと、自説に残る不確実性を認識したままで放っておくわけにはいかないのである。

キリスト教神学が科学的営みである限り、神学者や神学生から、特段の説明もなく、不用意にある神学者を「三流」と見下すような発言がなされてしまうのは、まことに残念なことである。学者とは、基本的には文系であれ理系であれ「科学者」だと思う。だから、左記のような批判を行う場合には、ただレッテルを貼るのではなく、ロジックをもって行ってもらいたいものだ。そして、ましてやキリスト者である神学者ならば、修辞的な言葉は慎重に選んでいただきたいと切に思う。

ここで、本書への思い入れを語る前に、すこしばかり内容についてご紹介&コメントしておきたい。本書については、いわゆる「ディスペンセーション主義」におけるイスラエル理解、あるいは「非置換神学 non-supersessionism」に位置づけられるイスラエル理解においては、無視できない研究であると言われることがある。たとえば、Non-supersessionismの分野で評判の高い『Has the Church Replaced Israel?』を執筆したマイケル・ヴラックは、本書について「イスラエルの過去、現在、未来に関する最高の出版物だ」とコメントしている*3

本書の構成としては、まずは用語の定義や研究の方法論などが簡単に述べられている(第1章)。続いて、契約主義的千年期後再臨説、無千年期説、千年期前再臨説*4、そしてディスペンセーション主義的千年期前再臨説*5のそれぞれについて観察と検証がなされている(第2〜9章)。ここにおいては、著者は「イスラエルの過去、現在、未来」という形で各立場のイスラエル論の整理も行なっている。そして、著者はディスペンセーション主義的千年期前再臨説のイスラエル論が最も聖書本文のデータと調和していると述べる。しかし同時に、その立場でもなお「イスラエルの現在」については発展の余地があるとして、そこに重点を置いた著者自身の「ディスペンセーション主義イスラエル論」が展開される(第10章)。抄訳としてこの度出版されたのは、この章である。なお、原書では以下の付録が収録されている。

  1. 『ジューイッシュ・ルーツ』についてのレビュー:代表的なメシアニック・ジュー神学者であるダニエル・ジャスターの著作に関する書評。
  2. ヘブル人クリスチャン/メシアニック・ジューによるモーセの律法の実践に関する意見交換:ローザンヌユダヤ人伝道協議会第3回大会(1986年)におけるダニエル・ジャスターの抄録と、それに対する著者の応答の各全文を収録。
  3. ヘブル人クリスチャン/メシアニック・ジュー会衆に関する意見交換:LAのGrace Community Churchより発表された、メシアニック・ジュー会衆への批判文書と、それに対する著者の応答の各全文を収録。
  4. ヘブル人クリスチャン/メシアニック・ジュー書簡の要約:著者が「ユダヤ人クリスチャンが同胞へ宛てた書簡」だと理解している、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙第一・第二、ユダの手紙に関する要約。

いずれの付録も、メシアニック・ジュー運動について考える上では大変興味深い内容になっている。

本書の欠点のひとつは、時折著者独自の理論について説明不足が見られる点である。たとえば彼は新約における旧約引用といった問題について、David Cooperの見解をあまりに無批判に採用しすぎているように思われる。また、「神の国」を「普遍的王国」「霊的王国」「神政政治の王国」「メシア的王国」「奥義としての王国」に分ける考え方は、その内いくつかの区分には同意できるものの、少々概念を複雑にしすぎているのではないかと感じられる。特に彼はマタイ13章から「奥義としての王国」という概念を論じているが、この箇所については「神の王国」に関する「奥義」が教えられているのであると捉えることも可能だと考えられる。よって、率直な感想としては、「王国」そのものを「奥義としての王国」と分類することには違和感が拭えない。ただし、こういった説明不足は確かに論文としては欠点だと思うが、どう論理的に「検証」していくのかはこれからの個人的課題である。

また、彼が取り上げている各立場の主張について、今から見ると参照されている文献が少々古くなっているが、これは仕方のないことだろう。本書をふまえた上で最新の議論についても扱っていくのは、読者側の責任である。

さて、私が本書から教わったことはたくさんある。まずは、本書で包括的なイスラエル論が語られていることから、旧約聖書を大まかに学ぶことができた。細かな解釈は抜きにして、そのストーリーラインをざっくりと掴むことができたのは、今聖書通読をしたり、聖書研究をしたりするときに、どれだけ役に立っているかわからない。

また、本書にはフルクテンバウムの同胞への愛が込められていることを感じた。多分彼がこの研究に情熱を注いだ理由のひとつには、同胞であるユダヤ人の聖書的ルーツを紐解き、それを通してどうにか同胞に福音を伝えたいという思いがあるのだろう。だから私は、本書を読んだとき、彼は学者である以前に伝道者であると感じた。

他にも言いたいことはたくさんあるが、私が本書から最も教えられたことは、「聖書第一」という姿勢である。多様な立場を観察し、その主張を聖書本文から検証している前半部分は、邦訳版では省略されてしまったが(そして、その理由は理解できるものの)、私はこの部分こそが本書の肝であると思っている。彼がダラス神学校での恩師たちをも聖書本文から徹底して検証していく様は、私に決定的な影響を与えたと思う。「フルクテンバウム教」に陥ってはいけないよということ、神学第一/神学者第一ではなく聖書第一という姿勢は、他でもないフルクテンバウム自身の姿勢から学ばされたのである。

以前、友人の@makoJOSIAH氏が、ディスペンセーション主義者について「聖書無誤謬」と「神学無誤謬」を履き違えているのでは?ということをTwitterで述べていた。

確かに、この神学的立場のフォロワーの中にそういう人々がいることは、否定できないと思う。……だが、何より自分自身にもその傾向があることに気づき、そしてそれが間違った姿勢なのだということを最初に学んだのは、『イスラエル学』からだった。

そして最後に、私が『イスラエル学』に対して、いやフルクテンバウムに対して感謝しなければならないのは、この読書がきっかけとなって様々な神学者と出会えたことである。これがきっかけで、ジョン・マーレイの素晴らしいロマ書注解書と、またルイス・ベルコフの圧倒的な組織神学書と出会えた。ジョージ・ラッドの新約聖書学は一時期読み耽ったし、チャールズ・ライリーのディスペンセーション主義論は、何事も飽きっぽい私に10回もの連載記事を書かせるほどの影響を与えた。アルヴァ・マクレインの「神の国」論は、本当に素敵な本だ。

ダグラス・ムー、ブルース・ウォルトキ、D・A・カーソン、トーマス・シュライナー、トーマス・アイス、ジョン・ファインバーグ、ジョン・マッカーサー、ダレル・ボック、マイケル・ヴラック……彼らは本書で取り上げられているわけではない。だが、もし本書をきっかけにして勉強を始めなければ、多種多様な見解を持つ彼らとの出会いを持つことはなかっただろう。

実際に兄弟姉妹同士で集まって聖書研究をすることはとても楽しいが、同時に、こういった神学者たちと本を通じて聖書研究をすることも、私にとってはこの上なく楽しい時間である。彼らは御言葉を教えるための賜物が与えられた人々だ。直接的ではなくとも、彼らと一緒に聖書研究をするとき、そこには御霊が働かれるのだと、私は信じている。

フルクテンバウムは一昨年から昨年にかけて、メシアの生涯を扱った全4巻の『Yeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective』を出版した。Ariel Ministriesのメールマガジンによれば、さらに現在は使徒の働きの注解を執筆中であり、将来的にはイザヤ書の注解も出版したいという。

彼には、同胞への伝道のために豊かな賜物が与えられていると思う。しかしそれだけではなく、彼もまた、キリストのみからだなる教会を立てあげるために、御言葉を教える賜物が与えられているひとりだと思う。
これからも、彼の働きが教会のために用いられ、豊かに祝されますように。

*1:邦訳版:アーノルド・フルクテンバウム『イスラエル学』佐野剛史訳、中川健一監修(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部、2018年)。

*2:ただし、その多くは前半の未邦訳部分に集中している。

*3:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, rev. ed. (Los Angels: Theological Studies Press, 2017), Kindle ed., locations 1812-1813.

*4:いわゆる歴史的千年期前再臨説 Historic Premillennialism。

*5:いわゆる未来主義千年期前再臨説 Futuristic Premillennialism。