軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ユダヤ人伝道は必要ない」?(再考:その2)

今回のトピック

はじめに

あるSNS上での「クリスチャンによるユダヤ人伝道は、反ユダヤ主義の一形態である」という発言を受けて、ユダヤ人伝道の必要性について再考し始めました。その理由は、第一に、私自身がいつか「ユダヤ人に伝道する必要はあるのか?」と問われた時のための準備をしておきたいと思ったからです。もうひとつの理由は、聖書全体の救済論を復習しておく良い機会だなぁと思ったからであります。

前回の記事は、こちらです。

balien.hatenablog.com

この「再考」シリーズは、次のような構成を考えています。

  1. 用語の定義
  2. 全ての人に対する信仰の必要性
  3. ユダヤ人と信仰の関係
  4. 「神の民」について
  5. メシアニック・ジューについて
  6. 教会の反ユダヤ主義ユダヤ人伝道の関係性

前回は、「1. 用語の定義」において、「ユダヤ人」、「教会」、「クリスチャン」といった用語を、保守的福音主義の観点から定義しました。今回はそれをふまえて、「2. 全ての人に対する信仰の必要性」および「3. ユダヤ人と信仰の関係」を論じます。おそらくは、今回の内容が、以降の「4. 」「5. 」「6. 」の肝になると思います。

なお、「ユダヤ人に伝道する必要はあるのか?」というテーマに対する簡潔な応答は、以前ご紹介したONE FOR ISRAELのエイタン・バール氏による記事をご覧下さい。

balien.hatenablog.com

それでは、前回の諸用語の定義をふまえた上で、聖書がユダヤ人に対しても異邦人に対しても、「信仰」の必要性を説いていることを見ていきましょう。

2.全ての人に対する信仰の必要性

ユダヤ人であるダビデは、「愚か者」や「不法を行う者」を指して、「義を行う者はいない。だれ一人いない」と歌った(詩14:1–4)。また、そのような罪が贖われることは幸いだとして、次のようにも歌った。

[1]幸いなことよ
その背きを赦され 罪をおおわれた人は。
[2]幸いなことよ
が咎をお認めにならず
その霊に欺きがない人は。(詩32:1–2)*1

さらに、罪人としての性質が自分にもあることを認め、詩篇130:3–5では次のように歌っている。

[3]よ あなたがもし 不義に目を留められるなら
主よ だれが御前に立てるでしょう。
[4]しかし あなたが赦してくださるゆえに
あなたは人に恐れられます。
[5]私はを待ち望みます。
私のたましいは待ち望みます。
主のみことばを私は待ちます。(詩130:3–5)

そして、彼は罪の赦しの待望を、イスラエル全体に呼びかけている。

[7]イスラエルよ を待て。
には望みがあり
豊かな贖いがある。
[8]主は すべての不義から
イスラエルを贖い出される。(詩130:7–8)

ここで、イスラエルに罪の贖いをもたらすのは主ご自身であるといわれている。

ダビデは「義を行う者はいない」と歌ったが、その罪が贖われることを望むということは、義人ではない自分を、神の御前で義人として認めてもらうことを望むということである。ダビデはこの希望が神によって成し遂げられるものだと歌ったが、同時に旧約聖書は、この義認が信仰によるものでもあることを教えている。

アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。(創15:6)

上記の聖句は、創世記15:5の「アブラムの子孫は、星の数ほどに増える」という約束の後に置かれている。アブラムは神の約束を信じた──すなわち、彼が神に信頼を置いたことが、「彼の義と認められた」のである。あるいは、ヘブライ語構文の研究により、5節と6節の間には時系列的繋がりは認められず、6節は著者によるコメントであると見なす研究者もいる*2。創世記15章は神がアブラムとの契約締結を示す儀式を執り行われるという、創世記のナラティヴにおいても重要な箇所である。したがって、著者はここで改めて、アブラムが彼を選ばれた神ご自身に信頼を置き、それによって義と見なされたということを強調していたとしても、おかしくはない。この解釈が正しければ、神ご自身を信じることによる義認という教理はますます堅固に立てられることになる。

ユダヤ人であれども信仰が必要とされるということは、イエス・キリストとニコデモの対話からも明らかである。ユダヤ人であるイエスは、ユダヤ人のラビ・ニコデモに対して、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われた(ヨハ3:5)。これはすなわち、「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)というメッセージであり、ユダヤ人のラビといえども、イエスを信じる信仰がなければ神の国に入ることはできない、というメッセージであった。

使徒パウロの考えもまた、これまで論じてきた内容を支持している。パウロは、先の創世記15:6においてアブラムが割礼を受ける前に信仰によって義と認められていたことに着目した。また、詩篇32:1–2においてダビデが「神が義とお認めになる人の幸い」を歌っていることにも着目した上で、割礼を受けている者(ユダヤ人)も受けていない者(異邦人)も、同様に信仰によって義と認められるのだと論じた(ロマ4:1–22)。その上で、ユダヤ人である自身も含めて、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです」と宣言している(4:24)。

ユダヤ人と異邦人は、現在、イエスを信じる信仰という点において平等である。パウロは、ガラテヤ人への手紙でもこのことを強調している。

[26]あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。[27]キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。[28]ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラ3:26–28)

「恵みのゆえに、……信仰によって救われた」という「神の賜物」(エペ2:8)については、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女も」ないのである(コロ3:11)。

そして、「信仰は聞くことから始ま」る(ロマ10:17)。ユダヤ人もギリシア人も、信仰により神の御前で義と認めていただくためには、イエス・キリストの福音(1コリ15:3–5)を聞く必要がある。そのために、その信仰を賜った者は、ユダヤ人にもギリシア人にも、福音を伝えていかなければならないのである。

しかし、ユダヤ人はそもそも、民族として神に選ばれたのではなかったのか? 神がアブラハムにお与えになった契約に基づけば、その通りである。それでは、民族として神に選ばれたにも関わらず、さらにキリストの福音に対する信仰が必要とされているのか?

そこで、次項ではユダヤ人の選びという事実と、ユダヤ人にもイエス・キリストを信じる信仰が求められているという事実の関係について考えてみたい。

3.ユダヤ人と信仰の関係

イスラエルは、神によって選ばれた民である。そのルーツは、神が恵みによってアブラムをお選びになったということ、また彼にお与えになった契約(アブラハム契約)にある。この契約が最初に示されたのは、創世記12:1–3においてである。

[1]主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。[2]そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。[3]わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

この契約において、神はアブラムを祝福すること、そして彼を通して「地のすべての部族」を祝福することを約束された。この約束は、イサク(創26:2–5)、ヤコブ(28:13–15)へと継承され、最終的にはヤコブの子孫であるイスラエル民族に継承された(創49:28;2列13:22–23;1歴16:15–22;2歴20:7–8;詩105:7–12)。

また、イスラエルは神の恵みにより出エジプトを経験し、シナイ山にて神と契約(モーセ契約/シナイ契約)を締結した。

なお、この契約は、民が救われるための基準を定めているものではない。むしろ、モーセ契約に従順であることは、「既に救われている者の感謝に満ちた応答」なのである*3イスラエル出エジプトの夜、あらかじめ神から命じられていたことを実行し、神がエジプトに下された裁きを過ぎ越した(出12:2–28)。また、民は自分たちが海を渡り、エジプト軍は海に呑み込まれたという出来事を見て、「主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」(出14:31)。彼らは神の臨在の下で旅を続け、シナイ山にてモーセを通して御言葉を受け取った。「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出19:5–6a)。これに対して、民は「私たちは主の言われたことをすべて行います」と応答した(出19:8;24:7)。この応答に基づいて、神はイスラエルとの間にモーセ契約を締結されたのである(出24:8)。

しかし、アブラハム契約やモーセ契約によって、民族的にイスラエル人である者が自動的に契約の祝福の受け手となるわけではない。そのことを旧新約聖書から見ていこう。

諸国民に祝福を届けるための器というアブラハムの召命は、イサク、ヤコブ、そしてイスラエル民族にも引き継がれた。この任務を全うするために、神はイスラエルに「契約への従順」を求められた。

[5]今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。[6]あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出19:5–6a)

 

[6]これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示すことになり、彼らはこれらすべての掟を聞いて、「この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だ」と言うであろう。[7]まことに、私たちの神、は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。[8]また、今日私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように正しい掟と定めを持つ偉大な国民が、いったいどこにあるだろうか。(申4:6–8)

モーセ契約においては、イスラエルの信仰と従順こそが、彼らを通した諸国民の祝福の土台となっている。

また、モーセ契約では、従順による祝福と不従順による裁きとが、繰り返し強調されている(例:レビ26章;申4:25–31;28–30章)。モーセ契約の下においては、アブラハム契約の祝福を受けるためには信仰が求められていたのである*4

すなわち、アブラハム契約およびモーセ契約の下では、民が契約の祝福を受け、また契約の通りに神の器として用いられていくために、民の信仰が求められていた。両契約では生後八日目の割礼が命じられているが(創17:10–14;出12:48;レビ12:3)、これを実行することは信仰に基づく応答である。割礼という行為自体が民の祝福の土台なのではなく、赤児に割礼を施す信仰こそがその土台なのである。そのために神は、肉体的割礼だけではなく、それ以前に「心の割礼」こそが重要なのだと仰せになった。

このわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国へ送り込むのである。もしそのとき、彼らの無割礼の心がへりくだるなら、そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。(レビ26:41)

 

あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。(申10:16)

 

あなたの神、は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。(申30:6)

この「心の割礼」(心のへりくだり)の重要性は、パウロも説いている通りである。彼はローマ人への手紙2:28–29において、ユダヤ人が真にユダヤ人たるためには、体の割礼だけではなく心の割礼も必要なのだと言っている。

[28]外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。[29]かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

さらにローマ人への手紙9:6–8では、イスラエルが契約の祝福の受け手となるためには、ただアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるというだけではなく、信仰も必要であるというテーマが展開されている。

[6]しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。[7]アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。[8]すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。

パウロは、同胞であるイスラエル人の救いを切望していた。そのためには、「私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ」思っているほどだった(ロマ9:3)。そのイスラエル人について、パウロは「子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです」(9:4b–5a)と言っている。しかし、そのイスラエル人たちが、今や神が人となって来られたイエス・キリストを拒んでいるという現実がある。

では、神の選びは無効になったのだろうか。そのような問いに対して、パウロは「しかし、神のことばは無効になったわけではありません」と言っている。なぜなら、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないから」である。

9:7–9において、イサクとイシュマエル、またヤコブエサウの関係が対比されていることからわかるのは、アブラハムの肉体的子孫がみな契約の継承者なのではないという事実である。パウロはこの事実をイスラエルに適用した上で、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」と言っているのである*5。そして、このことを旧約聖書や2:28–29をふまえて考えるならば、肉体的にイスラエル民族に属する者が契約の祝福の受け手となるには、信仰が求められているということがわかる。さらに言えば、パウロが示している信仰とは、文脈的には、イエス・キリストを信じる信仰なのである(8:39;9:3、5)。

以上のことから、ユダヤ人でも異邦人でも、全ての人は罪人であり、義と認められるためには信仰が必要とされること、さらにユダヤ人の場合には、神との契約関係という文脈においても信仰が必要とされることがわかる。

*1:以後、聖書引用は新改訳2017による。

*2:John H. Sailhamer, “Genesis,” in The Expositor’s Bible Commentary, vol. 1, rev. ed, eds. Tremper Longman III and David E. Garland (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008), 172; Allen P. Ross, “The Biblical Method of Salvation: A Case for Discontinuity,” in Continuity and Dis-continuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 168.

*3:Daniel I. Block, “Law, Ten Commandments, Torah,” in Holman Illustrated Bible Dictionary, eds. Chad Brand, Charles Draper, and Archile England (Nashville, TN: Holman Bible Publishers, 2003).

*4:Michael J. Vlach, He Will Reign Forever: A Biblical Theology of the Kingdom of God (Shilverton, OR: Lampion Press, 2017), 96–97.

*5:ロマ9:6についての詳細な議論は、拙稿「聖書におけるイスラエルの意味(5)ローマ人への手紙9:6について」をご参照いただきたい。