軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

日本聖書学院特別神学セミナー「教会と神学」に参加して

はじめに

9月23日(日)・24日(月)の連休中、日本聖書学院主催の特別神学セミナー「教会と神学」に参加するため宮城県利府町まで足を運んできた。

日曜日午前の礼拝が終わってから群馬を飛び出し、人生2度目の宮城県入りだ。前回来た時は残念ながら雨天だったが、仙台に着いてみると今回は快晴。長袖のシャツを着ていったが、少し歩くと汗ばむくらいの陽気だった。今回は本当にセミナーに参加するためだけの1泊2日で行ってきたのだが、もったいなかった。遠藤周作マニアとしては、仙台といえば『侍』のモデル、支倉常長が思い出される地だ。岩切で東北本線利府行きの乗り換えを待ちながら澄み渡った空を眺めていると、見て回るためにもう1日2日滞在すべきだったと後悔の念がわいてきた。

もう1つ旅の思い出だが、滞在先に選んだ仙台のホテルがネットで写真を見る限り値段が安い割に部屋も綺麗だったのだが、いざ入ってみると値段相応以下という始末で閉口した。夜寝るだけだったので十分といえば十分だったが……。そんな目にあっても、遠藤が『侍』取材旅行で仙台に訪れた際ホテルが駅前の安宿で憤慨したということを思い出し、おかしかった。

セミナー会場は利府駅から歩いて5分ほどのところにある、オアシスチャペル利府キリスト教会だった。

オアシスチャペル 利府キリスト教会

聞いたところによると参加者は90名超とのことで、チャペルは満杯だった。
ちなみに2日目の午後は同教会が運営するカフェ・生石庵(Oishi-An)のサンドイッチが希望者に振舞われたが、これが大変うまかった。1日目夕食時にカフェについてのプレゼンテーションもあり、次にこの地を訪れた時にはぜひとも足を運びたい。

r.goope.jp

ブルース・ウェア博士について

さて、本セミナーは日本聖書学院主催、講師にSouthern Baptist Theological Seminary(ケンタッキー州)のブルース・ウェア(Bruce Ware)博士をお招きし、「教会生活における神学の重要性」について学ぼうというものだった。

www.sbts.edu

私がウェア博士の著作にはじめて出会ったのは、クレイグ・ブレイシングとダレル・ボック編Dispensationalism, Israel, and the Church所収の論文"The New Covenant and the People(s) of God"だった*1Progressive dispensationalismと呼ばれる陣営に与する学者たちによって書かれたこの論文集は、ディスペンセーション主義について勉強するなか、その陣営を理解するために読んでいた。中でも、新しい契約は将来のイスラエルにおいて成就するものであるが、教会にも適用されるものだということを論じていたウェア博士の論文では、あくまで聖書本文の釈義にこだわるソリッドな姿勢から感銘を受けた。他の書籍で参照/引用されている様子を見るに、おそらくあの本の中で最も評価の高い論文のひとつといえるのではないだろうか。

それでウェア博士は気になる神学者のひとりになった。彼が神論で有名なジョン・ファインバーグの弟子でありご自身も神論の専門家であることを知って、神論や三位一体論を扱ったいくつかの文献*2に目を通した。これらの読書は、組織神学の諸分野の中心、いやそれどころかクリスチャン生活・教会生活の中心はあくまで神ご自身、その神の栄光にこそあるということを教えてくれたのだった。そのことについて、今回セミナーが終わってからおそろしく拙い英語でウェア博士に感謝を伝えることができた。また博士が今取り組んでおられる仕事についても少し聞くことができた。今後のお働きも、大変楽しみである。

ちなみにセミナー参加直前には、博士が子ども向けに書かれた組織神学書*3を読んだ。出版元のCrossway社は「6〜14歳向け」と謳っているのだが、これが中々面白く、一気に読み進めてしまった。副題に「神の素晴らしさの教えと学び」と付けられている通り、ここでも「神の栄光」というテーマが中心に据えられて組織神学の各分野が満遍なく、わかりやすく教えられている。これは高校生大学生どころか大人にも良い本だと思う。こういう本こそ、邦訳の出版が望まれる。

セミナーの内容は、何も聞いていないが、今後日本聖書学院のホームページで何らかの形で公開されるのではないかと思う。

www.japanbible.jp

5つのセッションそれぞれが重厚な講義だったので、私などの力量では、とてもこういう場では内容を扱いきれない。なので備忘録的に、印象に残ったことをいくつか書き留めておきたい。これらはもしかしたらウェア博士が最も力を入れたポイントではなかったかもしれないが、少なくとも私には感動を与えたものであった。

セミナーのテーマについて

セミナーのテーマは「教会生活における神学の重要性」と謳われていた。実際のセミナー内容をふまえてより具体的に記すなら、「教会生活において教会論を学び、理解し、適用していくことの重要性」ということになるだろうか。事実、2日間5セッションに渡って行われた講義の内容は「教会論」に関するものだった。教会とはキリストを主とする群れである、神によって選り分けられキリストとひとつにされた者たちの群れであり、新しい契約の共同体である……こういった教会論の基礎的な事柄について聖書から学び、それがクリスチャン個人の生活にも教会という共同体としての生活にも重要なものだということを確認するのが、本セミナーの趣旨であったといえると思う。

クリスチャンは神に選ばれ召し出され、神の恵みによって、主イエスを信じる信仰を通して義と認めら、御怒りから救われた者である。また、それによって新しい契約の祝福に入れられた者である。新しい契約の祝福により御霊が与えられ、日々実質的な義人に向けて変えられ続ける。そして、ご自分が始められた救いの御業を必ず成し遂げられる神は、私たちをイエス・キリストに似た者へと完成させてくださる。

こういったことをふまえ、私たち個人の救いやアイデンティティについて理解することは重要だ。しかし今回のセミナーで強調されていたのはそれだけではなく、人の救いやクリスチャンのアイデンティティに関する教えは「教会」という共同体としても適用されるものだということだった。「教会」は端的に言えばクリスチャンの群れであるから、それは当然といえば当然なのだ。しかし私たちは往々にして、何につけても関心を自分たち個人に向けてしまいがちである。だが神は私たち個々を召し出されただけではなく、キリストのからだであり聖なる宮である群れの一員としても召し出された。キリストにある私たちのアイデンティティは、私たちが一員とされている共同体それ自体のアイデンティティでもあるのだ。

キリストにある者、キリストに結び合わされた者という私たち個々のアイデンティティを聖書から理解しその真理に生きる。それと同時に私たちはそのようなアイデンティティを持った群れ、神の家族の一員なのだと認識して互いを励まし合い、慰め合い、戒め合って生きることは、個々がキリストに向かって成長していくことにも間違いなく影響するし、またそのように共同体が成長していくことでキリストのからだの完成に近づいていくのである。

……と、だいたい以上のようなことが本セミナーの趣旨であったと私は理解した。そして、理解したことを自分たちの教会に還元し、また私たち自身が主により頼みつつそのように実際に生きていくこと……これがウェア博士から参加者に課された宿題/チャレンジであった。

三位一体の神と私たち

神論を専門とするウェア博士らしく、私たち個人や共同体について講じられる時、その中心には常に三位一体の神がおかれていた。

私たちを召し出し、キリストに結び合わされ、また完成に向けて変え続けてくださるのは間違いなく父なる神である。私たちに対するこのような計画をデザインされたのは父なる神である。

この救いの御業の土台は、御子イエス・キリストが公生涯においてモーセの律法の要求を完全に満たされ、神と敵対する罪人である私たちのためにご自身を十字架の死に渡され、死に対する勝利を収めた証として復活されたという事実である。

そして御父は御子を通して御霊を私たちに与えられた。御霊はキリストの栄光を現すために働かれるお方である。この御霊によって私たちをキリストに結び合わされ、御霊によって私たちをキリストの内に入れられ、御霊によってキリストが私たちの内におられ、御霊によって私たちをキリストに似た者へと変え続けてくださる。

あるセッションで、ウェア博士はジョン・パイパーの言葉を引用して「神ご自身こそ福音なのだ(God is Gospel)」と仰った。また、人にとって何が良い知らせなのかということを考える時、私たちが最も見過ごしてしまっているのはそこなのだ、と。神がおられ、この三位一体の神が全的に私たちに関わっておられ。私たちは三位一体の神ご自身とその圧倒的な祝福のなかで生きるよう選り分けられたのである。そして、私たちは全くふさわしくないにもかかわらず三位一体の神によって御怒りから救われ、三位一体の神ご自身と和解させられた──平和のうちに新しい関係に入れられたのである。これがなによりも福音において素晴らしいことではないか。

私たちの救いはそれ自体が目的ではなく、神の栄光が現されるための御業のひとつである……これは福音派において広く認識されていることだ。しかしながら牧師や神学者たちの中には、福音派の神学で弱いのが実は神論、「神の栄光」についてなのだと指摘する方々がいる。栄光がただ神にのみあり、私たちにとっての最善は神にしかないことを覚えるならば、この栄光ある神ご自身こそ私たちの学びや生活を含めた神学的営みの中心なのである。私たちの営みは、この神ご自身に幼子のような信頼を置かなければ立ち行かない。このようなあまりに基本的な事実を自分が忘れていたことを、本セミナーは思い出させてくれた。

新しい契約と私たち

もうひとつ印象に残ったのは、先に少しだけ触れた「和解」に関係していることで、エペソ人への手紙2:11–16から教えられたことだ。

神はイスラエルと、彼らが土地に回復させられること、彼らのメシアが与えられること、御霊が与えられること、回復され救われること、神が永遠に彼らとともにおられることを含む諸契約を結ばれた。「新しい契約」は神がイスラエルと結ばれた契約のひとつである(エレ31:31)。異邦人である私たちは、そのような聖書的契約の外に置かれていた。

しかし今ではキリスト・イエスにあって、キリストが捧げられた血によってイスラエルに「近い者」とされたのだ。私たちは契約の究極的成就をもたらすキリストを信じたとき、それらの契約の祝福に入ることができるようになったのである。

だが、ユダヤ人がその契約から取り除かれたわけではない。神は約束された以上のことはなさるお方であるが、約束されたことを完全に成就されないお方ではあり得ない。神は、約束されたことよりも少ない成就しかもたらさないお方ではない。だから神は、イスラエルにお与えになった約束を破棄されるということは絶対にない。ただ、異邦人である私たちをもイスラエルの祝福に招き入れてくださったのである。「新しい契約」と私たち異邦人信者との関係については神学的問題として常々考えさせられていたが、今回はこの恵みがいかに素晴らしいものであるか、そういう単純で新鮮な気持でエペソ書の御言葉に触れることができた。

さらにここから分かるのは、私たちは御怒りから救われて神と和解させられただけではなく、ユダヤ人・異邦人同士の和解に入れられたということである。モーセの律法という両者を分け隔てる大きな壁のことを思う時、これがまことに不思議なことなのだということがわかる。しかし、キリストはご自身の生涯において律法の要求を完全に成就された。またその死によって律法が要求する罪の代価を完済されたことで、隔ての壁は取り除かれたのである。これによって古い時代は過ぎ去り、ユダヤ人も異邦人も同じ主イエス・キリストにある信仰のみによって、ユダヤ人のまま、異邦人のままでキリストにあってひとつになることができるようになったのである。

つまり、キリストの十字架による神と私たちの和解──縦の関係における和解──が起こってはじめて、私たち人間同士の和解──横の関係における和解──が実現されるのである。ユダヤ人と異邦人という例でいえば、キリストによって2つの存在が1つとされ、1つにされた私たちは教会という共同体として、神との間に和解を得る者にされたのである。

この真理は、キリストにあるありとあらゆる人々の間の和解にも適用されるものだ。文化、国籍、人種、その他諸々の地上的要素によってもたらされる敵意は、ただキリストにあってのみ取り除かれるのである。だから、私たちはキリストにあってひとつになることで、互いに赦し合うことができる。

……私はここで、ユダヤ人とアラブ人の対立について考えさせられた。数年前に参加したある聖会で、キリストにあって一致しているユダヤ人とアラブ人が抱き合っていた様子を思い出した。また、お世話になっているある韓国系の教会で、キリストにあってこそ韓国人と日本人とが互いに交わり、主に礼拝を捧げている様子を思い出した。あるいは神学的立場が違う者同士のキリストにある一致という、私自身にとってのひとつのテーマを思い出させられた。そうした一致、和解といったことの最終的解決は、まず私たちが結び合わされているキリストにしかない。そして、その御業を行われる三位一体の神のうちにしかないのである。これもまたあまりに基本的な事実なのだが、私としては見落としがちになってしまっていることだった。

最後に

こうしてセミナーを通して教えられたことを、ノートや日記を見返しつつまとめ直してみたのであるが、まだまだ重要なことが抜け落ちてしまっているような気がする。だがもう7,000字に近づき、十分に長くなってしまった。このような記事からでも「教会論と教会生活」といったことに興味を覚えていただければ幸いである。またもし何らかの形でセミナーの内容が公開されれば、こちらのブログでもご紹介したいと思う。

また今回のセミナーではウェア博士の講義だけでなく、日本聖書学院の岡田学院長、オアシスチャペル利府キリスト教会の松田牧師など、お会いしたかった方々と期待していた以上のお交わりをいただくことができた。他にも多くの出会いがあり、大変恵まれた2日間だった。さらに利府キリスト教会の方々には、私も含めセミナー参加者お一人お一人に行き届いたおもてなしをしていただいた。この場をお借りして、心より感謝申し上げます。そしてこのような機会をくださった主にこそ、感謝の祈りを捧げたい。

*1:Bruce A. Ware, "The New Covenant and the People(s) of God," in Dispensationalism, Israel, and the Church: The Search for Definition, eds. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock (Grand Rapids: Zondervan, 1992), 68–97.

*2:Bruce A. Ware, God's Greater Glory: The Exalted God of Scripture and the Christian Faith (Wheaton, IL: Crossway, 2004); Idem, Father, Son, and Holy Spirit: Relationships, Roles, and Relevance (Wheaton, IL: Crossway, 2005); Idem, "A Modified Calvinist Doctrine of God," in Perspectives on the Doctrine of God: 4 Views, ed. Bruce A. Ware (Nashville, TN: B&H, 2008), 76–120; Idem, "The Glory of God in the Doctrine of God," in Building on the Foundations of Evangelical Theology: Essays in Honor of John S. Feinberg, eds. Gregg R. Allison and Stephen J. Wellum (Wheaton, IL: Crossway, 2015), 135–50.

*3:Big Truths for Young Hearts: Teaching and Learning the Greatness of God (Wheaton, IL: Crossway, 2009).