軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

帰ってきたディスペンセーション主義Q&A

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前回、「ひとまずこれで完結です」「これで一区切りつきました」などと大口叩いてから、わずか2ヶ月強…なんと、早々と帰ってきてしまいました。笑

このシリーズを公開してからシェアされることも多くなり、それがきっかけなのか新しくご質問を寄せていただいたりもしました。で、気づけばいただいたご質問は割と種類が似通っておりましたので、そんならブログでまとめて取り上げてしまえ!と思ってしまった次第です。笑

今度からは大口叩かず、柔軟に更新していきます。。。(しかし、これで「帰ってきた」って使っちゃうと、次からはどうタイトル付けていこうか悩みます。いいアイデアがあればお寄せください。笑)

Q14:どの教派がディスペンセーション主義なのか

Q:ディスペンセーション主義という立場は、教派でいうとどこに該当するのですか?

A:ディスペンセーション主義というのは、特定の教派と結びついているわけではございません。あえていうならば、契約神学などと同じく「福音派」に結びついているとはいえるわけですが……。

ディスペンセーション主義と結びつけて考えられることが多い教派は、プリマス・ブレザレンでしょうか。

ja.wikipedia.org

といいますのも、よく「ディスペンセーション主義の創始者」という風に言われるのは、19世紀英国でプリマス・ブレザレンを組織化した中心人物のひとりである、ジョン・ネルソン・ダービーだからです。彼は確かに、ディスペンセーション主義という立場を体系化した代表者として、とても有名です。

ただし、ダービーがディスペンセーション主義で広く見られる考え方(厳密なディスペンセーションの区別、イスラエルと教会の区別、終末論など)を生み出したのかというと、そうとは言い切れません。シリーズ最初の記事で申し上げたとおり、ディスペンセーションの区別にこだわる聖書解釈の姿勢というのは、ダービー以前、17〜18世紀に遡ることができます。また、イスラエルと教会の区別やイスラエルの民族的回復という考え方の萌芽は、やはり17世紀頃のピューリタニズムにも遡ることができます*1。またディスペンセーション主義的と見られがちな千年期前再臨説はもちろんのこと、患難期前携挙説といった終末論についても、17〜18世紀にその萌芽を見ることができます*2。ダービーは彼以前から一部のプロテスタントで発展させられていた聖書論、イスラエル論、終末論を受けたのであって、それを発明したというよりも、体系化したということが彼の功績と見られるべきではないかと思っています。

さて、プリマス・ブレザレンと繋がりのあるグループが全員ディスペンセーション主義者であったかというと、そうではありませんでした。そもそものプリマス・ブレザレン自体、ある程度神学的多様性を持っており、ダービーのディスペンセーション主義に反対する者もいました。ですから、ディスペンセーション主義というのは、それがダービーによって体系化された当初からして、特定の教派と結びついたものとは言い難いといえます。

英国でダービーにより体系化されたディスペンセーション主義は、19世紀末にダービーが米国やカナダに渡って各地で聖書を教えたことにより、特にアメリカで大きく広がっていくことになります。ただこの時期も、ディスペンセーション主義は特定の教派と結びついて広がっていったわけではありませんでした。以後の流れを見ていくと、長老派、バプテスト、ホーリネス、ペンテコステなど、様々なグループからディスペンセーション主義者が登場しています。

ただし、興味深いのは、特に19世紀末から20世紀初頭にかけての著名なディスペンセーション主義者には、長老派の牧師や神学者が多いですね。

ともかく、ディスペンセーション主義というのは特定の教派に結びつく神学的立場ではないということがお分かりいただけるかと思います。これは契約神学も然り、です。契約神学というと改革派と結びつけて考えられがちですが、たとえばバプテストのジョージ・ラッドなどは、自身の立場を契約神学に位置づけていました。ですので、くり返しになってしまいますが、ディスペンセーション主義や契約神学については、特定の教派と結びついた立場とは考えない方がよろしいかと思います。

Q15:メシアニック・ジューとディスペンセーション主義

Q:こちらで紹介されていたので、メシアニック・ジューであるフルクテンバウム博士の本を読み始めました。でも、他のメシアニック・ジューの本を読むと、ディスペンセーション主義が批判されていたりします。ヘブル的視点で聖書を読むと、ディスペンセーション主義になるのではないのですか?

A:こちらも複雑な問題なのですが、結論から申し上げますと、メシアニック・ジュー=ディスペンセーション主義者ではありません。

有名なユダヤ人宣教団体であるAmerican Board of Missions to the Jews(現Chosen People Ministries)や、The Friends of Israel Gospel Ministryなどは、ディスペンセーション主義に立つ指導者や宣教師がいました。ですので、その影響もあり、確かにこの神学的立場を受け入れるメシアニック・ジューもおられます(フルクテンバウム博士や、ムーディ聖書学院のマイケル・ライデルニック博士など)。

ですが、ダニエル・ジャスター博士やデイヴィッド・スターン博士、ミカエル・ブラウン博士など、自らをディスペンセーション主義に位置づけていないメシアニック・ジューも同じくらい、いやおそらくはそれ以上に多いかと思われます。

メシアニック・ジューというのは、そもそも神学的に厳密に定義づけをするのが難しい呼び名です。詳しい議論は、以下の拙稿をご参照下さい。

balien.hatenablog.com

仮に最も幅広い定義にしたがってユダヤ人クリスチャンを「メシアニック・ジュー」と呼ぶならば、少なくとも、これは特定の神学的立場にとらわれない呼び名であると認識したほうが良いかと思われます。

なお「ヘブル的視点」という言葉も、本来は自動的にディスペンセーション主義と結びつくものではございません。これについては以前、「ヘブル的視点」という言葉の意味合いも含めて以下のシリーズ記事で取り上げましたので、ぜひご参照下さい。

balien.hatenablog.com

balien.hatenablog.com

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Q16:ディスペンセーション主義かそうでないかの区別について

Q:ここのQ&Aを見ていると、ディスペンセーション主義かそうでないかの区別はとても曖昧だと思いました。ならば、区別していく意味はあるのでしょうか?

A:仰ることはとてもよくわかります。たとえば、非ディスペンセーション主義の立場として代表的な契約神学についてですが、以前Q11:ディスペンセーション主義と契約神学でも申し上げました通り、契約神学は全体を見渡して定義するのは中々難しいです。ディスペンセーション主義についても、同じことを言うことができるでしょう。

また、以前の‌Q11では「神の計画におけるイスラエルの役割や立ち位置」からディスペンセーション主義と契約神学を区別する考え方を提示いたしましたが、実はこれも厳密に見ていきますと、別の問題が生じて参ります。

ひとつ上のQ15で申し上げましたように、メシアニック・ジューと呼ばれる(あるいは自称する)方々の多くは、イスラエルと教会を区別しており、イスラエルの民族的な回復も信じております。ですが、そのメシアニック・ジューの中にも、ディスペンセーション主義から距離を置いている方々がおられるのです。その場合、大抵はモーセの律法に関する見解の違いであったり、ディスペンセーションの区分の強調に対する反対、また患難期前携挙説への反対が原因であったりします。

また、バリー・ホーナー牧師は、イスラエルと教会を区別し、イスラエルの民族的な回復を信じるタイプの千年期前再臨主義者ですが、自らを契約神学的な千年期前再臨説──専門的には「歴史的千年期前再臨説」と呼びますが、回りくどい言い方をすると、患難期前携挙説にとらわれない千年期前再臨説ということです──の系譜に位置づけています*3。しかし、ディスペンセーション主義者の多くは、イスラエルの将来と終末論について、ホーナー牧師の見解のほとんどに同意することができるでしょう。少なくとも私は、彼の著書を読んでほとんど違和感を抱きませんでした。

ですが、これまでのQ&Aから推測していただけると思いますが、モーセの律法についても、ディスペンセーションの区分の仕方についても、また患難期前携挙説でさえ、実はディスペンセーション主義という立場に特有な問題とはいえないのです。

……個人的には、ディスペンセーション主義というラベルを使っていくのは、そんなに積極的な理由からではなかったりします。まず、私自身がディスペンセーション主義の影響下で育てられたので、自分でこのラベルを使うのに抵抗がないということがひとつ。もうひとつは、ディスペンセーション主義という立場があまりに誤解されていることを知ったので、その誤解を解いていくことを情報発信の目的のひとつとしていることから、このラベルをあえて使っています。

本音でいえば、こんなラベルなんて使わなくたっていいと思うのです。少なくともクリスチャンとして御言葉に親しみながら歩んでいく限り、必要ないと思います。しかし、この立場は──契約神学もそうですが──あまりに大きく(有名に)なりすぎておりますので、神学的立場についての議論をするには、このラベルを完全に無視するのも難しいのが実情です。ですから、まずディスペンセーション主義と呼ばれてきた立場を理解しようという営みの中では、まずはこのラベルを使ってでも公平な議論をしていくことが重要だろうと思います。

けれども、信者同士の交わりであったり、聖書研究会などにあっては、このラベルを持ち出す必要は全くございません。私も、特別にこの立場についての話題にならない限り、このラベルは持ち出さなくなりました。……いや、実はかつて前に出しすぎていましたので、その反動というか、反省もあるのですがね……。

変にラベルにこだわりすぎることなく、イエスにある兄弟姉妹として交わりを守っていくことを覚えていきたいですね。イエスが戻ってこられ、神の国が完全に成就した暁には、そんなラベル分けはなくなるわけですから!

Q17:ディスペンセーション主義に関する日本語文献

Q:ディスペンセーション主義について詳しく知りたいのですが、日本語でおすすめの本などはありますか?(契約神学との比較も学んでみたいです)

A:ディスペンセーション主義を詳しく扱っている日本語の書籍ですと、チャールズ・C・ライリー『ディスペンセイション主義』前田大度訳(エマオ出版、2018年)でしょうか。ディスペンセーション主義とは何か?というテーマから、契約神学との比較まで扱われています。正直、手に入りやすい本となると、残念ながら他に選択肢がないのではないかと思います。(少なくとも、私の本棚にはございません……他にご存知の方がおられれば、ぜひともご教示ください!)

ディスペンセイション主義―聖書を字義通りに理解するためにー

〔2019年2月4日付記:Twitterでディスペンセーション主義に関する日本語文献についてご指摘をいただき、以下の書籍を確認しました。

  • 山岸登『聖書が示す神の摂理〈ディスペンセイション主義〉』(ノア書房、1996年)
  • 山岸登『これで聖書が解りやすくなる(改訂版)──ディスペンセイション主義──』(エマオ出版、2006年)
  • 山岸登・前田大度『聖書に基づく決定版 終末論』(エマオ出版、2011年)

いずれもライリー『ディスペンセイション主義』を邦訳出版されているエマオ出版関係のものですね。完全に失念しておりました。お恥ずかしながら初めて読んだのですが、最初の2冊はライリーに連なる修正ディスペンセーション主義に基づいた聖書理解の主張と、契約神学や漸進的ディスペンセーション主義との比較について。3冊目はその名の通り終末論(千年期前再臨説と患難期前携挙説)について扱っていて、「付録『小羊の王国』を斬る」として、本稿で紹介している岡山英雄『小羊の王国』への批判的応答がなされています。
内容としてはライリーのものでも十分だと思いますが、ちょっと「そこまで言います?」と思ってしまうくらいの攻撃性を感じてしまう3冊でした^^; 2冊目、3冊目の後書きなどで、他の立場を攻撃するための書物ではないということは十分強調されているのですが、本文中の修辞的表現がそこを通り過ぎてしまっているように感じられます。特に3冊目の『終末論』……まあ、『小羊の王国』がディスペンセーション主義に対してちょっと感情的なところを感じるくらい否定的なので、それと対になっていると捉えられることもないことはないですが(汗)。漸進的ディスペンセーション主義についても、契約神学に向かって妥協しているという感じでかなり批判的です(ライリーの改訂版からしてそうなのですがね)。おそらく上記の著書からすると、私のような立場は妥協的な姿勢であるように映るのでしょう……。
ただ、ディスペンセーション主義や患難期前携挙説に関する日本語文献ということでは貴重なのは確かだといえましょう。〕

以降では、いくつかの分野でおすすめする文献をご紹介しましょう。

ディスペンセーション主義そのものについて

ライリーの本は、Q4で取り上げた「修正ディスペンセーション主義」という立場から解説しているものになります。ただし、邦訳されたのは1965年に出版された旧版で、1995年以降の改訂版ではございません。そのため、文献情報や議論の内容など、やや古いところもございます。(たとえば、改訂版以降では「漸進的ディスペンセーション主義」についても扱われていますが、旧版出版当初はそもそもこの立場が登場していなかったため、触れられていません。)しかし、旧版も未だに、修正ディスペンセーション主義の立場を説明する代表的文献として扱われております。今でも伝統的なディスペンセーション主義というとライリーのような立場を指すことが多いので、まずは本書をお読みになることをおすすめさせていただきます。

また、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの「聖書入門.com」のブログに掲載されている「ディスペンセーショナリズムとは何か」(全6回)では、伝統的な立場から解説がされています。これなら無料で閲覧することができますが、もっと幅広い議論を見るならば、やはりライリーの著作を実際に手にとってみてください。

また、ハーベスト・タイムによる2016年のフルクテンバウム博士セミナー「ディスペンセーショナリズムとは何か」は、ライリーの著作の改訂版をふまえた形で、聖書入門.comの記事より幅広い内容(契約神学や漸進的ディスペンセーション主義との比較)も取り上げられています。テキストはハーベスト・タイムのHPで無料公開されておりますが、あくまでセミナーの配布資料ですので、ぜひともセミナー自体を聞いてみてください。

セミナー音源MP3版の販売ページ

2016年フルクテンバウムセミナー「ディスペンセーショナリズムとは何か ―体系的な聖書理解を求めて―」harvestdigital.shop

あとは手前味噌になりますが、自分のディスペンセーション主義理解が今よりもっとライリー寄りだった頃に、「ディスペンセーション主義とは何か?」という記事(全10回)を連載したことがございます。

balien.hatenablog.com

こちらはライリーの著作の改訂版をふまえた内容にもなっておりますので、ぜひご参照ください。ただし、契約神学に関する議論は十分ではございません。ただ、その部分についてはライリーの著作でも旧版と改訂版とで核となる部分は変わっておりませんので、邦訳書の方で補足いただければと思います。

また、マイケル・ヴラック博士の著作Dispensationalism*4では、ディスペンセーション主義における〈旧新約聖書の連続性と非連続性〉というテーマに1章が割かれています。それと同じ内容がヴラック博士のブログにも3回シリーズで掲載されているのですが、そのシリーズは以前、このブログで翻訳してご紹介させていただきました。ぜひそちらもご参照ください。

↓シリーズ第1回の翻訳記事。他のシリーズへは、ブログトップの「ジャンル別記事一覧から行けます。

balien.hatenablog.com

さらに、ディスペンセーション主義で重要なイスラエル理解というテーマに絞ってみますと、アーノルド・フルクテンバウム『イスラエル学』佐野剛史訳、中川健一監訳(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)がおすすめです。

harvestshop.net

契約神学との比較(契約神学の立場から)

契約神学との比較をする上では、実際に契約神学の立場からの本を読まれることをぜひともおすすめします。

本来であれば、契約神学から教理全体を取り上げているようなものをおすすめしたいところです。しかし、とりあえずはディスペンセーション主義との比較を試みる上で特に有益なものに絞ってみましょう。以下の書籍では、契約神学側のまとまった主張を読むことができますし、ディスペンセーション主義に対する批判的応答も扱われています。

O・パーマー・ロバートソン『契約があらわすキリスト──聖書契約論入門』髙尾直知訳、清水武夫監修(PCJ出版、2018年):原著は1980年の出版ですが、昨年遂に!邦訳されました。契約神学の立場からまさしく「契約」を軸に聖書の全体像を解説しているもので、こういうテーマにおける名著です。

契約があらわすキリスト―聖書契約論入門

ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)‌:自らの神学的枠組みを「契約神学」に位置づけつつ、千年期前再臨説を主張するラッドが、終末論について解説しています。

終末論

岡山英雄『小羊の王国──黙示録は終末について何を語っているのか』改訂版(いのちのことば社、2016年):岡山氏の立場を「契約神学」と呼ぶかどうかはともかく、患難期後携挙説&千年期前再臨説という、ラッドと同様な枠組みから終末論が説明されています。ラッドのものよりもさらに終末論の現代的適用が詳しく論じられており、学ばされる点が多くあります。

改訂版 小羊の王国 (いのちのことば社)

契約神学との比較(ディスペンセーション主義の立場から)

まずは、最初に申し上げましたとおり、ライリーの著作の中で、ディスペンセーション主義側から契約神学への批判的応答がなされています。

実は、フルクテンバウム『イスラエル学』の原著*5の前半部分では、イスラエル論という点に絞って、契約神学の主張の観察および分析がなされています。この部分の内容については、ハーベスト・タイムの2018年1日セミナー「1日でわかる『イスラエル論』」でまとめられています。

↓MP3&PDFテキスト版の販売ページ。

2018年1日セミナー『一日でわかる「イスラエル論」』harvestdigital.shop

↓テキスト単品(紙版)の販売ページ。

harvestshop.net

また、ヴラック博士のDispensationalismでは、ディスペンセーション主義と契約神学の違いにも1章が割かれています。こちらもヴラック博士のブログで同内容の記事が公開されておりまして、やはり以前本ブログで翻訳してご紹介させていただきました。

balien.hatenablog.com

おまけ:ハーベスト・タイムの1日セミナー「ディスペンセーショナリズムQ&A」のご紹介

ハーベスト・タイム・ミニストリーズは2017年から、代表の中川氏を講師として「1日セミナー」を展開しています。そしてなんと、今年のテーマは「ディスペンセーショナリズムQ&A」だそうです!!!笑

harvesttime.tv

この「1日セミナー」は、2016年で終了したフルクテンバウム博士セミナーの後継企画とでも呼べるものです。

以前、note時代に「ディスペンセーション主義とは何か?」を連載しておりましたら、翌年の、しかも最後のフルクテンバウム博士セミナーのテーマが「ディスペンセーショナリズムとは何か」でした。「あ〜、オレ一歩先を行ってたな^^」なんて思っていた、そんな時もありました(遠い目)。しかし、今度は去年からブログで「Q&A」シリーズをやっていたら、今年の1日セミナーのテーマが「ディスペンセーショナリズムQ&A」……この一致具合、どうしたことでしょう!嬉しい!

……さて、そんなことはどうでもいいのですが、セミナーの内容は「ディスペンセーショナリズムという神学体系の概要」をQ&A形式で学んでいくものとなるそうです。

中川氏は、チャールズ・ライリーとそのフォロワーたちに見られるような、かなりがっちりとした修正ディスペンセーション主義の立場です。私も中川氏からは多大な影響を受けてきておりますので、本ブログの内容と被るところもあるでしょう。一方で、私自身の学びから氏とは少し理解が違うところも出てきましたので、そうなれば当然違うところも出て来ると思います。が、がっちりとした修正ディスペンセーション主義の立場から、分かりやすく、色々な質問に答えてくださると思いますので、ぜひともおすすめしたいと思います。

日程は沖縄が3月23日(土)、札幌が3月30日(土)、福岡が4月6日(土)、名古屋が4月27日(土)、大阪が5月2日(木・祝)、そして東京が5月4日(土・祝)とのことです。また参加費は、沖縄・札幌・名古屋が7,500円、福岡・大阪・東京が8,500円とのこと。他に時間や会場など詳しい情報につきましては、ハーベスト・タイムのホームページをご覧下さい。(事前登録が必要なようですので、ご興味がある方は、ぜひお早めにお申し込みいただいた方がいいかと思われます。)

*1:ダニエル・C・ジャスター『イスラエルへの情熱』石川秀和訳(ゴスペル・ライト出版、2018年)。19世紀の例になるが、Barry E. Hornerは、このようなイスラエル論についてホレイシャス・ボナーやチャールズ・スポルジョンの例を引いている(Future Israel: Why Christian Anti-Judaism Must Be Challenged, NAC Studies in Bible and Theology, vol. 3 [Nashville, TN: B&H, 2007], 8–14)。

*2:William C. Watson, Dispensationalism Before Darby: Seventeenth-Century and Eighteenth-Century English Apocalypticism (Silverton, OR: Lampion Press, 2015).

*3:Horner, Future Israel, xviii–xxi, 150ff.

*4:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, rev. ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017).

*5:Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, rev. ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992).