軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

宇宙神殿説と霊的終末論(1/4)

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(画像出典:Hubble Space Telescope Images | NASA

Paul Martin Henebury氏のブログ「DR. RELUCTANT」より以下の記事を、氏ご自身の許可のもと、拙訳にてご紹介したいと思います。

The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology (Pt.1) | DR. RELUCTANT

はじめに

創世記1章では神による世界の創造が描かれていますが、これは被造世界の物質的起源を描いているのではなく、世界がどのような機能をもって創造されたかを描いているのだとする見解があります。このような見解を持つ人々は、この宇宙が神の臨在される「神殿」として創造されたのだと考えます。こうした考え方を宇宙神殿説(cosmic temple theory)といいます。

提唱者として有名なのは旧約学者のジョン・ウォルトンでしょう。彼については昨年、代表作『The Lost World of Genesis One』が邦訳出版されたり、それに合わせて来日講演が開かれたりもしました。

創世記1章の再発見 古代の世界観で聖書を読む (いのちのことば社)

そうしたこともあって、宇宙神殿説への関心というのは、近年の日本のキリスト教界でも高まってきています。

聖契神学校校長であり、前掲書の監修者でもある関野祐二氏は、同書の「監修者あとがき」の中で、スコット・マクナイトの『福音の再発見』(キリスト新聞社、2013年)でウォルトンが引用されていたことから「興味をそそられ」たと述べています(204頁)。私自身も、マクナイトを読んで宇宙神殿説を初めて知り、まさに「興味をそそられ」ました。それ以降、ウォルトンの著作や他の文献を通してなんとかこの見解を理解し、自分のスタンスを確立させたいと思い、チマチマ勉強している次第です。

この見解は英米福音主義神学界で強く支持されてもいるし、同時に強く反発されてもいる見解であります。ですが、今や旧約聖書を研究する上で古代中近東のリソースは無視できなくなってきています。ですので、古代中近東の宇宙観に基づいているというこの見解についても、旧約を研究する者は避けて通れないものになっているといえるでしょう。

さて、日本でこの見解が持込まれつつある現段階で、ひとつの大きな問題があると思っています。それは、支持者による文献は少しずつ揃ってきているものの、反対者の主張はそれほど充実していないということです。学術論文などでは宇宙神殿説が度々言及され、批判されてはいますが、批判者による一般書籍やWebサイトなど、アクセスしやすいリソースは非常に少ないです。

そんな中で、今回ご紹介する記事に出会いました。宇宙神殿説に批判的な方による全4回のシリーズ記事で、教えられることが多くあったので、ここでご紹介させていただきたいと思います。宇宙神殿説を巡ってバランスの取れた議論が展開されていくために、少しでもお役に立てれば幸いです。

ただし、原文では専門的な言い回しや、ネイティブ独特?な言い回しが多く、私の能力不足で超絶意訳となっていますがご了承ください……。英語を読める方は、ぜひとも元記事にアクセスいただきたいと思います。また、私自身この分野の議論に精通しているわけではないので、誤訳などありましたら、ぜひともご指摘ください。でも詳細な内容についてのご質問は、可能な限り調べてみますが、Henebury氏ご自身に訊ねたほうが良いかと思います。笑

なお、聖書引用は特筆なき場合、新改訳2017によっています。また文中〔〕は訳者による補足です。

宇宙神殿説と霊的終末論(The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology) Pt. 1

By Paul Martin Henebury

イスラエルの神殿は、終末論的な『もっと偉大な、もっと完全な幕屋』(ヘブ9:11)を指し示す象徴的な影だった。その幕屋にはキリストがおられ、また教会がいる。キリストと教会はその幕屋を構成するものでもある。もしそうであれば、旧約聖書の神殿に関する預言を成就させるものとして、地上的な『煉瓦と漆喰』で造られたエルサレム神殿の建設を待ち望むというのは、クリスチャンにとっては誤った姿勢であるように思われる。」(G. K. Beale, A New Testament Biblical Theology, 634.)

以上は、エデンの園は被造宇宙を象徴する「神殿」として造られたが故に、その創造主に従わねばならないという見解を持つ者が、論理的に出した結論の一例である。この小宇宙的なエデンの「神殿」は人間によって、この地球全体を覆うまで拡張されるべきものだったという。イスラエルの幕屋と神殿もまたエデンの「神殿」に関係しているものであり、それぞれが小さな宇宙であった。しかし、これらは最終的な神殿、イエス・キリストにある教会の予型として機能するものでもあった。教会は新しい、また真の神殿であり、その「聖所」は被造世界全体を覆うまで広がっていくという。

宇宙神殿説の説明*1

時間をかけて古い注解書や論文、旧約聖書神学などを読んでみれば、宇宙神殿という概念は見つからないことがわかるだろう*2。今日では状況が変わり、ヘブライ語聖書には古代世界における宇宙論的象徴が含まれているという考え方が共通認識となっている*3。確かに、神殿の構造、安息という概念、木を用いた象徴など、こういったエジプトやメソポタミアの文化については、旧約聖書の概念との間に著しい類似が見られる。

聖書の十分性という重要な問題を一旦脇に置いて、目下の問題にのみ集中してみよう。そうすれば、古代のユダヤ人たちも他の諸民族と同様に、神殿が宇宙を象徴するものと見なしていたという考え方は適切だと結論づけることができるだろう。ある福音主義者たちは、聖書自体もそのような考えを反映していると主張している*4。しかし実際のところは、これは分けて考えられるべき問題である。

古代ユダヤ人が神殿を宇宙の象徴と見なしていたという考え方の基本的なコンセプトは、以下の引用においてよく表現されている。

あまり知られていないことだが、古代中近東の考古学的遺産やテキストでは、古代の神殿が天における神殿の小さな模型として描かれている。あるいは、宇宙が神殿と見なされており、その模型として神殿が描かれている。*5

 

世界のまことの物語が展開される舞台は、神が創造した宇宙である。神はこの宇宙において、ご自身の形であり似姿である者によって知られ、礼拝されることを意図しておられる。そういった意味で、神が造られた世界は宇宙的な神殿である。神はその宇宙神殿の中に園を置かれた。そして人は、水が海を覆っているように、主の栄光が乾いた地全体を覆うようになるまで、園の境界を広げ続けていくよう求められていたのである。*6

 

また、古代中近東の神殿は、以下のものと比較される。……結論として、イスラエルの神殿における3つの区域は、宇宙を構成する3つの領域を反映したものである。*7

 

我々が主張するのは、イスラエルの神殿は3つの主要部分から構成されており、それぞれが宇宙の主要な領域を象徴しているということである。(1)外庭は、人が住んでいる領域を象徴している。(2)聖所は目に見える天と、その光源を象徴している。(3)至聖所は、宇宙の目に見えない領域、つまり神と天の軍勢がいる場所を象徴している。*8 *9

エデンは宇宙神殿なのか

こういった宇宙神殿説を提唱する運動の最前線に立つグレッグ・ビールは、エデンが神殿であると考えている。この神殿は世界中に拡大されていくよう定められており、様々な約束も内包している。我々が聖書の壮大な物語を理解することを助けてくれるのが、このエデンという神殿なのだという。ビールの見解は引喩、暗示、小さな要素、あり得そうなシナリオといったものによって組み立てられているが、表面下ではかなり推測的なものとなっている。彼自身、自らの主張を度々「もしかすると」「おそらく」「明確な証拠はないが」といったように修飾しているのである。彼が自らの理論を証明するためにはっきりとした聖書的根拠を提示するのは稀である。たとえば誰かが、この考え方が明確に書かれているのはどこかと訊ねるとしよう。ビールが出す答えは、エゼキエル書28章である。

よって、エゼキエル書28:18は、正典の中で最も明確にエデンの園が神殿と呼ばれている箇所である。*10

ここで問題とされている箇所には、次のように書かれている。

あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。(エゼキエル28:18)

ビールは別の場所で、以下のように説明している。「エゼ28:18は、栄光ある存在の罪が『あなたの聖所〔原文では複数形〕を汚した』と言われている。これは、神殿であるエデンが汚されたことをほのめかしている。」*11

〔訳者補足:エゼ28:11以降の「ツロの王についての哀歌」については、サタンの堕落を描写しているという見解(サタン説)や、エデンの園におけるアダムの堕落を描写しているという見解(アダム説)などがある。〕

ここで「聖所」と訳されているヘブライ語のmiqdashimは複数形だが、これは単に強調のための複数形ということもあり得る*12。この単語自体によっては、アダムが「栄光ある存在」であり、エデンが「汚された神殿」であるとは断定できない。しかし、誰もが認めるように、この聖書箇所には様々な解釈がある。そして、「アダム説」は完全とは言い難い解釈である*13。ブルース・ウォルトキは次のように考えている。「ツロの王の描写は、アダムにはふさわしくない。これはむしろサタン、神の庭にいる天使ケルブを描写していると考えた方が適切である。」*14 要するに、もしエデンが神殿であるとする最も明確な箇所がエゼキエル書28:18であるのなら、この理論が強固な聖書的土台に立っているとはいえないのである。

こういったエデンが神殿であるとするアプローチは、近年とても流行している*15。これが受け入れられているかどうかに関わらず、正しく聖書から立証され、 反論を寄せ付けないような理論であるならば、モーセの幕屋やソロモンの神殿とエデン(またその園)との関係について、大きな物議をかもすようなことはないだろう。しかしビールの神学は、かなりの度合で推測によるものとなっているのである。

*1:私はこの部分を多くの著書に拠っているが、この見解を理解させてくれた主な文献は以下のとおりである。Jonathan Klawansの詳細な論文である"Temple as Cosmos or Temple in the Cosmos," in his Purity, Sacrifice and the Temple: Symbolism and Supercessionism in the Study of Ancient Judaism (Oxford: Oxford University Press, 2006), 111–144。 Gregory K. BealeのThe Temple and the Church's Mission、特に29–60頁。また、彼のA New Testament Biblical Theologyの多くの章。そして、John H. WaltonThe Lost World of Genesis One, 71–112である。〔訳注:Waltonについては昨年邦訳出版された。ジョン・H・ウォルトン『創世記1章の再発見』関野祐二・中村佐知監修、原雅幸訳(いのちのことば社、2018年)。〕

*2:評判の良い旧約学者の著作には、この概念に関する議論が含まれていると思われるかもしれない。しかし実際のところ、たとえばVon Rad、Eichrodt、Scobie、Goldingayといった人々はこの概念に僅かにしか触れていないか、あるいは言及すらしていない。IBR文献目録におけるElmer A. MartensのOld Testament Theologyでさえ、これをテーマとして含めてはいない。これは非常に新しい教えなのである。よって、これを聖書神学の概念として取り入れようという最近の動きについては、非常に慎重に取り扱うべきである。

*3:たとえば、Jonathan Klawans, Purity, Sacrifice, and the Temple, 115, 280 n.22を見よ。

*4:誤解がないように言っておくと、こういった人々は、聖書の著者たちが常に近隣の民の世界観を取り入れていると言っているわけではない。彼らが言っているのは、古代のイスラエル人たちはそういった世界観でも物事を見ていたということである。E.g. John Walton, The Lost World of Genesis One, 78, and G. K. Beale, The Temple and the Church's Mission, 51.

*5:G. K. Beale, The Temple and the Church's Mission, 51.

*6:James M. Hamilton Jr., God's Glory in Salvation through Judgment, 356. よく考えてみると、この文章には問題が多い。もし「神が造られた世界は宇宙的な神殿」であり、神が礼拝されることを望まれる場所が拡張される必要があるなら、なぜ最初から全世界はそのように創造されなかったのか。なぜ実際の神殿は地のにある園だけなのか。上記におけるHamiltonの主張は、この点において矛盾している。彼が言いたかったのは、園は地上における神殿として創造され、人は地球全体にその神殿を拡張していくよう命じられたということなのだろう。しかし、古代中近東の神殿に基づいてこの考え方を展開しようとするなら、注意が必要である。というのも、古代中近東の神殿は拡張を要求していないのである。なぜなら、それらの神殿は一般民衆のためのものではなかったからである。したがって、ここで彼の考え方は崩れてしまう。また、ここには明確な聖書的根拠が見られない。

*7:G. K. Beale, The Temple and the Church's Mission, 58.

*8:Ibid., 32–33. 他に、地上を反映しているのは外庭ではなく至聖所であると考える者もいる。E.g., T. Desmond Alexander, From Eden to the New Jerusalem, 37–38 n. 50.

*9:事実としては、古代の神殿がいつも神々の臨在をその民と結びつけていたわけではない。Elmer Martenの見解は次のようなものである。「……神殿は神的存在の臨在を物語ってはいるかもしれないが、それを保証しているものではない。」(Elmer A. Martens, Interpreting the Old Testament: A Guide for Exegesis, ed. Craig C. Broyles, 196.)これは「神がその中心に住まいを定めない限り、(宇宙的な)神殿は存在しないからだ」というWaltonの主張とは対照的である(John H. Walton, The Lost World of Genesis One, 87)。〔引用はウォルトン『創世記1章の再発見』100頁による。〕Waltonの主張はエゼキエル40:1–43:10と明確に矛盾しているため、事実ではあり得ない。古代の神殿は一般民衆に向けて開かれていたものではなく、通常は祭司と貴族階級だけに開かれていたものだった。Rodney Stark, Discovering God: The Origin of the Great Religions and the Evolution of Belief (New York: HarperOne, 2007), 75.

*10:G. K. Beale, The Temple and the Church's Mission, 75–76. また、以下も参照のこと。G. K. Beale and Mitchell Kim, God Dwells Among Us: Expanding Eden to the Ends of the Earth (Downers Grove, IL: InterVarsity, 2014), 18.

*11:G. K. Beale, A New Testament Biblical Theology, 361 n. 7.

*12:Keilはこの説明を検証した上で、否定している(C. F. Keil, The Prophecies of Ezekiel, 416–417)。Fairbairnは、エゼキエル書28章の文脈では聖所が神の聖なる山と神の園の両方を指しているとしているが、これは理に適った見解である(Patrick Fairbairn, An Exposition of Ezekiel, 313–314 n. 1)。我々が後に取り上げることになるDaniel I. Blockの論文では、複数形の「聖所」は園とは区別されたものであるとされている("Eden: A Temple: A Reassessment of the Biblical Evidence," in From Creation to New Creation: Biblical Theology and Exegesis [Peabody, MS: Hendricksen, 2013], Daniel M. Gurtner and Benjamin L. Gladd, eds., 10 n. 4)。

*13:私はこの箇所の内容について、エゼキエル書のこの章に登場する「守護者ケルビム」に関するものであると考えている。

*14:Bruce K. Waltke, Old Testament Theology, 274.

*15:たとえば、Scot McKnight, "Covenant" in Dictionary for Theological Interpretation of the Bible (Grand Rapids: Baker, 2005), Kevin J. Vanhoozer, General Editor, 141.