軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

宇宙神殿説と霊的終末論(3/4)

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(画像出典:Hubble Space Telescope Images | NASA

Paul Martin Henebury氏のブログから、以下の記事を拙訳によりご紹介します。

The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology (Pt. 3) | DR. RELUCTANT

第2回目はこちら↓

宇宙神殿説と霊的終末論(2/4) - 軌跡と覚書

えー、いつものことながら超絶意訳となっております。

また文中〔〕は訳者による補足です。それと聖書引用は新改訳2017を使っています。

宇宙神殿説と霊的終末論(The Cosmic Temple and Spiritualized Eschatology) Pt. 3

By Paul Martin Henebury

聖書に宇宙神殿のモチーフが見られるという主張への反論

ビールの著書『神殿と教会の使命』(The Temple and the Church's Mission)では、エデンの園エルサレム神殿の両方が教会の予型であるとされている。また教会は、紛らわしい呼び方ではあるが、文字通りの非物理的神殿(the literal non-physical temple)と呼ばれている*1。ビールの理論は、アダム、アブラハム、そしてイスラエルの物語のどれもが、神の霊的王国を世界に広げていくのに失敗するという同じ物語の反復だというものである。これは巧みではあるが、漠然とした聖書解釈──主に新約を特別視した上での旧約の再解釈に拠っている。イエスは最後のアダムであり、最後のイスラエルであり、最後の神殿でもある(ただし、最後のアブラハムとは呼ばれていないようだ)。彼が来られる時には全てが整えられ、現在の被造世界を包み込んでいく*2

噛み砕いて言えば、こういうことになる。この見解の支持者たちは、宇宙神殿は聖書のテキストからはわずかな支持しか得られないことを認めている*3。主な根拠とされているのは、古代の神殿は小さな宇宙、つまり宇宙の模型であるということだ。この理解に従って、聖書における聖域の機能もまた宇宙の模型なのだという考えが支配的となってきている。だが、これは文脈から読み取れる聖書の言葉の字義的意味に基づいた見解ではない。これはテキストの「一応の証拠」(prima facie)を超え、非常に異なった形で聖書のモチーフ、予型、反復を分類していこうという人為的な試みである*4

こういった試みは、神殿の三重の構造が、宇宙の同じ三重の構造を反映しているという提案でもなされている。さらに、エデンの園を原始的な神殿と見なすようにとも教えられている。神は人に対して、全ての者が神を認めるようになるように、この神殿を地球全体に押し広げていくようにと命じられたというのである*5

中間時代におけるユダヤ教文献や、フィロンおよびヨセフスの書物によれば、第二神殿時代(紀元前200年–紀元70年)のユダヤ人たちの一部が、神殿と祭司制度は天にある実体を反映したものと理解していたのは明らかである*6。また、ある古代文化では、神殿建設という行動が宇宙創造の再演と見なされていたのも明らかである。

ヨセフスは、神殿の構造には様々な面で、宇宙の重要な要素が象られているとしている。神殿の門に掛けられた幕そのものが宇宙の象徴である([ユダヤ戦記]5:212–213)。卓に置かれた12のパンは十二宮と暦を表しており、メノラーは……7つの惑星を象徴している(5:218)。*7

確かにそうなのだが、こういった情報源はモーセ時代のものでなければ、アダム時代のものでもあり得ない。確かに、創世記1章と出エジプト記25–31章における神の幕屋建設の命令との間には、一定の類似性が見られる*8。しかし、こういう類似の可能性は、幕屋が小さな宇宙としてデザインされたという推論の決め手となるものではない。

イスラエル神殿の3つの領域は、宇宙の3つの領域を象徴するものである」という主張についてはどうだろうか。ビールは、これが真実なのは疑う余地がないと確信しており、その上で多くの理論を構築している。しかし、古代中近東の人々がこの三層構造という概念を信じていたのは本当なのだろうか。また、聖書の著者たちが同様に宇宙は三階建てであると見なしていたというのは、確立された事実だといえるのだろうか。

聖書神学者であるゲルハルト・ヘーゼルと、彼の息子であり考古学者であるミカエル・ヘーゼルは、どちらも事実とはいえないということを説得力をもって主張している。彼らは、カナン人たちが「神々は諸々の天、あるいは三階建ての宇宙が提唱する上層階にいつもいるわけではない」と記録していたことを示している*9。実際のところ、

メソポタミア文明の宇宙的地誌(cosmic geography)に関する最も包括的な研究では、三階建ての宇宙という考えは見出されないと結論づけられている……。*10

彼らは聖書における比喩表現を検証した後に、次のように結論づけている。「聖書の宇宙論が三階建ての宇宙という概念であるとする仮説が広く受け入れられているが、これは支持されるものではない。」*11 もし彼らが正しければ、神殿が宇宙の三層構造を反映しているという理論は、深刻な問題を抱えていることになる。しかしくり返しとなるが、最も重要な問題は、こういった理論がどの程度推測や僅かな可能性に依拠したものであるかということである。

神殿は何を表しているのか

ここで聖書の記述に焦点を絞り、「地上の神殿が宇宙全体を象徴していることはあるのか」という問いを再考してみる必要がある。これについては、地上の神殿が天の神殿の模型として造られたかどうかという問いと関連させて考えるのが最善だと思われる。後者の見解については、まず異論はないだろう。出エジプト記25:9、40が示しているように、神ご自身がモーセに青写真を与え、それに注意して従うようにと命じられたのである。こうした考え方はヘブル書の著者によっても発展させられている。彼はイエスが大祭司の役割に就いておられると記した後で、イエスについて次のように述べている。

人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。(ヘブル8:2)*12

見たところ、天に「まことの幕屋」があり、地上の幕屋はそのレプリカであると示されているのは明らかである。しかし、神殿=宇宙のモチーフという図式は、それほど有力ではないように思われる。なぜなら、天の神殿自体が宇宙全体の象徴であるとまで主張するのは、行き過ぎであるように思われるからである。このためには、(1)神殿=宇宙、次に(2)地上の神殿=天の神殿というように、象徴性を二重に仮定する必要がある。天全体が「まことの幕屋」でない限り、ヘブル書8章および9章を読んでも神殿=宇宙であるとは考えられない。よって、(1)の仮定における並行性は成り立たないのである。こうした考えは、黙示録21章および22章における新しいエルサレムの描写を思い出してもらってもわかるだろう。ここでは、新しいエルサレムは明らかに天そのものから区別されているのである(黙21:2–3)。

以上のことから、まことの幕屋の領域は天そのものとは異なっている。よって、宇宙全体を象徴しているものということはできない。ということは、ビールによって主張されているように三層構造の宇宙が象徴されているということもできない。

ただし、「古代世界では神殿が様々な方法で宇宙を象徴していたという大量の証拠がある」*13 ということについては、大まかな点でビールと同意しない理由はない(生まれつきのへそ曲がりでもない限り)。しかし、これが真実だと認められることで、問題がどのように改善されるというのだろうか。私たちの関心は異教の神殿や誤った世界観ではなく、聖書のテキストにあるのだ。聖書を古代における類似に基づいて解釈すべきでないのは明らかである。証拠は聖書自体にあるのだ。したがって、ビール、ウォルトン、また他の人々がしているような古代世界の情報の扱い方には強く反対しなければならない。とりわけ三層構造の宇宙論という見解については、その根拠からして深刻な批判を受けているからである。

私は次のような考え方が好きだ。(堕落後の)エデン、幕屋、そして神殿は、創造本来の完全さと「御国の約束が捨て去られていないという保証」*14 、その両方を記念する「聖域」(この用語を使わなければならないなら)なのである。

宇宙神殿というモチーフは、聖書の背景の興味深い一例として知る価値がある。それにこのモチーフは、創造が神の「プロジェクト」であり、神はその始まりから完成まで必ず成し遂げられるという我々の見解を支持するものである。しかし、このモチーフから出発して聖書全体を予型論的に読んでいこうとするのは、困難に満ちている。

他の古代の記録には、聖書の記録とよく似たものがある。だが覚えておきたいのは、こうした古代の記録というのは、往々にして聖書における対応物よりも大袈裟になっているということだ。古代中近東の創造神話に基づいて創世記を理解しようとすること、あるいは古代の契約に基づいて聖書的契約を理解しようとすることは賢明とはいえない。同様に、古代における神殿やその構築物およびその機能の理解について断片的な知識を持ち出して、現代の読者が聖書の意味を理解するために使うというようなことも、賢明ではない。そういった情報源から得たモチーフに頼って旧新約解釈の図式を展開しようというのは、さらに危険なことである。私たちは、福音主義解釈論でのこのような行き方を心配すべきだと思う。宇宙神殿という概念自体は、(疑問を挟む余地は大いにあるが)それほど心配すべきではない。気がかりなのは、その概念が聖書全体を霊的・予型論的に読むための入口として使われていることである。創世記1–3章に創造の契約や恵みの契約を見出すのが釈義的に困難なのと同様に、神が地上で臨在される場所が聖書の歴史を通して増し加えられていくという見解は、釈義的に疑わしい。聖書はこういったことを明確には教えていない。これは、聖書の内容と古代の歴史を断片的に繋ぎ合わせて出来ている見解である。さらに、この見解におけるモデルとは矛盾した証拠までもが存在しているのだ。たとえばビールでさえも「異教の象徴体系では、神殿は終末論的な目的を持っていなかった」ということを認めざるを得ないのである*15

*1:このような主張をする人々は善意によって主張しているのではあるが、エデンを宇宙神殿と見なし、園の外には脅威が潜んでいると見なすといった試みは、物語に無理矢理読み込まれたものであるように思われる。こういった学者たちの想像力は、エデンの園の土壌よりも肥沃なのではないか。私は、エデン–宇宙–神殿という繋がりから神学を考えていくことが一時的な神学的乗り換えであると信じている。これは重大な批判が投げかけられることで、間もなく放棄されるだろう。控えめな意見だが、これが起こるのは早いほど良い。予型論的な装飾が剥がされた後に残されたものこそが、なおも有益なのである。〔訳者補足:Henebury氏の見解です。私としては、この考え方が「一時的」で「間もなく放棄されるだろう」とまでは思えません。〕

*2:G. K. Beale, A New Testament Biblical Theology, 465.

*3:G. K. Bealeはユダヤ教学者であるJon Levenson, The Temple and the Church's Temple, 49を引用している。

*4:これはJohn H. WaltonThe Lost World of Genesis Oneの大部分において見られる試みである。たとえば同書p. 102を見よ。よく似た試みは、黙示文学的解釈を推進する学者たちにも見られる。E.g., John J. Collins, The Apocalyptic Imagination, 16.

*5:WaltonがBealeよりもやや慎重であるということは特筆に価する。彼は次のように述べている。「神殿が小さな宇宙と見なされていたという考えからすれば、宇宙そのものが神殿であるという考えに移行することは簡単である。ただし、古代世界の宗教は多神教的性質をもつため、これを立証することはかなり困難だ。宇宙全体が一つの神殿だとしたら、その神殿はどの神のものになるのか。他の神々の神殿はどこにあるのか。そういった困難さがあるにもかかわらず、創造テクストが神殿建設テクストの形式に従うことは可能であり、実際従っていると断言されうる。少なくともそうすることで、創造テクストは宇宙を神殿に結びつけている。」(John H. Walton, The Lost World of Genesis One, 82. 強調は引用者による。)〔引用はジョン・H・ウォルトン『創世記1章の再発見』原雅幸訳、関野祐二・中村佐知監修(いのちのことば社、2018年)98–99頁による。〕また、他の旧約学者は次のように述べている。「より適切には、宇宙神殿はエルサレム神殿と(比べられるというよりも)対照的なものである。」(J. Richard Middleton, The Liberating Image, 83, n. 101.)また、T. Desmond Alexander, From Eden to the New Jerusalem, 37–38も参照のこと。ここでは、この見解が「論争の域を出ない」とされている。また、Klawanによれば「世界の創造と幕屋建設の類似性は聖書の物語において暗示されている。しかしながら、こういった関係性が聖書において明確に見出されるわけではない」(Purity, Sacrifice and the Temple, 124)。

*6:Klawansは、フィロンが神殿に神の臨在があったと信じていたかは確信がないとしている(Purity, Sacrifice and the Temple, 113, 122–123)。聖書そのものは、第二神殿に神の臨在があったことを証明することはできない。むしろ、事実は逆であったことが明らかになる。エゼキエル書10–11章では、栄光の雲は神殿から去り、二度と戻らなかったとされているからである。Wrightは、この点をさらに断定的に述べているのは。「捕囚以降の文献のどこを探しても、列王記上の8章10節以降に対応するような下りを見いだすことはできない。……その代わりに、イスラエルはいつの日かシェキナー、神の栄光ある臨在がついには戻ってくるという約束を信じ続けた。」(N. T. Wright, The New Testament and the People of God, 269.)〔引用はN・T・ライト『新約聖書と神の民』上巻、山口希生訳(新教出版社、2015年)475–76頁による。〕第二神殿には神の栄光の雲がなかったからこそ、Wrightは「捕囚は本当の意味では未だに終わっていない」と考えているのである。

*7:Ibid., 114. Cf. also 124. Klawansはメノラーが7つの惑星を表していると確信している。Bealeはこれを「肉眼で見える7つの光源(太陽、月、金星、他の4つの惑星)」と考えているようである(Beale, The Temple, 54.)。なぜ金星が「他の4つの惑星」から切り離されているのかは説明されていない。Klawansはまた、ユダヤ教の礼拝所の多くでメノラーと十二宮が関連させられていたようであり、これは神殿が小宇宙であったという信条をほのめかしていると論じている。しかし彼はまた、この関連性が後のユダヤ教文献では放棄されていることも指摘している(Ibid., 127)。

*8:J. Richard Middleton, The Liberating Image, 84–85を参照のこと。Middletonは、こういった類似性や「地の基」に言及している箇所などは、故意に創造の日をほのめかしているものと考えている。(ただし、Middletonは6日間の創造を信じる者ではなく、有神的進化論者である。)

*9:Gerhard F. Hasel and Michael G. Hasel, "The Unique Cosmology of Genesis 1 against Ancient Near Eastern and Egyptian Parallels," in The Genesis Creation Account and Its Reverberations in the Old Testament, ed. Gerald A. Klingbeil, 16.

*10:Ibid.

*11:Ibid, 21.

*12:これはヘブル8:5および9:11によっても確証される。ここでまた注意しなければならないのは、こうした新約の聖句は旧約テキストの再解釈を強要するものではないということである。

*13:G. K. Beale, The Temple and the Church's Mission, 54. また、Brevard Childsは次のように述べている。「比較宗教学や近年の考古学的研究によって、旧約聖書における幕屋の記述が古代中近東の背景と多くの特徴を共有しているということは、かなり明らかとなっている。」(The Book of Exodus, 539.)

*14:Eugene H. Merrill, Everlasting Dominion, 287.

*15:Beale, Temple, 60.