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聖書の物語と契約(6)イザヤ書と永遠の契約の希望

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前回:主の日・契約の成就・被造世界の回復

 私たちはこれまで、ダビデ契約の成就(メシアの到来と王国の確立)こそが、諸契約の成就と被造世界の回復をもたらすことを見てきた。また、成就と回復は、終末的な【主】の日を通して実現するということも見てきた。

 聖書は、契約の成就と被造世界の回復をもたらす、さらなる枠組みを啓示している。それが、あの新しい契約である。この契約は、私たちが今「新約聖書」と呼んでいる正典の後半部分の名称にも使われている。実際に、新約聖書の主要なメッセージの一つは、旧約が預言してきた新しい契約が、イエス・キリストにおいて締結されたのだということである(ルカ22:20; ヘブ9:15など)。

 それでは、私たちの主によってもたらされた新しい契約とは、どのような契約なのか。これを探っていくため、複数回に分けて、イザヤ書エレミヤ書エゼキエル書という三大預言書を覗いていこう。それによって、私たちとも大いに関係している新しい契約について、より立体的な理解が得られると思うのだ。

新しい契約と回復の希望

 私たちはこれまで、「祭司の王国」として選ばれたイスラエルに対して、モーセ契約への違反に対する裁き(アッシリア捕囚およびバビロン捕囚)が下ったことを確認してきた。また、彼らの上にはさらなる(最終的な)裁きが【主】の日に下されるであろう。しかしその日には、契約の神である【主】ご自身が、契約に基づくイスラエルの回復も実現させて下さる。このようにしてイスラエルが「祭司の王国」として確立されることにより、彼らを通して諸国民が祝福されるというアブラハム契約の約束が成就する。その時、被造世界全体もまた、本来の創造の秩序の内へと回復させられるのである。

 旧約聖書は、上記の回復の計画を実現させるため、神が人と新たな契約を結び、新たな枠組みをもたらされることを明らかにしている。それが、文字通り新しい契約と呼ばれる契約である。この契約は、呼び名も含めてエレミヤ書30–33章(特に31:31–34)で詳細に啓示されている。そして、これが回復をもたらす新たな枠組みであるがゆえに、新しい契約は「エレミヤのメッセージの中心」であるだけではなく、「旧約聖書神学の中心」であると言っても過言ではない*1

 しかし、この契約に関する希望は、エレミヤ書31章で初めて啓示されたのではない。新しい契約による回復の希望がいかに積み上げられてきたのかを確認するために、まずはイザヤ書から見ていく必要があるだろう。

イザヤ書と永遠の契約の希望

第1、第2のしもべの歌

 イザヤは、後に新しい契約と呼ばれるものが何をもたらすのかを伝えている。それだけではなく、この契約をもたらすのが「主のしもべ」なる人物であることも告げているのである。

 イザヤ書では、まず民族としてのイスラエルが神によって「わたしのしもべ」と呼ばれている(イザ41:8)*2。しかし、42章から登場するいわゆる「しもべの歌」(42:1–9; 49:1–13; 50:4–11; 52:13–53:12)においては、「しもべ」という表現がイスラエルの中の特定の人物に適用されている*3

 第1の歌(42:1–9)では、しもべは「国々にさばきを行」い(42:1)、「地にさばきを確立」(42:4)させる存在である。ここには、全地を統べ治める王のイメージが見られる。同時に、神はこのしもべを「民の契約」(42:6)とされる。これは、イスラエルに「契約をもたらす仲介者」を意味する修辞的表現と考えられる*4

 このようなしもべ像は、第2の歌(49:1–13)でも繰り返されている。ここでしもべは「わたしのしもべ、イスラエル」と呼ばれている(49:3)が、彼は「ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集める」ため、神によって起こされたしもべである。よって、彼はイスラエルの民そのものではなく、イスラエルの民を代表する存在、イスラエルの中のイスラエル、そして真のイスラエルなのである*5

 しもべの役割は、イスラエルを神に立ち返らせるという霊的回復をもたらすことだけではない。彼には「イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせる」こと、すなわち裁きの結果離散させられた民を集め、帰らせるという物理的回復をもたらす役割も与えられている(49:6)。そして、ここでも彼が「民の契約」とされることが繰り返されている。彼がもたらす契約により、神はイスラエルの「国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる」(49:8)。

 しかし驚くべきことに、しもべにとっては、イスラエルの霊的・物理的回復ですら「小さなこと」なのである。彼は同時に「国々の光」、「地の果てにまでわたし[主]の救いをもたらす者」でもある(49:6)。

 第1、第2の歌に見られるイメージは、イスラエルの代表者であるしもべが民に契約をもたらし、その契約に基づいて民が回復され、またしもべを通して諸国民が祝福されるというものである。ここにあるしもべ像は、9:6–7や11:1–16で預言されていた、イスラエルと全地を統べ治めるダビデ的王の姿と一致している。ダビデの子孫である王/メシアが、主のしもべとして、イスラエルと諸国民の回復をもたらす契約の仲介者となるのである。

第3、第4のしもべの歌

 さらに、第3、第4のしもべの歌は、しもべ/メシアが「苦難のしもべ」でもあることを明らかにしている。第3の歌(50:4–11)では、このしもべが辱めを受けることが歌われている。それでもしもべは、ただ【主】にのみ信頼を置く。そして、第4の歌(52:13–53:12)に至って、しもべの辱めは頂点に達する*6

 第4の歌の出だしは、しもべの栄光を歌っている。「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。」(52:13)これは、9:7や11:2–5に見られる栄光のメシア像と一致している*7。しかし、栄光の雰囲気は52:14から一変する。しもべは「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほどに蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」(53:3)。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のうえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。(53:4–6)

 栄光の王であるしもべは、同時に、民の咎を負う存在でもあるのだ。そして彼は、「自分のいのちを代償のささげ物とする」(53:10)。彼は、究極的な罪の犠牲である。彼がイスラエルに霊的回復をもたらす存在であることは、既に告げられていた。ここに至って、彼がもたらす回復──罪からの立ち返りと罪の赦し──は、彼自身が「いのち」を犠牲にすることによって実現することが明らかにされたのである。

 さらに、しもべの犠牲は、イスラエルに罪の赦しをもたらすだけでは留まらない。52:15では、「彼は多くの国々に血を振りまく」と言われている。「しもべの苦難は『彼ら』(イザ52:15c–d)、すなわち『多くの国々』とその『王たち』(52:15a–b, cf. 53:11d–e, 12e–f)に贖いと回復をもたらす。主の関心がイスラエルだけではなく諸国にまで及んでいることは、大きな文脈で見ると、他の箇所でも宣言されている(イザ49:6–7; 56:6–7などを見よ)。そして今や、[イスラエルに与えられたのと]同じ犠牲による贖いと回復が、彼ら[諸国民]にも適用されるのである。イザヤ書53章の苦難のしもべは、『まずユダヤ人に』だけではなく『ギリシア人にも』、贖いと回復をもたらすのである(ロマ1:16 ESV)。」*8

 イザヤはしもべの歌を通して、回復の土台がいかに据えられるかを預言している。その土台とは、完全な罪の赦しと贖いである。被造世界にのろいをもたらし、契約に基づく回復の計画が必要となったのは、人が堕落したためであった。全ての根源は罪という問題にあったのである。そこで、しもべの犠牲を通して完全な罪の赦しがイスラエルと諸国民にもたらされることによって、彼らの罪が取り除かれ、神に立ち返ることが可能になった。彼らは、しもべの犠牲による贖いを受け入れることにより、罪赦されるだろう。この罪の克服なくして、イスラエルと諸国民の祝福、また被造世界の回復はあり得ないのである。

 そして、罪の問題に最終的な解決をもたらすのが、祝福と回復をもたらす王/メシアであることも明らかになった。第4のしもべの歌では、彼の代償的犠牲と王国の確立の時系列的関係は明示されていない。しかし、これまでの預言をふまえると、ぼんやりとではあるが、その関係が浮かび上がってくる。特に【主】の日に関する預言群では、悔い改めて罪赦されたイスラエルの王国が回復させられるとされていた。よって、ダビデの子なるメシアは、まず犠牲によって贖いをもたらし、その贖いを土台としてイスラエルが回復され、そして彼がイスラエルと全世界を統べ治めることになるものと推測される。

 自らを贖いの犠牲とするダビデの子は、既に何度も見てきたように、王国の確立によって被造世界の回復をもたらす。これまでの回復の預言としもべの歌を合わせて考えることにより、打たれて傷を受けるが最終的に悪の力を打ち砕き、被造世界ののろいを覆す女の子孫(創3:15)とは、ダビデの子なるメシアであることが、より明確になるのである。

永遠の契約

 そして、ダビデの子/王/メシアによる贖いと回復は、彼が仲介者としてもたらす「民の契約」において実現される。イザヤ書59章では「イスラエルの罪が述べられる」が*9、その最後には、神ご自身がイスラエルの「贖い主」として来られると約束されている(イザ59:20)。この結論と、60章以降高らかに宣言される神の王国の確立を繋ぐ役割を果たしているのが、続く59:21である*10。「これは、彼らと結ぶわたしの契約である──【主】は言われる──。あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、子孫の子孫の口からも、今よりとこしえに離れない──【主】は言われる。」

 ここでは、イスラエルの贖い主である【主】が、彼らと契約を結ぶと言われている。「42:2; 49:8でしもべが民に契約をもたらすこと、55:3における永遠の契約、また61:8における永遠の契約といった広い文脈で見ると、この契約は将来神が民との間に確立される終末的契約への言及であるに違いない(エレ31:31–34; エゼ34:23–25; 37:24–28)。」*11 55:3における「永遠の契約」はダビデ契約への言及とも取れるが、42:2以降の文脈から見れば、おそらくはダビデの子を通して立てられる「終末的契約」と捉えた方が良いだろう*12。すなわち、イスラエルに贖いをもたらすために神がお立てになる契約は、「IIサム7:14–16におけるダビデ契約の成就とも関係している」のである*13

 59:21で言われている契約は、イスラエルに神の霊が注がれること、そして彼らの口から【主】の「ことば」が離れないことを保証している。前者は、ヨエル書2:28–29における回復の預言を思い起こさせる。ヨエル書では、神の霊が注がれ、イスラエルの心に割礼が施されることが示唆されていた(前回参照)。また、ヨエル書の文脈が伝えていたのは、神による特別な働きかけによってイスラエルが悔い改め/神に立ち返り、彼らが霊的に回復させられるということである。彼らの口から神のことばが離れることがないということは、その回復の結果を表していると思われる。【主】の日の文脈で預言されていたイスラエルの霊的回復は、この契約において、そして神の霊が注がれることによって実現するのである。

 以上のことから、イザヤ書59:21は、しもべ/メシアがもたらす贖いによるイスラエルの霊的回復が、彼が仲介する「永遠の契約」において実現することを教えている。繰り返し述べてきたように、贖いによる罪の問題の解決こそが、あらゆる祝福と回復の土台である。したがって、これまで幾度となく見てきた諸契約の成就は、この「永遠の契約」を枠組みとして実現することが期待されるのである。

新しい天と新しい地

 実際に60–66章では、これまで見てきたイスラエルの回復、彼らを通した諸国民の祝福、そして被造世界の回復を総括しているかのような、荘厳なメッセージが展開されている。60–61章では、諸国民がイスラエルを通して祝福されること(60:5, 10–11)、またイスラエルが再び約束の地において祝福され、繁栄することが預言されている(60:6–9, 17–21; 61:4, 7, 8)。62章では、神がイスラエルの回復を確実に実行されることが強調されている。そして、諸国民がイスラエルの回復を目撃する(62:2)。

 特に注目すべきは、65:17以降における「新しい天と新しい地」に関する預言である。ここでの新天新地は、現在の被造世界と連続したものである*14。言い換えれば、イザヤが預言した新天新地は、神によって本来の姿へと回復させられた被造世界である。その世界において、人は主にあって喜び楽しむことができるようになる(65:17–19)。また、ここで告げられている動物界の回復(65:25)は、11:6–9で預言されていた内容の反復となっている。すなわち、王/メシアが王国の確立によってもたらす回復は、新天新地で成就するのである。そして、この新天新地において、全ての被造物によるまことの神への礼拝が回復される(66:22–23)。これが、イザヤ書で描かれ続けてきた、壮大な神の計画のゴールなのである。

まとめ

 これまで見てきたことを総合すると、ダビデ契約を成就させるために到来するメシアは、自らを犠牲にすることで、被造世界の回復の土台となる贖いをもたらす。その贖いにより、イスラエルと諸国民は霊的に回復される。また、メシアはこの地に王国を確立させ、そこからイスラエルと諸国民を統治する。さらに、メシア自身が諸国民の光となり、祝福をもたらす存在であると同時に、メシアの統治下において、イスラエルもまた諸国民を祝福する器──祭司の王国として回復させられる。そして、被造世界の回復は、新天新地において成就する。

 以上の回復の計画をもたらす新たな枠組みになると期待されるのが、メシアを通して結ばれる「永遠の契約」である。この契約において、諸契約──地の存続を保証するノア契約、アブラハムとその子孫の祝福および彼らによる諸国民の祝福を約束するアブラハム契約、イスラエルが祭司の王国となることを約束するモーセ契約、そして回復の成就をもたらすダビデの子の王国を約束するダビデ契約──が成就することになる。次回は、そのことをさらに具体的に教えてくれているエレミヤ書30–33章を取り上げたい。

*1:Kaiser, Toward an Old Testament Theology, 231.

*2:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。

*3:Rydelnik and Spencer, "Isaiah," 1065.

*4:Ibid., 1066. なお、この民は、42:5からの繋がりおよび「国々」という言葉からすると、「全地の民」という意味でも捉えられる(鍋谷『イザヤ書注解』下[いのちのことば社、2014年]139頁)。しかし、イスラエルの民を扱っていた41章からの繋がり、また後述する第2の歌との繋がり(特に49:8)をふまえると、42:6の「民」はイスラエルと捉えるのが良いだろう。

*5:Vlach, “What Does Christ as ‘True Israel’ Mean for the Nation Israel?: A Critique of the Non-Dispensational Understanding,” The Master’s Seminary Journal 23/1 (Spring 2014): 43–54.

*6:第4の歌のメシア的解釈については、以下を参照のこと。Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds., The Gospel According to Isaiah 53: Encountering the Suffering Servant in Jewish and Christian Theology (Grand Rapids: Kregel, 2012). 同書所収のRichard E. Averbeck, “Christian Interpretation of Isaiah 53,” 33–60; Kaiser, “The Identity and Mission of the ‘Servant of the Lord,’” 87–107は特に参考となる。

*7:Henebury, "Covenant in Isaiah (PT.4)," May 17, 2019.

*8:Averbeck, “Christian Interpretation of Isaiah 53,” 60. Cf. Ibid., 56–57.

*9:鍋谷『イザヤ書注解』下、255頁。

*10:Gary V. Smith, Isaiah 40–66, NAC (Nashville, TN: B&H, 2009), 604.

*11:Ibid., 605–06.

*12:Ibid., 497–502; Rydelnik and Spencer, “Isaiah,” 1092.

*13:Smith, Isaiah 40–66, 606.

*14:多くの千年期前再臨主義者は、この預言の主な内容は黙21–22章における新天新地というよりも、20:1–4で述べられている地上的王国(千年王国)に関する預言であると理解している。E.g., Vlach, He Will Reign Forever, 174–76; Blaising, “Premillennialism,” in Three Views on the Millennium and Beyond, ed. Darrell L. Bock (Grand Rapids: Zondervan, 1999), 194–95; John A. Martin, “Isaiah,” in The Bible Knowledge Commentary: Old Testament, 1120; Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: Zondervan, 2000), 1127–28.
 イザヤが強調しているのは、神による回復の計画が新天新地において成就するということであり、このメッセージ自体は黙21–22章とも調和している。神の王国における回復が千年王国と永遠の御国(新天新地)という段階に分かれることが最も明確にされるのは、黙20–21章に至ってである。この点は、いずれ詳しく扱いたい。