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聖書の物語と契約(7)エレミヤ書と新しい契約の希望(その1)

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前回:イザヤ書と永遠の契約の希望

 前回は、イザヤの預言のなかにある「永遠の契約」の希望を見た。イザヤはまず、イスラエルの王となり、諸国民の光ともなるダビデの子=メシアが、主の「しもべ」でもあることを伝えた。そして、栄光の王である「しもべ」その人が、自らを、イスラエルと諸国民にとっての「代償のささげ物」としてささげるという。「しもべ」すなわちメシアは、イスラエルと諸国民を完ぺきに統べ治めるだけではなく、彼らの回復の土台となる完全な贖いと罪の赦しをももたらすのである。

 そして、「しもべ」は「民の契約」となると預言されていたとおり、メシアがもたらす罪の赦し(霊的な回復)は、「永遠の契約」において実現する。エレミヤ書は、その契約こそ新しい契約であると明らかにしている。

 このように、新しい契約は、旧約聖書の時点から既にメシアと密接に関係している、重要な契約である。私たちクリスチャンは、ナザレのイエスこそがメシアであると信じている。そして、イエスは既に新しい契約を結ばれた(ルカ22:20)。それでは、イエスが結ばれた新しい契約とは、どのような契約なのか。今回からいよいよ、新しい契約のメインテキストともいえるエレミヤ書30–33章を見ていこう。今回は特に、エレミヤ書30、31章を取り上げたい。

エレミヤ書と新しい契約の希望

 エレミヤ書31:31–34は、新しい契約というテーマを扱う際に最もよく引用される標準句(locus classicus)である。しかし、イザヤ書の預言をふまえて新しい契約を理解するためには、この箇所を少なくとも30–33章の文脈の中で考える必要がある*1

 エレミヤ書では1–29章にも希望の預言はあったが、大部分はユダの裁きの宣告に重きが置かれていた。しかし、30–33章では、裁きの後に何が起こるのかについて大いなる希望が与えられている。よって、このセクションは一般的に「慰めの書」と呼ばれている。ここでのメッセージは、おそらくエルサレムがバビロンの軍勢に包囲されていた頃に与えられたものであろう(エレ32:1–2)。当時、エレミヤはエルサレムがバビロンに滅ぼされると預言したことで、ユダの王ゼデキヤによって監禁されていた。ゼデキヤの不信仰の姿勢は、ユダの滅びが確実であることを予表している。30–33章の内容は、絶望的と思われる状況の中で与えられた、希望と慰めの預言なのである。

エレミヤ書30章:慰めの書のイントロダクション

 慰めの書の冒頭で、【主】はエレミヤに「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ」と命じられた(30:2)。そのことばは、イスラエルの「回復」の約束で始まっている。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」*2(30:3)これは、慰めの書が伝えているメッセージのイントロダクションにして、要約にもなっている。

 ここで強調されている「回復」の内容は、まず当時分裂していたイスラエル(北王国)とユダ(南王国)が再び一つとなることである。次に、「父祖」に約束された地にイスラエルが帰還し、その土地を所有することが述べられている。預言書全体でもそうであるが、エレミヤ書の文脈でも、イスラエルの再統一と土地の約束の成就はダビデの子/メシアによってもたらされる(23:5–8)。よって、慰めの書の冒頭、ひいては30–33章で伝えられる希望全体が、王なるメシアの到来によって成就することが期待されるのである。

 預言の本論は、イスラエルの民全体に比類なき恐怖の時が臨むという宣告から始まっている(30:5–6)。「災いだ、その日は大いなる日 このような日はほかにはない。ヤコブの苦しみの時だ しかし、ヤコブはそこから救い出される。」(30:7、新共同訳)ここで「ヤコブの苦しみの時」と表現されている「大いなる日」のイメージは、「【主】の大いなる恐るべき日」(マラ4:5)である【主】の日と重なっている。しかし、ヤコブ(すなわちイスラエル)は「そこから救われる」。これもまた、裁きと救いの日である【主】の日に関する預言群の内容と調和している。

 バビロンによる王国の崩壊が目前に迫っていたという文脈で民の苦難と帰還が語られていることから、「ヤコブの苦しみの時」はバビロンによってもたらされる滅びの時を、帰還の約束はバビロン捕囚からの帰還を指していると読むこともできる。その場合、【主】の日を扱った際に確認した預言的視点からすると、バビロンによる滅びとそこからの回復と同様なことが、将来、究極的裁きと回復がもたらされる際にも起こるであろうと見なすことができる*3

 しかし、慰めの書における希望のメッセージは、バビロンによる崩壊と捕囚というよりも、より終末的な視点を持っているように思われる*4。たとえば、30:10では帰還したイスラエルが「平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない」と言われている。このような状況は、バビロン捕囚からの帰還によって成就したとは言い難い。また、30:9では、帰還した民が「彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える」と言われている。これは、ダビデの子であるメシアが民の王となると教えているか、もしくは復活したダビデが再統一されたイスラエルの上に再び立てられることを教えている*5。こういった希望は、バビロン捕囚を超えた、より終末的な視座の中に据えられている*6

 以上のことから、慰めの書が伝えるイスラエルの裁きとその後の回復は、終末的【主】の日においてもたらされることがわかる。すなわち、31章で与えられる新しい契約の希望もまた、【主】の日という枠組みの中で完全に成就するのである。この考え方は、【主】の日にもたらされる回復が「永遠の契約」によって実現するというイザヤ書59:21のメッセージと調和している。

エレミヤ書31章:新しい契約の啓示

新しい契約について

 新しい契約がはっきりと啓示されている31章では、全体に渡ってイスラエルの回復が宣言されている。まず、【主】が「イスラエルのすべての部族の神」となり、彼らは【主】の民となる(31:1)。契約の神である【主】とイスラエルの関係性が回復されるのである。そして、イスラエルは建て直され(31:4a)、彼らは喜びで満たされる(31:4b–6)。神ご自身が彼らを「地の果て」から集め(31:8)、豊作と家畜の繁栄による祝福をもたらされる(31:12)。こうして、彼らの悲しみは取り除かれる(31:13)。彼らはもはや、先祖の咎によって苦しめられることはないのである(31:29–30)*7。しかし、彼らの神との関係性(霊的状態)、また国家/民族としての地位が回復させられるためには、まず彼らを苦しめてきた罪の問題が解決される必要がある。そこで神は、その問題に究極的な解決を与える「新しい契約」を民と結ぶことを宣言された。

見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(31:31–34)

 この契約は、来たる「その時代」に神とイスラエルとの間に結ばれる(31:31a)。分裂したイスラエルの民が再び一つになるという30章以降の文脈において、この契約もまた「イスラエルの家およびユダの家と」に結ばれると言われている(31:31b)。

 この契約は、モーセ契約との対比において「新しい」契約である(31:31c–32)。決して、モーセ契約に問題があったから新しい契約が結ばれるのではない。人が神の最初の禁止命令(創2:17)に違反した時、問題は神のことばである命令そのものではなく、それに違反した人の側にあった。それと同様に、問題はイスラエルが「契約を破った」ことにある(ホセ6:7; ヘブ8:9参照)*8。彼らは自分たちの罪のゆえに、アブラハムの信仰に倣ってモーセ契約に従うことに失敗した。その結果、彼らはモーセ自身が警告していた裁き──約束の地からの離散を経験することになる。しかし、そのような罪深い民をアブラハム、イサク、ヤコブへの約束に基づいて回復させるため、その愛と恵みのゆえに、神は新しい契約をお与えになるのである(エレ31:3–4参照)。

 モーセ契約自体は、神のことばによる聖なる契約である。しかし新しい契約は、モーセ契約の下では見られなかった力をイスラエルにもたらすことになる。モーセ契約においては言葉として与えられた律法が、新しい契約においては民の心に書き記される(31:33)。この力によって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という31:1で宣言されていた関係性の回復が実現する。イスラエルは「身分の低い者から高い者まで」、神を「知るようになる」(31:34b)。

 新しい契約によって、イスラエルはただ神に選ばれた民ではなく、まことの信仰──父祖アブラハムのような信仰を持つ民として、そして、まことの「祭司の王国」として回復させられる。それは、ただ彼らが神に従順になるからではない。最大の土台は、神が「彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」ということにある(31:34c)。神が民の罪を赦されることで、民には神に従う力が与えられるのである。

新しい契約とメシアの代償

 私たちは、新しい契約においてもたらされる赦しの土台が何であるかを既に見た。イザヤは、「民の契約」となる【主】のしもべが民の咎を背負い、「代償のささげ物」として自らのいのちを献げることを預言していた(イザ53:10)。そのしもべは、民の霊的・民族的回復をもたらすダビデの子なるメシアその人である。新しい契約は、メシアによる代償を土台として、イスラエルに罪の赦しと信仰の回復を与える。そして、今度はイスラエルの霊的な回復が、彼らの民族的また物質的回復の土台となる。民はモーセ契約を破ったが、それでも神は、彼らの回復を実現させる新しい枠組みとして、新しい契約が結ばれることを約束されたのである。

 イザヤ書のしもべの預言と新しい契約の繋がりからは、新しい契約と異邦人の救いの関係も見えてくる。しもべは、イスラエルに回復をもたらすだけではなく、全世界を統治する王として、異邦人の光ともなる存在である(イザ42:6; 49:6)。彼は「地の果てにまでわたしの救いをもたらす者」なのである。ゆえに、彼の贖いは異邦人にまで及ぶとされていた(イザ52:13)。このようなしもべの犠牲が新しい契約の祝福の土台であるならば、新しい契約は、異邦人にとっても罪の赦しをもたらす贖いの契約となることが期待される*9

 さらに、「民の契約」となるしもべ/メシア自身によって異邦人の救いがもたらされるのであれば、新しい契約は異邦人の救いと直接関係してくるものと考えられる。新しい契約のこうした性質は、イスラエルが祭司の王国として従うべき規定に重点が置かれていたモーセ契約とは、明確に異なっている。新しい契約は、諸国民の祝福の成就に関しても「新しい視点」を与えてくれる、新しい枠組みなのである*10

 また、これまで見てきた神の計画からすれば、回復したイスラエルを通した諸国民の祝福の実現に関しても、新しい契約がモーセ契約に代わる枠組みとなることが予想される。ダビデの子を王とする「祭司の王国」として回復させられたイスラエルによって、諸国民の祝福が成就する。新しい契約がイスラエルの回復をもたらす新しい枠組みであるならば、これは諸国民の祝福というアブラハム契約の目的を成就させるための新しい枠組みともいえるのである。この点は、後に扱う33章およびエゼキエル書(特に36:22–28)でさらに明確になる。

新しい契約とイスラエルの回復

 エレミヤ書31:31–34は、新しい契約がいかに神の愛に満ちた契約であるかを示していた。続く31:35–37は、この契約によるイスラエルの回復を保証している。神は、太陽、月、星などの自然界の秩序を存続させておられるお方である。もしこういった秩序が神の前から「去ることがあるなら」、「イスラエルの子孫は絶え」るだろう(31:36)。こうした言い回しは、神が自然界の秩序を保っておられるという事実に基づいて、イスラエルの民が永続することを強調しているものと考えられる。その中で、イスラエルは神の御前で「一つの民である」ということが特に強調されている。これは、新しい契約によってもたらされるイスラエルの再統一を保証しているのだろう。

 また、神は「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける」と言われた(31:37)。これもまた、31:36と同じ文学的手法によって、逆にイスラエルはその咎のゆえに退けられることはないと保証しているのである。すなわち、ここでは、神がイスラエルの罪を赦され、イスラエルは一つの民として神に立ち返るという新しい契約の約束が堅く保証されているのである。

 続く31:38–40を読む上では、31章がそもそもイスラエルの国家的/民族的回復を宣言していたことを思い出す必要がある。その回復をもたらす新しい契約と、回復の土台となる民の赦し、そして回復の保証が与えられた後、神のことばの視点はエルサレムへ向けられる。31:31で新しい契約と関連づけられていた「その時代」、「この都」が「【主】のために建て直される」(31:38)。31:38–40で出て来る地名は、いずれもエルサレムと関係するものである*11。ここでは、新しい契約が完全に成就する時、エルサレムは再建されることが示唆されている(30:18参照)。

 そもそも、神の「しもべ」であるメシアの到来と王国の確立をもたらすダビデ契約が結ばれたのは、神がエルサレムを王国の首都として確立されたという文脈においてであった。ダビデ契約によって約束されていたメシアは、新しい契約の仲介者であり、この契約の土台である贖いを成し遂げる人物である。そして、このメシアによってエルサレムが回復させられることも、既に預言されていた(イザ2:1–4; ヨエ3:1; ゼパ3:14–17)。旧約聖書全体の文脈からすれば、新しい契約においても、エルサレムの回復は重要な要素として含まれているのである。

*1:Heneburyは、バビロン捕囚からの帰還と終末的希望を預言している29章、また30–33章の内容を補強している34および35章を見ることも重要であるとしている。Henebury, “Jeremiah’s Great Eschatological Vision (PT.1),” July 31, 2019.

*2:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。

*3:Price, "Old Testament Tribulation Terms," 74.

*4:直前のエレ29:10–14ではバビロン捕囚から七十年後の帰還が預言されている。しかし、帰還と同時に伝えられている回復のメッセージは、さらに将来の終末的希望まで見据えたものとなっている。このような理解は、ダニエル書9章におけるダニエルの祈りと天使の回答にも見出される。

*5:Cf. Dyer, “Jeremiah,” 1168. 筆者としては、冒頭(30:3)の内容が23:5–8のメシア的希望を反映したものであることからすると、ここはダビデ本人よりもメシアを指す預言と捉えた方が自然であるように思われる。ただし、ダビデ本人と捉えることも文脈を崩すものではないと思われる。Cf. Michael L. Brown, “Jeremiah,” in The Expositor’s Bible Commentary, rev. ed., 7:372.

*6:Henebury, “Jeremiah’s Great Eschatological Vision (PT.1).” Cf. Brown, “Jeremiah,” 7:370–71.

*7:F. B. Huey Jr., Jeremiah, Lamentations, NAC (Nashville, TN: B&H, 1993), 279.

*8:Kaiser, Toward an Old Testament Theology, 232; Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensa-tionalism: The Interface Between Dispensational and Non-Dispensational Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1993), 119–20.

*9:Ibid., 123.

*10:Bruce A. Ware, “The New Covenant and the People(s) of God,” in Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, eds. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock (Grand Rapids: Zondervan, 1992), 82–83.

*11:Dyer, “Jeremiah,” 1172.