軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

クリスチャンのSNS活用─米連邦最高裁の同性婚容認判決に際して

※本記事は以下のnote記事からの転載です。また、元記事は私個人のFacebookアカウントにおける発言からの転載になっています。

クリスチャンのSNS活用──米連邦最高裁の同性婚容認判決に際して|balien|note

 米連邦最高裁同性婚容認判決(2015年6月26日)に端を発するSNS上での情報共有・議論の応酬について、クリスチャンのSNS利用という面に注目してだらだらと書き留めてみます。

 Twitter上でもそうでしたが、FB上でも盛んに情報のシェアと議論が展開されていましたね(ぼくの周囲ではもう落ち着きはじめているようですが)。
 こんなに短期間で、知り合いから見知らぬ方まで大勢の人の議論を大量に見て回れたのはほとんど初めてだったので、いやあ勉強になりました。テーマ自体に関する見識が広がったのも有意義でしたが、今の大きな関心は、前述の通りクリスチャンのSNS利用というところに向いています。

 インターネットが伝道ツールとして用いられるようになって久しいですが、クリスチャンのネット活用を考えていく上で、今回の話題を使うととてもいいケース・スタディができそうですね。このテーマが出てくる直前の、政治の話題よりも勢いはすごかったんじゃないでしょうか?(客観的なデータを持っていないので断定的なことは言えませんが…)
 特にぼくらのように小・中学生の頃からインターネットに触れ、ネットによる情報発信が当たり前になっている世代のクリスチャンにとっては、学ぶ必要性をすごく感じましたね。少なくとも、ぼくが受けてきたような中高・大学でのネットリテラシー教育だけでは、十分とは言えないようです。特に、SNS上での情報発信の方法や留意点、逆に情報収集ツールとしてのSNSの適性といった面について、それを大きく感じました。

 同性愛・同性愛行為・同性婚のような、神学的かつ個人の感情が大きく含まれるテーマについて、SNSのシェア機能が非常に大きな役割を果たし、また情報がいかに偏った形で共有され、議論がいかに感情的な方向へ流れていくのか、とても興味深く見ることができました。
 ぼく自身は「終末論」や「イスラエル論」(また、中東問題)という、これまた神学的かつ感情的になり易いテーマに注目して情報発信をしていきたいなぁと漠然と考えているので、これは有意義でした。

 情報収集ツールとして、また情報発信ツールとしてのSNSの適性と限界性については何が言えるのか。
 社会学的なところは不勉強なので誰かに助けてほしいところですが、今回の騒ぎからは、こういったところも着目して今後に適用していけそうです。

 (ということで、情報系の勉強している人がいたら、誰か詳しくまとめてくれないかなぁ…)