軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ディスペンセーション主義とは何か?:はじめに

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

ディスペンセーション主義とは何か?:はじめに|balien|note

 これから、このマガジン内では「ディスペンセーション主義とは何か」と題して、〈ディスペンセーション主義(Dispensationalism;経綸主義とも訳される)〉という神学的立場について、何回か続けて取り上げてみたいと思います。なぜなら、この立場は聖書的なイスラエル論(Israelology)を考える上で避けて通ることができないものだからです。その理由を「はじめに」として、以下で説明しています。

 何度かこのマガジン『イスラエル論(Israelology)とりまとめ』の中で記しているように、福音派の中でイスラエルという存在に対する関心は年々高まっているようです。イスラエルについて聖書から神学的に議論を始めると、度々登場するのが〈ディスペンセーション主義〉という神学的立場であります。この立場では19世紀に登場して以降、イスラエルが聖書を論じる上で鍵となる存在だと主張され続けてきました。そして、福音派における他の立場と比べると少々異なる終末論を保持し、この立場の多くの者は1948年以降のイスラエル国(State of Israel)建国を〈聖書預言の成就〉だと解釈し、さらに語勢を強めてきました*1
 この現代のイスラエル国家は、周辺の中東国家との軋轢やパレスチナ自治区との紛争により、建国から現在に至るまでキリスト教界内外から、良くも悪くも注目を浴び続けています。そこで、この国を聖書預言の成就、聖書的終末論の鍵となる存在と主張するディスペンセーション主義もまた、注目を集めているのです。

 近年の日本におけるディスペンセーション主義への関心の一例として、伝道団体ハーベスト・タイム・ミニストリーズによる活動が挙げられます。この団体は年に一度、メシアニック・ジュー(イエスをメシアと信じるユダヤ人)神学者であり、ディスペンセーション主義を採用しているアーノルド・G・フルクテンバウムを講師として招き、神学セミナーを開催しています。また、同団体は再臨待望運動である「再臨待望聖会」を毎年開催していますが、ここで招致されている講師の多くは、ディスペンセーション主義を採用する神学者たちです。そして、同団体の代表である中川健一牧師もまたディスペンセーション主義を採用しています。同団体のホームページにある「メッセージ・ステーション」では、この立場に沿った聖書講解メッセージが無料公開されています。これらの働きは、日本におけるディスペンセーション主義の知名度の向上に貢献しているといえるでしょう。

 次の例として、日本における代表的なキリスト教系出版社であるいのちのことば社の2015年7月中旬現在の動向を見てみましょう。3月、米国における著名な福音派新約聖書学者ジョージ・E・ラッドの著作『The Last Things』の邦訳、『終末論』が同社より出版されました。ラッドの働きの中には〈ディスペンセーション主義克服〉という側面があり、同書の中でも、ディスペンセーション主義への反論が随所にみられます。その一方で、ディスペンセーション主義の中で多く見られる終末論的立場〈患難期前携挙説〉*2に基づくパニックスリラー映画『リメイニング』が5月に公開され、いのちのことば社は同社プロデューサーの礒川道夫氏によるトークショーも開催するなど、宣伝に力を入れていました*3。また、6月末には同じく患難期前携挙説を土台としたパニック映画『レフト・ビハインド』が公開され、同社はこの映画についても大々的に宣伝していました*4。この映画の原作小説は2002年より同社より出版されており、共同著者のひとりティム・ラヘイはディスペンセーション主義に立つ著名な牧師・神学者です。映画のチラシや、同社が編集協力を行ったこの映画のパンフレットp. 2にもその事実が記されています。このように、2015年3月から6月末にかけて、日本の代表的キリスト教出版社の動向の中にディスペンセーション主義の影を何度も見ることができました。この神学的立場に対する関心は、これからも高まり続けていくことでしょう。

 しかし、ディスペンセーション主義は注目を集めやすい分、批判も受けやすい立場です。特にこの立場の歴史が浅いこと、(『レフト・ビハインド』シリーズで見られるように)終末論についてかなり厳密な時系列的整理が試みられていること、そしてこの立場の人々は概して親イスラエル的であるといった要素から、神学的・倫理的批判が多く見られます*5。しかしながら、そのような批判の中では、ディスペンセーション主義に対する誤解や無理解から生じているものが多いことも事実です。また、これは私個人が感じていることではありますが、感情的で時にはヒステリックな反対論が非常に多いように思われます。

 考古学的発見や聖書学者・神学者・牧師たちの絶え間ない努力によって、聖書というものが本来ユダヤ人が記したユダヤ的書物であるという認識は当たり前となりつつあります。したがって、今後福音派の文脈で聖書を語るときには、イスラエルユダヤ人といった存在について神学的に整理することが非常に重要となるでしょう。そのためには、福音派の中でイスラエルに対してどのような神学的理解があるのかを知らなければならなくなり、ディスペンセーション主義に関する議論は避けて通れないものとなるはずです。  私は聖書解釈上、ディスペンセーション主義の立場を採用しています。この立場の是非について議論が起こることは大歓迎です。それによって、福音的聖書理解がさらに進み、広まっていくことに期待しています。しかし、昨今のような誤解や無理解に基づく議論や、ヒステリックな反対論だけが横行している状況では、建設的な議論・対話を望むことはできません。そこで、聖書的イスラエル論に関する議論の土台として、この場を用いて「ディスペンセーション主義とは何か」ということを論じていきたいと思い至りました。

 私自身がディスペンセーション主義者でありますから、内容はディスペンセーション主義への擁護となる場合もあるかもしれません。しかし望んでいることは、それによってディスペンセーション主義者の思考や、私たちが用いている聖書的根拠・文献的根拠がどのようなものであるかを知っていただきたい、ということです。この立場を神学的に正確に知っていただくこと、それがこれから展開していく「ディスペンセーション主義とは何か」シリーズのねらいであります。

*1:ただし、現代のイスラエル国家建設を聖書預言の成就だと解釈することは必ずしもディスペンセーション主義に特有の考え方ではない。一例として、英国国教会の牧師であるトニー・ヒグトンはディスペンセーション主義を採用していないが、聖書の記述に基づいて「イスラエル国家再建は、預言成就のほんの始まりでしかない」と考えていることを明らかにしている(ヒグトン「クリスチャンシオニズム批判──スティーブン・サイザー著『Christian Zionism: Road-mup to Armageddon?』への応答と提言」佐野剛史訳,中川健一監修『LCJE Japan ジャーナル』Vol. 1[ローザンヌユダヤ人伝道協議会日本支部、2009年]1–21頁)。

*2:キリストの再臨の前に訪れる裁きと苦難の時代〈大患難時代〉の前に、キリストを信ずる者は天に挙げられる(〈携挙〉される)と考える立場のこと。(以下2015年8月30日加筆)ディスペンセーション主義終末論のひとつの特徴であるが、他の神学的立場の終末論にも見られるものである。  患難期前携挙説についてはハロルド・リンゼル=チャールズ・ウッドブリッジ:新版 聖書教理ハンドブック,山口昇訳,いのちのことば社,1992,pp. 173-174 および Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 2002), pp. 139-162 を参照のこと。
 また、この説がディスペンセーション主義を含む複数の神学的立場に見られるものであることはFruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systemtaic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992), p. 244 を参照のこと。

*3:クリスチャン・トゥデイ「現代で「携挙」が起こったら 世界の混乱描く、聖書に基づいたパニックスリラー映画『リメイニング』 16日から公開(動画あり)」(2015年5月13日掲載、2015年8月6日閲覧)

*4:チラシ「映画『レフト・ビハインド』の紹介」には、清瀬福音自由教会の岩井基雄牧師と共に、礒川氏による推薦文が掲載された。

*5:Stephen R. Sizer, "Christian Zionism: Justifying Apartheid in the Name of God,” Churchman, 115:2 (2000) pp. 147-171. および 安黒務「『福音主義イスラエル論』─神学的・社会学視点からの一考察─」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会、2014年)99–119頁を参照せよ。