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ディスペンセーション主義とは何か?(1)非ディスペンセーション主義者による定義

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

ディスペンセーション主義とは何か?(1) 非ディスペンセーション主義者による定義|balien|note

 これより何回かかけて、「ディスペンセーション主義とは何か」ということを取り上げていきます。ディスペンセーション主義者の視点からこの立場の定義を紹介しようと試みるわけですが、まずはじめに、ディスペンセーション主義を採用していない神学者による定義を観察してみたいと思います。

 トピックは以下の通りです。

1.ゴンサレスによる定義

 歴史神学者フスト・ゴンサレスは、ディスペンセーション主義(経綸主義)について以下のように定義しています。

 最初に英国でジョン・ネルソン・ダービー(1800-82年)が展開し,その後,1909年に初版が発行されたスコウフィールドの「引照聖書」の注記や解釈によって米国などでも広く一般化した聖書解釈法.いくつかの異なった経綸主義的な歴史構想があるが,そのどれもが,歴史は一連の経綸──その中で神が人類に何かを啓示するが,人間はその実現に失敗し,その結果,新たな経綸と新たな啓示へと進んで行くという一連の経綸──から成っているという点で一致している.また,(とりわけ,ダニエル書や黙示録のように)聖書の大部分は未来の出来事の預言的告知なので,預言を正しく読みとることによって,どのような段階にわれわれがあって,どのような出来事がこれから起こるのかを知ることができる,という点でも一致している.(ゴンサレス 2010:85)

 ゴンサレスの定義によれば、ディスペンセーション主義とは何よりも「聖書解釈法」です。また、この立場の名となっている〈ディスペンセーション(経綸;economies もしくは dispensations)〉そのものは、歴史において神の啓示が進む段階であると理解しています。彼の説明からは、〈ディスペンセーション主義は、歴史において一連の神の啓示の段階が進んできた、という歴史構想に立った聖書解釈法である〉ということができます。
 彼はディスペンセーション主義者が聖書の「未来の出来事の預言的告知」としての側面に大きな関心を寄せているとしています。ただし、全てのディスペンセーション主義者が「聖書の大部分」を「未来の出来事の預言的告知」として考えているかどうかは、疑問を挟む余地があるでしょう。

2.エリクソンによる定義

 組織神学書『キリスト教神学(Christian Theology)』を記しているバプテスト派神学者ミラード・J・エリクソンもまた、「ディスペンセーション主義として知られるようになったこの運動は、統合された解釈体系である」と述べており(エリクソン 2006:364)、この立場を聖書の「解釈体系」だと定義しています。
 また、彼はディスペンセーションそのものについて、「神がご自身の目的を啓示する際の連続的な段階である」としています(同:365)。しかし、「それぞれが異なった救いの手段を伴うわけではない。救いの手段はいつの時代も同じ、すなわち、信仰を通して恵みによって、であるからである」。このディスペンセーション──すなわち神の啓示の段階の数については、エリクソンは「意見は一致していない」としています。事実、ディスペンセーション主義者の間でも、歴史におけるディスペンセーションの数について意見の不一致が見られます。ディスペンセーション主義の提唱者である英国プリマス・ブレザレンの伝道師ジョン・N・ダービーや、米国においてディスペンセーション主義を一般化させたサイラス・I・スコフィールドは7つのディスペンセーションを主張しました。特にスコフィールドが提唱したディスペンセーションの7区分は、多くのディスペンセーション主義者によって現在でもほとんど変更されずに使用され続けています。しかし、たとえば米国のディスペンセーション主義者ジェームズ・M・グレイは8つのディスペンセーションを主張しました(Ryrie 1995: 81)。ただ、エリクソンがいうように「最も一般的な数は七つ」であり、その内容は以下の通りです。

……人類はまず無垢のディスペンセーションにいた。次に良心のディスペンセーション(堕落から洪水まで)、人間の統治のディスペンセーション(洪水からアブラハムの召命まで)、約束のディスペンセーション、律法のディスペンセーション、そして恵みのディスペンセーションが来た。七番目はまだ来ていない。(エリクソン 2006:365-366)

上記の「最も一般的な」7つのディスペンセーションは、スコフィールドが提唱した区分に基づいています。

3.まとめ

 立場を異にする神学者によるディスペンセーション主義の定義について、ゴンサレスとエリクソンという二人の神学者の定義を例として引用し、観察してみました。二人に共通していた理解は、〈ディスペンセーション主義とは聖書解釈体系(方法)である〉ということです。そして、両者ともこの立場の特徴として〈「神がご自身の目的を啓示する際の連続的な段階」である複数のディスペンセーションに基づく歴史観を有している〉ということを指摘していました。
 ただし、最後に言及しておくと、上記の特徴だけからある者を〈ディスペンセーション主義者〉として定義することはできません。ゴンサレスが「経綸」に関する定義で指摘しているように(ゴンサレス 2010:85)、啓示が進展する段階としての経綸という概念自体は、2世紀の教会教父エイレナイオスが既に主張していることであります。米国の新約聖書学者であるジョージ・E・ラッドもまた、ディスペンセーションもしくは時代区分という考え方だけで人がディスペンセーション主義者かどうかを判断することについて、以下のように批判しています。

この捉え方で判断すると、すべての聖書研究者はディスペンセーション主義者になってしまう。アブラハム以降の約束の時代、モーセの下での律法の時代、キリストの下での恵みの時代、そして未来における神の国の時代があることは確かだからである。(ラッド 2015:8)

4.次回の展開

 ゴンサレス、エリクソン共に、ディスペンセーション主義という解釈体系から得られる特有の聖書解釈については論じていますが、そもそもこの立場がどのような〈原則〉を持つ聖書解釈体系であるかは仔細に紹介してはいません。次のノート以降では、〈ディスペンセーション主義とは聖書解釈体系である〉という定義を念頭に、ディスペンセーション主義内部での主張を観察していきます。特に次回は、〈ディスペンセーション主義の必須条件〉に言及します。

引用文献