軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係についての一考察(前編)

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係についての一考察(前編)|balien|note

トピック

1.はじめに

 マラキ書4章5—6節における預言者エリヤの再来の預言は、キリスト教福音主義の終末論において論争を引き起こす事項のひとつである。ある人々はその預言はバプテスマのヨハネにおいて成就したものと主張し、またある人々はその預言は将来成就するものであると主張する。
 旧約聖書神学において預言者エリヤは非常に重要な人物であると考えられている*1バプテスマのヨハネもまた新約聖書神学およびキリスト教そのものを考える上で重要な人物のひとりである*2。したがって、旧新約聖書神学における重要な二人の人物の関係およびエリヤの再来の預言について聖書の釈義者がいずれの見解を採用するのかという問題は、彼の釈義の結果がもたらす聖書神学および組織神学の問題として取り上げられる。
 ここではエリヤの再来およびエリヤとバプテスマのヨハネの関係についての聖書解釈学的問題の本質を明らかにするため、旧新約聖書から関連する聖書箇所を観察し、次にエリヤとヨハネの関係についての二つの見解を取り上げ、それらの聖書解釈学的考察を試みる。
 なお、本文における聖書引用および文献引用中の[]は引用者による付記を示す。また、聖書の引用は基本的に新改訳第三版からのものであり、「主」が太字で示されている部分(原文において主の御名YHWHが用いられている箇所)は引用内では【主】と表記している。

2.再来のエリヤおよびバプテスマのヨハネに関する聖書箇所の観察

2—1.旧約聖書におけるエリヤの再来および神の使者に関する預言

 マラキ書4章5—6節には「【主】の大いなる恐ろしい日が来る前」のエリヤの再来が預言されている。この「【主】の大いなる恐ろしい日」は新共同訳では「大いなる恐るべき主の日」と訳されている。すなわち、旧約聖書の他の箇所においてイスラエルや諸国民の不信仰に対する裁きの日として啓示されている「【主】の日」(the Day of YWHW)と同一の時を指している(イザ2:12;エレ46:10;ヨエ1:15;アモ5:18-20参照)。この「【主】の日」を旧約聖書の終末論における不信仰への裁きの時、あるいは【主】の支配の到来の時と解釈するならば*3、エリヤは終末時代の裁きや【主】の到来が来る前に「あなたがた」(文脈から言ってイスラエルの民)に遣わされることとなる。エリヤが遣わされるのは「わたし[神]が来て、のろいでこの地を討ち滅ぼさないため」であり、そのために彼は「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」という働きをなす。
 その前の章には、無名の「わたし[神]の使者」が登場する(マラ3:1)。彼は「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る」前に「わたし[神]の前に道を整える」。その働きの内容から、この「使者」はイザヤ書40章3—5節の「荒野に呼ばわる者」と同一人物であると考えられる。

2—2.新約聖書におけるエリヤの再来および神の使者に関する言及

 次に、マラキ書3章1節、4章5—6節、またイザヤ書40章3—5節の預言との関連性が見られる新約聖書の箇所を観察する。まず、ルカの福音書1章13—17節には、天使ガブリエルがバプテスマのヨハネの父ザカリヤに与えた告知が記録されている。17節は、バプテスマのヨハネは「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ」る働きをなすという告知である。この告知にはマラキ書4章6節の表現が引用されている。マタイとマルコは、バプテスマのヨハネの活動の開始についてそれがイザヤ書40章3節の成就であったと主張している(マタ3:3;マコ1:2-4)。なお、マルコの福音書1章のテキストでは「預言者イザヤの書にこう書いてある」という書き出しで旧約預言が引用されているが、1章2節は実際にはマラキ書3章1節からの引用である。
 天使がザカリヤに対してその子が「エリヤの霊と力で」神の働きをなすことを告知していたにも関わらず、バプテスマのヨハネ自身は自らを再来のエリヤとして認識していなかった(ヨハ1:21)。彼はあくまで自らを「預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声」すなわちイザヤ書40章3節の成就としてのみ認識していたようである。一方で、イエスはヨハネを指して「あなたがた[聴衆であったユダヤ人たち]が進んで受け入れるなら、実はこの人[ヨハネ]こそ、きたるべきエリヤなのです」と主張した(マタ11:14)。
 続いて別の箇所から、イエスのバプテスマのヨハネおよび再来のエリヤについての言及を観察する。マタイの福音書17章10—13節およびマルコの福音書9章11—13節には、エリヤの再来に関する弟子たちの質問とイエスの回答が記録されている。イエスの変貌(マタ17:1-8)の後、弟子たちはイエスに「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか」と尋ねた(マタ17:10)。この質問はイエスの「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻[イエスの変貌およびモーセとエリヤの出現]をだれにも話してはならない」という命令(同9節)を受けた後でなされたものである。彼らはイエスの変貌と同時にエリヤを見たこと、またイエスが死者の復活に言及したことから終末論を連想したであろう*4。そこから、彼らは旧約聖書の終末論における重要な要素であるマラキ書4章5—6節のエリヤの再来に辿り着いた。彼らの終末論にとっては、エリヤが再来してメシアのために民を整えるはずであった。しかし、エリヤがそのような働きをなすならば、イエスが変貌山での出来事の前に語られた(マタ16:21)ようにメシアが「ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され」る必要はないのではないか。おそらく、弟子たちの間ではこのような論理展開があって、「まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょう」という質問が導き出されたのであろう。
 イエスは弟子たちの質問に対する返答の中で「エリヤが来て、すべてのことを立て直す」ことを認めた(同11節)。しかし、その後で彼は「エリヤはもうすでに来た」のであって、「彼ら[律法学者たち、あるいはユダヤ人たち]はエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをした」と主張した(同12節)。エリヤ自身はアハブ王と王妃イゼベルによって大いに苦しめられた(1列18—19章)。一方、バプテスマのヨハネは国主ヘロデ・アンテパスとその妻ヘロデヤによって処刑された。ここで、エリヤとバプテスマのヨハネが受けた苦しみの経験には確かに相似関係が見られる。イエスの弟子たちは師の返答を聞き、「イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた」(同13節)。

3.エリヤの再来はバプテスマのヨハネの登場によって成就したという主張

 再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係についての解釈の中で、今日の福音主義神学において最も一般的に主張されるものは、エリヤ再来の預言であるマラキ書4章5—6節はバプテスマのヨハネの登場によって成就したとする解釈であろう。この解釈について以下に2つの例を示す。

3—1.『チェーン式引照付聖書』における主張*5

 第一の例は『チェーン式引照付聖書』(いのちのことば社、改訂新版、2005年)の注釈において主張される解釈である。その中では、マラキ書3章1節、4章5—6節ともにバプテスマのヨハネに関する預言であるとされている。マラキ書4章5節の注釈では「【主】の大いなる恐ろしい日」は「終末の日。具体的にはキリストの再臨の時のさばきの日であるが、それはキリストの初臨の時から始まる」と理解されている。その結果、「預言者エリヤ」は「バプテスマのヨハネのこと」として解釈される。
 ヨハネ福音書1章21節の注釈の中では、「ヨハネは、自分が再来のエリヤ……であることを否認した」ことは認められつつも、「イエスは、純粋に霊的な意味で、ヨハネをエリヤの再来と見ておられた(マタ一七12)」と主張されている。また、マタイの福音書11章14節の注釈において、イエスの「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」という主張は、以下のように解釈されている。

ユダヤ人たちがイエスを主キリストと受け入れるなら、主の日の前にエリヤが来ることを告げる旧約の預言がヨハネにおいて成就したことをも知るであろう。

すなわち、エリヤの再来はバプテスマのヨハネにおいて(霊的に)成就したことが明言されている。このことは以下に示すマタイの福音書17章11—13節の注釈からも見てとれる。

ここでイエスが言われたことは、次の三点である。(一)エリヤが世直しのために来る(マラ四5)。(二)エリヤは人知れずバプテスマのヨハネにおいて到来し、殺された。(三)人の子も同じような運命に直面している。弟子たちはようやく(一)と(二)だけ理解した。

 以上のことから、『チェーン式引照付聖書』の注釈において、エリヤの再来はバプテスマのヨハネにおいて「霊的」に、また「人知れず」成就したものと理解されている。

3—2.A. T. Robertsonの主張*6

 A. T. Robertson(1863—1934、米国の新約聖書ギリシャ語学者)もまた、エリヤの再来はバプテスマのヨハネにおいて成就したという解釈を採用している。Robertsonによる新約聖書の注解書『Word Pictures of the New Testament』(New York: Harper and Brothers, 1930―1933)におけるルカの福音書1章17節の注釈には、「バプテスマのヨハネ自身は自分がエリヤであることを否認するが、イエスは彼が霊においてエリヤであるとする」という記述がある。また、ヨハネ福音書1章21節の注釈によれば、バプテスマのヨハネが自身をエリヤであると認めなかったのは「エリヤが本人として再来する」という人々の期待のためであり、ヨハネは自分がエリヤ本人ではないと答えたのだと考えられている。
 マタイの福音書11章14節の注釈では「イエスはここでヨハネをマラキの約束の成就として承認している」と解釈されており、同様な主張は同17章12節の注釈においても見られる。同17章11節の並行箇所であるマルコの福音書9章12節の注釈からは、Robertsonがバプテスマのヨハネを「約束されたエリヤであり、メシアの先駆者」として解釈していることがわかる。すなわち、Robertsonの聖書解釈においてマラキ書3章1節および4章5—6節は同一内容を示す預言として考えられている。

*1:W・ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典 響き合う信仰』小友聡・左近豊監訳(日本キリスト教団出版局、2015年)74-77頁

*2:マルコの福音書バプテスマのヨハネの登場を「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」に位置付けている(マコ1:1-4)。この一点からも、福音書の聖書神学とキリスト論およびそれに基づく新約聖書神学を考える上でのヨハネの重要性が伺える。なお、ヨハネはヨセフスの『ユダヤ古代誌』においても言及されており、ローマ帝国時代のユダヤ人にとって重要な宗教的人物であったものと考えられる。事実、ヨハネの影響は紀元1世紀のうちにアレキサンドリアやエフェソスといったギリシャ・ローマ世界のユダヤ人たちにまで及んでいた(使18:24-25; 19:1-3)。また、マンダ教(おそらくグノーシス主義から派生したものと思われるイラク南部の宗教)においてはヨハネが「彼らの最初の祭司であったとされている」(大貫隆グノーシスの神話』[講談社学術文庫、2014年]204–05頁)。

*3:旧約聖書の終末論における「【主】の日」の概念について、以下の文献で詳細に解説されている。ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』239-242頁; Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 2002), pp. 181-185; Craig A. Blaising and Darrel L. Bock, Progressive Dispensationalism (Grand Rapids, MI: Baker Books, 1993) pp. 226-228.

*4:紀元1世紀のユダヤ人たちの間における「死者の復活」の理解に関して多くの議論がなされているが、彼らはそのキーワードから、ベタニヤのマルタのように「終わりの日のよみがえり」を連想したことだろう(ヨハ11:23-24参照)。イエスの弟子たちは変貌山での出来事を見て終末論的文脈の中で思考を巡らしていたようである。そのような思考の中でイエスの死者の復活に関する言及に触れたとき、彼らもまたダニエル書12章1―2節に記されているような「終わりの日のよみがえり」を連想した可能性は大いにある。

*5:いのちのことば社『聖書 注釈・索引・チェーン式引照付』(改訂新版、2005年)

*6:A. T. Robertson, Robertson’s Word Pictures of the New Testament, BIbleStudyTools.com, http://www.biblestudytools.com/commentaries/robertsons-word-pictures/, accessed Sep 30, 2015.