※本記事は以下のnote記事からの転載です。
再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係についての一考察(後編)|balien|note
トピック
なお、聖書本文および文献引用における凡例は前編の1.を参照のこと。
4.バプテスマのヨハネの登場とは別に将来エリヤが再来するという主張
再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係について、3.で示した解釈とは対照的に、エリヤの再来はバプテスマのヨハネにおいて成就せず、将来エリヤ本人が再来するのであるとする解釈も存在する。ここでははじめに紀元4世紀以降の教会教父たちによる考えを示し、次に19世紀以降の神学者による見解を例示する。
4—1.教会教父たちの主張*1
コンスタンティノープル大主教であった教会教父ヨハネス・クリュソストモス(349—407)はユダヤ人の救いとエリヤの再来とを関連付けていた*2。彼によればエリヤの再来は「ユダヤ人の[イエス・キリストへの]転換」を示すものである。
ラテン教父の一人であるヒッポの司教アウグスティヌス(354—430)もまた、将来のユダヤ人の救いとエリヤの再来を関連するものとして理解していた。アウグスティヌスは再来のエリヤがユダヤ人に旧約聖書を説明し、それによってユダヤ人がキリストを信じるようになるものと考えていた*3。
このようなエリヤの再来と関連したユダヤ民族の救いの希望は、キュロス主教であったテオドレトス(393—457)の著作においても見られる*4。以上のことから、将来マラキ書4章5—6節の字義通りの成就としてユダヤ人のためにエリヤが再来するという考えは、ニカイア公会議以降の教会教父たちの間で一般的であったと推察される。すなわち、5世紀頃までのキリスト教界において、バプテスマのヨハネとは別にエリヤ自身の再来が終末論の中に組み込まれていたようである。
4—2.John Darbyの主張*5
次に、19世紀の牧師であるJohn Darby(1800—1882、英国プリマス・ブレザレン派の創設者;ディスペンセーション主義の提唱者)の解釈を観察する。彼の記した注解書Synopsis of the Books of the Bible (London: G. Morrish, 1857-1862)におけるマラキ書4章の解説では、バプテスマのヨハネは「エリヤの霊と力」によってマラキ書4章5—6節に預言された働きをなそうとしたが、イスラエルの不信仰の故に完成させることはできなかったのだと主張されている。Darbyの解釈によれば、マラキ書4章5—6節の成就はヨハネによって始まったが、その最終的な完成はキリストの再臨の前にユダヤ人を神に立ち返らせるために起こるものである*6。すなわち、Darbyはバプテスマのヨハネをマラキ書4章5—6節の成就の始まりとして理解していたが、その最終的な完成のために終末時代のエリヤの再来があるものと考えていた。
4—3.Arnold G. Fruchtenbaumの主張*7
近年の例としてFruchtenbaum(1943―、米国のメシアニック・ジュー神学者)は終末論について扱った著書The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 2002)において"The Return of Elijah"(エリヤの帰還)という項を設け、終末時代にマラキ書4章5—6節が字義通りに成就し、エリヤが再来するのだという解釈を説明している。
第一に、エリヤの再来は大患難時代前に起こる出来事である。マラキ書4章5—6節によれば、エリヤの再来は「【主】の日」の前に起こる。Fruchtenbaumは「【主】の日」を一貫してメシアの再臨に先立つ7年間の大患難時代を指す用語として考えている*8。したがって、エリヤの再来は大患難時代の前に起こるものであり、その働きはメシアの再臨に備えてイスラエル民族に一致をもたらすものである。
第二に、バプテスマのヨハネはイザヤ書40章3—5節およびマラキ書3章1節の成就であることが福音書における記述から明確に理解できることと同様に、彼がマラキ書4章5—6節の成就ではないということもまた明瞭である。まず、バプテスマのヨハネ自身は自らをイザヤの預言の成就であると宣言し、再来のエリヤではないとも主張していた(ヨハ1:21)。次に、マタイの福音書17章11節におけるイエスの「エリヤが来て、すべてのことを立て直す」という言葉は未来時制であり、マラキ書4章5—6節が将来の事項(特にメシアの再臨)に関連した預言であることへの言及として理解される。
第三に、マタイの福音書11章11—14節においてイエスはバプテスマのヨハネはある意味でエリヤであると主張した。Fruchtenbaumによれば、それが語られた文脈において、イエスはまず同11—12節で天の御国(旧約聖書で待望されていたメシア的王国)を告げ知らせたことを語っている。この天の御国の福音が伝えられたイスラエルがそれを「進んで受け入れ」ていたら、バプテスマのヨハネがエリヤの役割を果たしたのである(マタ11:14)。しかし、実際にはこの天の御国の福音は拒絶され*9、ヨハネはエリヤの働きを成し遂げなかった。したがって、「エリヤは[イスラエルの民の]回復の働きを達成するため、将来に来る」。
なお、ルカの福音書1章17節におけるガブリエルの「[ヨハネが]エリヤの霊と力で主の前ぶれを」するという告知に関しては、Fruchtenbaumは「ヨハネは『エリヤの霊と力』の内に来た。これは、彼らが同じ聖霊の臨在と力を持っていたことを意味する」と解釈している*10。
以上のことからFruchtenbaumの考えを要約すると、次のように言うことができる。バプテスマのヨハネはエリヤの再来の成就ではなく、将来大患難時代の前のどこかの段階でエリヤが帰還し、イスラエル民族の一致に向けた働きをすることになる。
5.エリヤとヨハネの関係を理解する上での解釈学的問題
3.および4.において、わずかではあるが、再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係についての聖書解釈上の見解を例示した。3.で示した再来のエリヤとバプテスマのヨハネを同一視する見解には問題点が存在している。第一に、マラキ書3章1節と4章5—6節は確かに語られた文脈が異なっており、同一内容の異なる側面からの預言であると解釈することには困難が生じるように思える。マラキ書4章5—6節は、その前後の文脈の中ではイスラエル民族の回復に関連した終末預言である。その預言をバプテスマのヨハネの登場というイエスの公生涯の前の出来事に当てはめて考えるためには、強力な根拠が必要である。
第二に、マタイの福音書11章11—14節におけるイエスの発言は、Fruchtenbaumが主張するように、「天の御国の福音」がユダヤ人に拒否されたが故にバプテスマのヨハネは再来のエリヤではなり得なくなったことの根拠として解釈することが可能である。したがって、この聖書箇所をマラキ書4章5—6節がヨハネにおいて成就したことを支持する強力な根拠として据えることは難しい。
第三に、マタイの福音書17章11節におけるギリシャ語を観察すると、「[エリヤが]来て」は現在時制であり、「立て直す」は確かに未来時制である。この時点でバプテスマのヨハネは既に処刑されており、マタイの福音書17章11節全体の時制は未来を指しているものと考えられる。このことを前提としてバプテスマのヨハネと再来のエリヤに関するイエスの発言を総合的に捉えると、彼は「将来ヨハネとは別にエリヤが再来する」と考えていた可能性がある。
一方で、将来字義通りにエリヤが再来するという見解にも問題点が存在する。第一に、ルカの福音書1章17節の天使ガブリエルの告知において、バプテスマのヨハネの働きを指してマラキ書4章6節が引用されている。さらに彼の働きについては「こうして、整えられた民を主のために用意する」と結論づけられており、ヨハネにおいてマラキ書4章5—6節の預言が成就するという告知として解釈することは可能であるように思われる。
第二に、イエスはマタイの福音書17章12節で明確に「エリヤはもうすでに来た」と語っており、しかも「彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをした」と、バプテスマのヨハネとエリヤを同一視しているように解釈することができる。
これらの課題をふまえていずれかの見解を採用するためには、釈義者自身が聖書解釈上の原則あるいは枠組みを確立する必要があるものと考えられる。ここで、教会教父たちやDarby、Fruchtenbaumらの主張から分かるように、エリヤの再来は終末論的イスラエル理解とも関連する事項である。したがって、この問題を論じるに当たっては、解釈学的立場もまたイスラエル論の観点から区別して考えることを提案する。
イスラエル論の観点から、福音主義神学における解釈学的立場は暫定的に置換神学(replacement theologyもしくはsupersessionism)的立場と非置換神学(nonsupersessionism)的立場に大別することができるだろう。前者の置換神学的立場では一般的に、旧約聖書のイスラエルは新しい契約をもって教会に「置き換わった」ものと理解される。今日主流であるのは「経綸的置換神学」(economic supersessionism)と呼ばれる形のものである。その立場では「神の計画におけるイスラエル民族の役割はイエス・キリストの到来と教会の設立によって成就し、その役割は教会へと引き継がれた」ものと考えられており、イスラエル論は経綸的に理解される。イスラエルの「神の選民としての役割の回復」は前述の理由によって否定されるが、ローマ人への手紙11章26節で主張されるような終末における彼らの「イエス・キリストを信じることによる救い」については「イスラエルが教会に加わる」という形で肯定される*11。この形の置換神学に立つある神学者たちは、自らの立場をfulfillment theologyと呼ぶこともある*12。
一方、非置換神学的立場ではイスラエルと教会は同一視されず、「神の計画におけるイスラエル民族の役割は現在もなお退けられておらず、将来(メシアの再臨の時)において回復される」と主張される*13。ここでは、イスラエルの(イエス・キリストを信じることによる)民族的救いについても当然肯定される*14。
ここでは置換神学的立場と非置換神学的立場の違いを詳細に取り上げ、神学的主張の検証することは目的としていない。ただし、「再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係」と解釈学的枠組みとの関連について考える上で、Vlachが置換神学的立場で採用される解釈学的枠組みを以下のように3要素で整理している*15ことには言及しておく必要がある。
- 聖書解釈において新約聖書は旧約聖書に優先される。[旧約聖書は新約聖書によって再解釈される。]
- イスラエルに関する旧約聖書の預言は非字義的に[教会において]成就する。
- 民族的イスラエルは新約聖書における教会の型(a type)である。
また、Vlachは非置換神学的立場における解釈学的枠組みを以下の4要素で整理している*16。ここでは「新約聖書による旧約聖書の再解釈」や「預言の非字義的成就」といった置換神学的立場の解釈原則とは対照的に、聖書の字義的解釈や歴史的文法的解釈を徹底させた解釈原則の確立が試みられている。
- 旧約聖書を含めいかなる聖書解釈を解釈する上でも対象聖句自体を出発点とする。[旧約聖書は新約聖書によって再解釈されることはない。]
- 漸進的啓示は新たな情報を明らかにするが、イスラエルに与えられた無条件の約束[そこには、民族の回復と救いも含まれる]を無効にするものではない。
- 民族的イスラエルは教会によって成就した型としては理解されない。
- 旧約聖書に啓示された約束はイスラエルと教会両者に二重成就され得る*17。あるいは、両者に対して適用することができる。
以上の置換神学的立場および非置換神学的立場という二つの解釈学的枠組みの簡単な観察および比較から分かることは、再来のエリヤとバプテスマのヨハネとを同一視する見解はマラキ書4章5—6節の本来の文脈から外れている可能性があるため、聖書の本来の文脈を重要視する非置換神学的立場と比べ、非字義的解釈を許容する置換神学的立場との親和性の方がより高いということである。一方で、将来字義通りにエリヤが再来するという見解は、マラキ書4章5—6節や、福音書全体の文脈をふまえた解釈の結果であるため、非置換神学的立場との親和性がより高いものである。
ただし、アウグスティヌスのような教会教父たちは置換神学的立場を取っていた*18が、再来のエリヤとバプテスマのヨハネを同一視していなかった。こういった点から、エリヤとヨハネに関する二つの見解を置換神学・非置換神学によって大別した解釈学的枠組みのどちらかに明確に区分することは困難であるものと言える。しかし、既に示した通り、二つの解釈学的枠組みにおける二つの見解の相対的な親和性を判断することは可能である。
6.まとめ
再来のエリヤとバプテスマのヨハネの関係についての聖書からの観察、また聖書解釈上の二つの見解の観察および神学的考察を試みた結果、エリヤとヨハネの関係を理解する上での問題は、釈義者が採用する解釈学的枠組みとも関連した問題であることを示した。
3.および4.で示した二つの見解はいずれも解釈上の問題を含んでいるが、釈義者は自らの聖書解釈上の原則もしくは枠組みを明確にすることで、彼の解釈学的立場とより親和性の高い見解を採用することが可能となる。そのための材料として、ここではエリヤの再来が終末論的イスラエル理解と関連した事項であることから、解釈学的枠組みをイスラエル論の観点より置換神学的立場と非置換神学的立場とに大別し、それぞれの枠組みとエリヤ―ヨハネ関係についての各見解との親和性を検証した。その結果、エリヤの再来はバプテスマのヨハネの登場によって成就したという見解は置換神学的立場と、エリヤの再来は将来成就するという見解は非置換神学的立場とより親和するものであることを示した。
なお、ここでは二つの見解および二つの解釈学的枠組みについて規範的判断を下すことを目的としていない。ただし、筆者の個人的判断において解釈学的枠組みとして聖書の性質に相応しいのは非置換神学的立場である。したがって、筆者は非置換神学的立場における解釈原則とより合致する「バプテスマのヨハネはマラキ書4章5—6節の成就ではなく、将来エリヤが字義的に再来する」という見解を支持している。
*1:Phillip Schaff ed., Nicene and Post-Nicene Fathers, Series 1, Christian Classics Ethereal Library, http://www.ccel.org/node/70, accessed Sep 30, 2015; Michael J. Vlach, Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing, 2010), pp. 44-48.
*2:John Chrysostom, The Gospel of Matthew, Homily LVII, Nicene and Post-Nicene Fathers, Series 1, Vol. 10.
*3:Augstine, The City of God, Chap. 29, Nicene and Post-Nicene Fathers, Series 1, Vol. 2.
*4:Vlach, Has the Church Replaced Israel?, p. 48.
*5:John Darby, Synopsis of the Bible, Christianity.com, http://www.christianity.com/bible/comments/darby/, accessed Sep 30, 2015.
*6:Darby, Synopsis of the Bible, Malachi 4, http://www.christianity.com/bible/comments/malachi/darby/malachi4.htm, accessed Sep 30, 2015.
*7:Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah, pp. 130-134.
*8:Id., p. 137.
*9:マタイの福音書12章22―45節において、パリサイ人たち(当時の宗教的指導者たち)は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」という理由でイエスをメシアとして拒否したことが記されている。Fruchtenbaumは、ここにおいてイエスのメシア性とともにイエスが提供しようとしたメシア的王国もまた拒否されたものであると主張している(Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992), pp. 614-620)。
*10:Furchtenbaum, The Footsteps of the Messiah, p. 707.
*11:Vlach, Has the Church Replaced Israel?, pp. 14-16; 19-23. また、fulfillment theology(あるいはfulfillment theory)が本質的には置換神学(replacement theologyもしくはsupersessionism)と呼ばれるものと変わらないということについて、以下を参照のこと。Scot McKnight, “NT Wright and the Supersessionism Question: What did Paul do?,” Patheos (Oct 15, 2013), http://www.patheos.com/blogs/jesuscreed/2013/10/15/nt-wright-and-the-supersessionism-question-what-did-paul-do/, accessed Oct 1, 2015.
*12:Vlach, Has the Church Replaced Israel?, pp. 9-10.
*13:Craig A. Blaising, “The Future of Israel as a Theological Question,” To the Jew First: The Case for Jewish Evangelism in Scripture and History, Darrel L. Bock and Mitch Glaser eds. (Grand Rapids: Kregel Academic & Professional, 2008), pp. 119-121.
*14:非置換神学的立場はイスラエルもまたキリストを信じることによってのみ救われると考えている点で、「ユダヤ人と教会はそれぞれ別の契約(前者はモーセの律法、後者は新しい契約)によって救われる」とする二契約神学(two-covenant theologyもしくはdual-covenant theology)とは区別される。
*15:Vlach, Has the Church Replaced Israel?, p. 79.
*16:Ibid., p. 109.
*17:なお、Darrel L. BockやP. Feinbergのような一部の非置換神学者は二重成就(a double fulfillment)という考え方を支持するが、他の非置換神学者はこの概念を拒否する。たとえば、Fruchtenbaumによれば「ひとつの聖句はひとつの事項への言及しか含んでいない」ため、二重成就の法則は拒否される(Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah, pp. 4-5)。ただし、ある聖句をイスラエルと教会の両者へ適用することは新約聖書における旧約聖書の引用方から認められるものである(Fruchtenbaum, Israelology, pp. 842-845)。
*18:Vlach, Has the Church Replaced Israel?, pp. 35-41.