軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

終末論についての覚書(4)千年期に対する諸見解 – 3(無千年期説)

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

終末論についての覚書(4) 千年期に対する諸見解 – 3(無千年期説)|balien|note

トピック

無千年期説

 無千年期説(Amillennialism:他の訳語として無千年王国説,非千年王国説など)とは,「文字通り,千年期はない」と考える終末論のことです(エリクソン 2006:423)。この考えでは,キリストの再臨,最後の裁き,永遠の御国(新天新地)の到来といった終末的出来事が連続したひとつの出来事として,非常にシンプルに捉えられています(Berkhof 1958:695-96)。契約神学的終末論のほとんどはこの立場を取っており(Fruchtenbaum 1992:5),今日の福音主義終末論の中では最も人気があるものといっても過言ではないでしょう。

無千年期説の歴史的展開

 Robert B. Strimpleによれば,「無千年期説」という名称は1930年代以降広まったものですが,この名称の起源は不明だといいます(Strimple 1999: locations 1087-88)。Berkhofもまたこの呼び方自体は比較的新しいものであると認めていますが,考え方そのものはキリスト教の歴史自体と同じくらい古いものであると主張しています(Berkhof 1958:708)。
 紀元2–3世紀ごろに主に見られた終末論は,殉教者ユスティノスやエイレナイオスが保持していたような,永遠の御国が到来する前のキリストによる千年間の地上統治を信じる千年期前再臨説です(cf. マクグラス 2002:774-75; Vlach 2015: locations 236-37)。しかし3世紀になると,たとえばヒッポリュトスが,「千年という期間は文字通りの地上における王国の存続期間を指す予言として理解されるべきではなく,天の王国の壮大さを寓喩的に語ったものである」というような終末論理解を示しました(マクグラス 2002:775)。こういった考え方は,オリゲネスやアウグスティヌスといった神学者たちに引き継がれていきます。

アウグスティヌス(354–430年)などのように他の神学者たちは,そうした[平和,正義,物質的な豊かさの支配があるというやがて来たる千年王国への]期待はあまりにも物質主義的であると感じて,千年王国説や聖書にある終末時における豊かさへの言及を,純粋に霊的な支配や神の国を指す比喩的言葉遣いであると理解する傾向があった(非千年王国説).(ゴンサレス 2010:163,[]内は引用者による付記)

 その後の現在に至るまでの無千年期説の歴史的展開は複雑であって,ほとんどの場合,20世紀以前では「千年期後再臨説と無千年期説は全く区別されなかった」ようです(エリクソン 2006:424)。

……無千年期説と千年期後再臨説は共通の特徴が多いため,いつも区別できるわけではない。実際,無千年期説と千年期後再臨説を区別するのに役立つ特定の課題に取り組んだことのないさまざまな神学者──その中にはアウグスティヌスジャン・カルヴァン,B・B・ウォーフィールドがいる──が,両方の陣営から,彼らこそ自分たちの先祖であると主張されてきた。どちらの見解も,黙示録20章の「千年」は象徴的にとらえるべきであると信じている。両者ともしばしば,千年期とは教会の時代であると言う。ただし,千年期後再臨説をとる者は無千年期説をとる者と違って,千年期にはキリストの地上支配があると主張する。
 ……20世紀に千年期後再臨説の人気が落ち始めると,無千年期説が次第に取って代わるようになった。千年期前再臨説よりもずっと千年期後再臨説のほうに近かったからである。したがって,無千年期説は第一次世界大戦以来,最も時代の人気を博している。(エリクソン 2006:424)

なお,千年期前/後再臨説との関係という点では,リンゼル=ウッドブリッジは,無千年期説は「再臨に先立って千年間の黄金時代があるとは考えない」という特徴から千年期前再臨説により近い立場であると考えています。また,この立場ではこの世では善と同時に悪も増大していき,キリストの再臨の時に悪の勢力はピークに達すると考えられているため(Fruchtenbaum 1992:126),そういった点において無千年期説と千年期前再臨説の間には類似点が見られます。しかし,エリクソンが指摘するように,千年期を象徴的に解釈しているという点では,無千年期説は千年期後再臨説に近い終末論であると言えます。
 ちなみに,19–20世紀の一部の千年期前再臨主義者は,「古典的自由主義」者を(その啓蒙主義的楽観主義の故に)しばしば「後千年王国主義者」と呼びました。しかし,自由主義者千年王国にほとんど関心を払っていなかったため,実質的には無千年期主義的であったといえるでしょう(ゴンサレス 2010:93–4)。

無千年期説の聖書的根拠

 今日,無千年期説は福音主義終末論の中で最も人気を得ているものであるため,この終末論を支持するために用いられている論理も多種多様です。
 無千年期説を説明する上で過去に高く評価され,今もなお影響力を持っている文献としては,William E. Cox, Amillennialism Today (Nutely, NJ: Presbyterian & Reformed Publishing, 1966)や,Anthony A. Hoekema, The Battle and the Future (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing, 1979)が挙げられるでしょう。近年では,Kim Riddlebarger, A Case for Amillennialism: Understanding the End Times (Grand Rapids, MI: Baker Publishing, 2003)が,無千年期説的終末論を全体的に説明しているとして高く評価されています。また,Berkhof (1958)は無千年期主義者の立場から組織神学を展開しています。Fruchtenbaum (1992)では,ディスペンセーション主義千年期前再臨説の立場からイスラエル論を展開することが目的とされていますが,その過程で比較検討のために無千年期説の概要が示されています(Fruchtenbaum 1992:123-39)。

 ここでは,近年において無千年期説を聖書的根拠に基づいて説明している論文のひとつとして,Strimple (1999)を例にとり,彼の議論の一部を紹介したいと思います。

 彼はまず,聖書解釈上の前提として,聖書預言の中心は主イエス・キリストであるため,旧約聖書の預言は新約聖書の啓示に基づいて再解釈されなければならないと主張しています(Strimple 1999: locations 1100-39)。なぜなら,新約聖書の啓示は,聖霊が降臨して以降に与えられた,絶対的な権威を持つ啓示であるからです。また,旧約聖書の啓示は,旧約時代の聖徒たちも理解できるような言葉で,新しい契約に基づいて与えられる祝福を表現したものです。つまり,旧約聖書の啓示は「予型」なのです。予型は実体の影であって,実体が来れば影は去ります。それらの予型の実体はキリストですから,キリストによって予型が成就した今,旧約聖書はそれを踏まえて再解釈される必要があるのです(cf. Enns 2008; Berkhof 1958:712-13)。
 たとえば「イスラエル」という用語は,キリスト論的に再解釈される必要があります(Strimple 1999: locations 1140-90)。旧約預言にはイスラエル民族の将来に対する預言が数多くあります。一方,新約聖書は真のイスラエル,真のアブラハムの子孫はキリストであることを示しています(ガラ3:7–9, 26–27, 29)。したがって,キリストの内にいる私たちもまた真のイスラエル,信仰のあるイスラエルであるといえる,とStrimpleは主張します。古い契約における神の民はイスラエル民族でしたが,新しい契約の下における神の民は教会です(cf. Berkhof 1958:570-572; 698-700)。
 また,ダビデの王国が再建されるという概念についても,旧約的な字義的解釈ではなく,使徒的な解釈をとる必要があります(Strimple 1999: locations 1254-1314)。使15:13–21では,アモ9:11–12に書かれたダビデ的王国の再建が,既に成就されたものとしてヤコブによって解釈され,引用されています(cf. Enns 2008; Robertson 1988:89-108)。
 以上のような解釈原則に従えば,キリスト到来後の時代に生きる私たちは,終末論について新約聖書から教理を立てていく必要があります。Strimpleはこの前提に立って,新約聖書はキリストの再臨と永遠の御国の間にある千年王国という概念を支持していないものと考えています。たとえばロマ8:17–23について,パウロはキリストの再臨と天地の再創造を明確に結びつけているものと解釈されます。まず彼は,被造物の回復(Strimpleはこれを新天新地の到来と理解する)が聖徒の「からだの贖われること」によって実現すると教えています(8:19, 22)。彼は1コリ15:23で,聖徒の復活はキリストの現れ(parousia; パルーシア)の時に起こるのだと明確に教えています。したがって,千年王国の後ではなく,キリストの再臨の時に「被造物自体も,滅びの束縛から解放され,神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るのです(8:21)。
 2ペテ3:3–14もパウロの主張と調和していると考えられます(Strimple 1999: locations 1466-85; cf. Waltke 1988:275; Berkhof 1958:733; 736-37)。ペテロによれば,最後の裁きが訪れ,「正義の住む新しい天と新しい地」が来るという出来事は「主の日」に起こります。Strimpleは「主の日」はキリストの再臨と同じ出来事を指していると考えています。この理解に従えば,ペテロもまた新天新地(永遠の御国)の到来はキリストの再臨と共に来ると考えていたものと思われます。
 千年期前再臨説でその根拠として挙げられる黙20:1–10についても,Strimpleは異なった解釈を示します(Strimple 1999: locations 1685-826)。まず彼は,黙示録19章と20章との間に時間的な連続性があるとは考えていません。たとえば11章と12章の間には,時間的連続性はありません(11:18では死者の裁きに言及されているのに,12章では教会時代の始まりへと話が急に移り変わっています)。したがって,19章と20章は必ずしも時系列的繋がりを前提として解釈される必要はない,と彼は主張します。
 結論から言うと,Strimpleは黙示録20章を,(今の)恵みの時代の全体的なパノラマの描写であり,地上における神の目的と天における神の民の祝福とを描いていると解釈しています。彼の解釈によれば,1–3節と7–10節はサタンの敗北についての描写であり,その間に4–6節が挿入されています。彼は4–6節には地上的なものに対する言及がないものと捉えており,この箇所は天におけるキリストと聖徒たちの魂による統治を記したものであると解釈しています。また,Strimpleは黙示録の中では様々な数字が象徴的に用いられているという理解を前提として,黙20:1–10における1000という数字も象徴的に捉えられるべきだと主張しています(cf. Waltke 1988:273)。彼はそれが何を象徴しているか断言はできないとしていますが,Geerhardus Vos, “Eschatology,” The International Standard Bible Encyclopedia (Chicago: Howard-Severance, 1915), p. 987における解釈を興味深いものとして引用しています。Vosは,1000年という象徴的期間は殉教者たちの栄光に満ちた状態を示唆しているのだと考えています。地上では短い期間の患難時代が通過していく一方で,殉教者たちは確立された永遠のいのちを手にしています。Vosによれば,1000年という数字は後者の意味合いを強調しているのです。

 以上から,Strimpleの主張に見られる(そして多くの無千年期主義者にも共通している)無千年期説は,キリストが王として統治される神の国は既に始まっているが,将来再臨の時に完成するという「既に/未だ」(already/not yet)の姿勢に基づいていることがわかります(cf. Berkhof 1958:406-11)。しかし,再臨の前に地上で教会による黄金期が実現するとは考えられていません。この点こそが,千年期後再臨説との最大の違いであるといえるでしょう。また,キリストの再臨と永遠の御国の開始との間に千年王国が存在するとは考えられていません。千年期前再臨説との最大の違いは,この点にあるといえます。ただし,特にディスペンセーション主義千年期前再臨説との間では,旧約聖書を(霊的に)再解釈すべきかどうか,また教会を真のイスラエルと考えるべきかどうかといった点で決定的な相違が存在しています。

無千年期説に対する評価

 以下に示す2名の神学者を含め,現在の多くの無千年期主義者はStrimpleと同様な根拠をもってこの終末論を支持しています。Bruce K. Waltkeはかつてディスペンセーション主義者でしたが,後に無千年期説を支持するようになりました。彼は,旧約聖書新約聖書を通して予型論的に再解釈されなければならないと考え,その結果,キリストの再臨と永遠の御国との間に千年王国が存在するという教理は聖書的根拠に欠けるという結論に至りました(Waltke 1988)。また,O. Palmer RobertsonはStrimpleと同様に使徒15章でアモ9:11–12が再解釈されていることを例に挙げ,使徒的聖書解釈を根拠として,無千年期説的な終末論を支持しています(Robertson 1988)。
 Gentryは千年期後再臨説をとっていますが,Strimpleと同じく改革派の伝統に基づいて終末論を展開しているために,無千年期説における〈キリストが旧約聖書の予型の成就である〉という「旧約預言の適切な解釈」について同意を示しています(Gentry 1999: locations 1846-49)。しかし,Gentryによれば,その解釈法の適用を推し進めるならばStrimpleは千年期後再臨説をとるべきであるといいます(Gentry 1999: locations 1860-75)。なぜなら,キリストの贖いの業と教会の設立によって,王なるキリストの支配のもとに世界中に救いが行き届くという預言(イザヤ2章;エゼキエル47章;詩篇2篇;第一コリント15章など)は成就しはじめているからです。このような考え方に基づけば,キリストが再臨されるまでの今の時代では,世界大の成功に向けて教会がこの世に影響を及ぼしていこう,という千年期後再臨説的な(ある意味で楽観的な)希望をキリスト者は抱くべきである,とGentryは主張します(Gentry 1999: locations 1871-75)。
 千年期前再臨主義者による無千年期説に対する批判は,大きく(1)黙示録20章の解釈に対する批判,(2)旧約聖書の再解釈という解釈法に対する批判,の二つに分けることができるでしょう。前者は歴史的千年期前再臨主義者とディスペンセーション主義者に共通して見られる応答であり,後者はディスペンセーション主義者の間に多く見られる応答です。
 千年期前再臨説を紹介した際に触れたように,エリクソンは,黙20:4–6に書かれている「二つの復活」を説明できる唯一の説は千年期前再臨説であると考えています(エリクソン 2006:428-29)。彼は,Strimpleに見られるような解釈(黙20:4–6は「肉体から分離した魂を描いたものである」)では,20:5の「そのほかの死者は,千年の終わるまでは,生き返らなかった」という記述を解決できないと主張しています(エリクソン 2006:426-27)。このような理由から,彼は「二つの復活への言及(黙示録20章)が無千年期説に困難をもたらす」ものと考え,「無千年期説より千年期前再臨説の見解が適当である」という判断を下しています(cf. ラッド 2015:166-68)。
 「旧約聖書の再解釈」という解釈法については,無千年期説以外に歴史的千年期前再臨説・千年期後再臨説にも共通して見られるものであり,この解釈法に対する批判は既に千年期前再臨説に対する評価の項で触れました。ここでもう少し詳しく言及をするならば,FeinbergやVlachは,予型の存在は認めつつ,しかし旧約聖書全てを予型としてみなす必然性は,新約聖書からは導き出されないものであると主張しています(Feinberg 1988:120-23; Vlach 2010:104-7)。またFruchtenbaumは,新約聖書における「イスラエル」という用語の使用法を分析し,教会が「イスラエル」と呼ばれている例はないという結論を出しています(Fruchtenbaum 1994)。さらに,たとえばKaiser,Fruchtenbaum,Vlachは,使15:13–21でヤコブがアモ9:11–12を再解釈したのだという考えを否定しています。彼らは,ヤコブは「異邦人が異邦人のままで救われる」という状況的相似性からアモ9:11–12を引用したのであって,預言を再解釈したわけではないと主張しています(Kaiser 2008; Fruchtenbaum 2005[1991]:7; Vlach 2010:99-103)。以上のような議論をもって,ディスペンセーション主義者など一部の千年期前再臨主義者は,無千年期説は解釈学的に混乱しており,説得力に欠ける終末論であると主張しています(Blaising 1999)。

引用・参考文献

  1. Berkhof, Louis, Systematic Theology (Edinburgh: The Banner of Truth Trust, 1958)
  2. Blaising, Craig A., “A Premillennial Response to Robert B. Strimple,” Three Views on the Millenium and Beyond, Darrell L. Bock, ed., Kindle ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1999), locations 2052-217.
  3. Enns, Peter, “Fuller Meaning, Single Goal: A Christotelic Approach to the New Testament Use of the Old Testament in Its First-Century Interpretive Environment,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, Jonathan Lunde, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008), pp. 167-217.
  4. Feinberg, Paul D., “Hermeneutics of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg, ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988), pp. 109-28.
  5. Fruchtenbaum, Arnold G. Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992)
  6. Fruchtenbaum, “Israel and the Church,” Issues in Dispensationalism, Wesley R. Willis and John R. Mater, eds. (Chicago: Moody Press, 1994), pp. 113-30.
  7. Fruchtenbaum, “The Jerusalem Counsil: Acts 15:1-35,” The Messianic Bible Study Collection, MBS170 (Ariel Ministries, 2005[1991])
  8. Gentry, Kenneth L., Jr., “A Postmillennial Response to Robert B. Strimple,” Three Views on the Millennium and Beyond, locations 1843-2051.
  9. Kaiser, Walter C., Jr., “Single Meanig, Unified Referents: Accurate and Authoritative Citations of the Old Testament by the New Testament,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, pp. 45-89.
  10. Robertson, O. Palmer, “Hermeneutics of Continuity,” Continuity and Discontinuity, pp. 89-108.
  11. Strimple, Robert B., “Amillennialism,” Three Views on the Millennium and Beyond, locations 1085-842.
  12. Vlach, Michael J., Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing, 2010)
  13. Vlach, Premillennialism: Why There Must Be a Future Earthly Kingdom of Jesus, Kindle ed. (Los Angels, CA: Theological Studies Press, 2015)
  14. Waltke, Bruce K., "Kingdom Promises as Spiritual," Continuity and Discontinuity, pp. 263-87.
  15. エリクソン,ミラード・J『キリスト教神学』第4巻,森谷正志訳,宇田進監修(いのちのことば社,2006年)
  16. ゴンサレス,フスト『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳(教文館,2010年)
  17. マクグラスアリスター・E『キリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館,2002年)
  18. ラッド,ジョージ・エルドン『終末論』安黒務訳(いのちのことば社,2015年)
  19. リンゼル,ハロルド=チャールズ・ウッドブリッジ『聖書教理ハンドブック』山口昇訳(いのちのことば社,2006年)