軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

歴史的文法的解釈法についての覚書(1)

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

歴史的文法的解釈法についての覚書(1)|balien|note

 お久しぶりです。「終末論についての覚書」シリーズが各千年王国論の紹介を終えたところで止まっていますが,ただいま各携挙論の紹介に向けて勉強を重ねているところです。
 一日も早く「大患難時代と携挙に関する諸見解」に移りたいところなのですが,ここで「終末論についての覚書」は休止中のままにして寄り道し,別の小さなテーマを扱わせていただきます。
 お題は聖書解釈学です。その中でも「歴史的文法的解釈法」という解釈法則に対する福音主義神学界での批判的応答や,他の解釈手法や神学手法と「歴史的文法的解釈法」との関係について、簡単に取り扱ってみたいと思います。

トピック

これから取り上げるそれぞれのトピックが本1冊書けるくらいのテーマを扱っているのですが,ここでは歴史的文法的解釈法との関係において,各テーマを概観するに留めたいと思います(不勉強なので……)。
 お読みいただいた方々の中にはそれぞれのテーマについて「これを論じないと不充分ではないか」と不満に思われる方もいらっしゃるかもしれません。私自身これからも勉強し続けていきたいテーマでありますので,御意見・御感想お待ちしております。

1.はじめに

 福音主義の聖書解釈学において「歴史的文法的解釈法」は古くから提唱されてはいるが,今なお聖書のテキストへのアプローチとして重要な解釈法則である。多くの福音主義者たちは,この解釈法則こそが聖書への適切なアプローチであると考えている。
 ここでは話題喚起を目的として,歴史的文法的解釈法とそれに対する批判的応答,また近年注目を集めている予型論的解釈法,物語神学,そして科学的神学といった神学手法と歴史的文法的解釈法との関係について概観する。

2.聖書解釈学と歴史的文法的解釈法

 Ryrieによれば,「聖書解釈学とは解釈法則を与える科学である。ある者の神学体系はそれらの諸法則によって導かれ,規定される」(Ryrie 1995:89)。聖書を神の言葉として受け入れる福音主義者にとって,聖書釈義の第一原則は,聖書の字義的意味を明らかにすることである(ケヴァン 1974:481-482)。ここでいう字義的意味とは「ある特定の著者が意図していること」であり,著者が文学的手法として比喩や象徴を用いている場合には,比喩的解釈や象徴的解釈を否定するものではない(ケヴァン 1974:482; cf. ライト 2015:270-279)。
 多くの福音主義神学者たちは,聖書の字義的意味を汲み取るためには,聖書の著者の歴史的背景,および彼が用いた言語・文法・文学的手法を考慮する必要があると考えている。このような「[聖書の]文法的構造および聖書が執筆された際の歴史的文脈に焦点を当てた[解釈]手法」を,「歴史的文法的解釈法(historical-grammatical hermeneutics/method)」もしくは「文法的歴史的解釈法(grammatical-historical hermeneutics/method)」という(Sproul 2009:62)。福音主義に立つ聖書解釈者であれば,釈義する聖書箇所に書かれた出来事の歴史的背景,もしくは著者の歴史的背景を探ろうとするはずである。したがって,福音主義を前提とする聖書解釈学では,必然的に歴史的文法的解釈法が解釈法則の中に含まれるべきであると考えられる。
 山﨑(2014:34)によれば,この歴史的文法的解釈の前提としては「『聖書テクストには著者が意図した唯一の意味が内在している』という聖書観がある」*1。この点を強調し続けている代表的な神学者はKaiserであろう。彼は,聖書には「人間の著者には意図されていないが,神によって付加されたより深い意味が存在している」とするsensus pleniorという概念を取り上げ,聖書著者(とりわけ新約聖書の著者)はこれを支持していないものとして厳しく批判している(Kaiser 2008)。その上で彼は聖書の意味の単一性を主張し,結果的に歴史的文法的解釈法の妥当性を支持している。
 また,前述のように福音主義者であれば大なり小なり歴史的文法的解釈法の重要性を認めているのであるが,特にこの解釈法を強調している神学的立場としてディスペンセーション主義が挙げられる。Ryrieは字義的解釈と歴史的文法的解釈とを完全に同一視しており,その理解を前提として真に字義的解釈を聖書全体に渡って適用しているのはディスペンセーション主義のみの特徴である,と主張している(Ryrie 1995:47-48; 89-109)。
 ただし,Ryrieの主張に対してはディスペンセーション主義内部からの批判も見られる(Feinberg 1988:73; Blaising and Bock 1992:30-33)。Feinbergは「Ryrieは問題を単純化しすぎている」と指摘しており,非ディスペンセーション主義とディスペンセーション主義との違いは「非字義主義対字義主義という構図ではなく,何が字義的解釈を構成しているかについての理解の違いである」と述べている(Feinberg 1988:73-74)。しかし,Feinbergは,ディスペンセーション主義では歴史的文法的解釈法が聖書全体に一貫して適用されている,という主張自体は否定していないように思われる。これについては,Feinbergの見解を踏襲し,Ryrieに対して批判的に応答しているVlachも同様である。Vlachの見解では,特に旧約聖書に対して歴史的文法的解釈法を(終始一貫して)適用しているかどうかがディスペンセーション主義であるかないかの違いであるという(Vlach 2010[2008]: locations 281-348)。

参考文献

  • Blaising, Craig A. and Darrell L. Bock, eds., Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992)
  • Feinberg, John S., “Systems of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg ed., (Wheaton, IL: Crossway, 1988), pp. 63-86.
  • Kaiser, Walter C., Jr., “Single Meaning, Unified Referents: Accurate and Authoritative Citations of the Old Testament by the New Testament,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, Kenneth Berding and Jonathan Lunde, eds., (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008), pp. 45-89.
  • Ryrie, Charles C., Dispensationalism (Chicago: Moody Publishers, 1995)
  • Sproul, R. C., Knowing Scripture, revised ed. (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2009)
  • Vlach, Michael J., Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, Kindle ed. (Los Angels: Theological Studies Press, 2010[2008])
  • ケヴァン,アーネスト・F「聖書解釈の諸原則」宮村武夫訳『聖書論論集』メリル・C・テニー=カール・F・H・ヘンリー共編,舟喜順一訳編(聖書図書刊行会,1974年)465−488頁
  • 山﨑ランサム和彦「新約聖書における使徒的解釈学」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会,2014年)33−54頁
  • ライト,N・T『クリスチャンであるとは—N・T・ライトによるキリスト教入門』上沼昌雄訳(あめんどう,2015年)

*1:なお,ケヴァンは次のように述べている。「聖書は,複合的意味ではなく,単一の意味を持つ。この一つの意味は,文法的意味の示す意味である。文法的,字義的解釈は,派生的意味の基盤となっている。これらの後続的な解釈とのかかわりでは,文法的,字義的解釈は常に第一のものであって,他のものは二次的である。」(ケヴァン 1974:484)