先日注文したArnold G. Fruchtenbaumの"Yeshua"が届きました。
前記事で「今回は参照文献が充実しているようだから買い」なんて言いましたが、ページをパラパラめくってみると、脚注の怒濤の情報量に笑ってしまいましたf^_^;
これから読むのが楽しみです。
さて、最近面白い論文集を読んでいます。Thomas IceとTimothy Demyが編集したWhen the Trumpet Sounds (Eugene, OR: Harvest House, 1995)という、終末論(特に携挙)に関する論文集です。
寄稿しているのは、「教会は患難時代が来る前に天に引き上げられ、空中で主と会うことになる」という患難期前携挙説に立つ学者たちです。
色々と興味深い論文ばかりなのですが、中でもJohn S. Feinberg*1の"Arguing About the Rapture: Who Must Prove What and How"という論文は面白かったです。
トピック
「携挙」を論じる上での方法論
「患難時代の最後にキリストが再臨し、千年王国を建てられる」という終末論である千年期前再臨説(こちらの記事を参照)では、携挙がどのタイミングで起こる出来事なのか、見解が分かれています。
代表的な立場としては、以下の4つを挙げることができるでしょう*2。
- Pretribulation rapturism(患難期前携挙説)*3
これは、患難時代の前に教会が携挙されるという立場です。したがって教会は患難時代から逃れることになります。また、キリストは患難時代の最後に地上に再臨されるため、携挙と地上再臨は別の出来事として認識されています。 - Midtribulation rapturism(患難期中携挙説) *4
これは、患難時代の半ばで教会が携挙されるという立場です。したがって、教会は患難時代の前半は通過し、患難が激しさを増す後半の前(患難時代の真中)に携挙されることになります。この立場でも、携挙と地上再臨は別の出来事として認識されています。 - Prewrath rapturism*5
これは比較的新しい立場で、最近では患難期中携挙説はこの"prewrath rapturism"に取って代わられています*6。この立場では、患難時代の中でも患難が激しさを増す前に教会が携挙される、と主張している点では患難期中携挙説と変わりありません。しかし、患難期中携挙説では患難が激しくなり始めるのが患難時代の真中であるとされていたのに比べて、"prewrath rapturism"ではそれは患難時代の後半に起こることだとされています。したがって、教会は患難時代の後半のどこかで、患難が激しくなり始める前に携挙されることになります。 - Posttribulation rapturism(患難期後携挙説)*7
これは、患難時代の最後に教会が携挙されるという立場です。したがって、教会は患難時代を通過し、携挙されて栄光の姿へ帰られた後、キリストと共に地上へ戻ってくることになります。この立場では、携挙を再臨の際のいち現象として捉え、それゆえに「携挙」という用語の使用が避けられることがあります*8。
When the Trumpet Soundsに収録されている論文において、Feinbergは患難期前、中、後携挙説の主要な長所と短所を注意深く評価しています*9。
まず彼は、The Rapture: Pre-, Mid-, or Post-Tribulational? (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1984)における患難期前携挙主義者(Paul D. Feinberg)、患難期中携挙主義者(Gleason L. Archer)、患難期後携挙主義者(Douglas J. Moo)の論考*10を対象に、各立場が主張する論理の特徴を指摘しています。
そして、携挙を論じる上では、他の教理について論じるときと同様にふさわしい「方法論」が必要だと提唱しています。
Feinbergが提唱する「(教理を定式化する上での)適切な方法論」は、次の通りです*11。
- まず、そのトピックについて明確に教えている聖句を読む。
たとえば、神についての教理を定式化するためには、教会や聖書の性質について教えている聖句ではなく、まず神のご性質について教えている聖句を読むべきである。すなわち、携挙論の場合には、まず携挙と主の再臨について教えている聖句を読むべきである。 - 次に、その聖句から導出された教理と他の教理との関係について検討する。
もし導出された教理が正しければ、既に確立されている他の聖書的・神学的真理と体系的に適合するはずである。
以上のことをふまえ、Feinbergは携挙を論じる上での方法論について次のように述べています。
前述の方法論と携挙の問題との関係は明白である。方法論的にいえば、[携挙を論じる上で]最も適切なのは、問題とされている出来事──携挙、再臨、患難時代について直接的に言及している聖句から始めることである。携挙と再臨に関する聖句の注意深い釈義を土台として、我々は携挙、再臨、そして患難時代の関係について明確な見解を持つことができる。その次に、我々の携挙についての見解が[他の教理との関係において]もたらす影響を検討しなければならない。*12
各立場において何が証明されるべきなのか
Feinbergは自ら提唱した方法論に則って、(Paul D. )Feinberg、Archer、MooがThe Raptureで展開した携挙に関する各立場(患難期前、中、後携挙説)について評価しています*13。
- 患難期前携挙主義者および患難期中携挙主義者は、携挙と再臨に関する聖句の釈義から議論を始める必要がある。
- 患難期後携挙主義者は、千年王国において栄化されていない肉体を持つ人々がいるという問題、また神の御怒りの問題についてさらに真剣に取り組むべきである。
そして、各立場において何が証明されるべきなのかを論じています。
患難期前携挙説で何が証明されるべきなのか
Feinbergは、もし携挙と再臨という出来事の間に明確な同一性が認められれば、患難期前携挙説は成立しないことを指摘しています。その上で彼は、患難期前携挙説が立証されるためには、まず携挙と再臨についての聖句を釈義し、携挙と再臨は別個の出来事であるという可能性を示す必要があると提唱します。
私なりに言い換えると、「携挙と(地上)再臨を同時に起こる同一の出来事として仮定して論じる必然性はない」ということを示す必要がある、ということでしょうか。
このテーマについては、本論文集第7章のEdward E. Hindson, "The Rapture and the Return: Two Aspects of Christ's Coming"、またThomas R. Edger, “An Exegesis of Rapture Passages,” Issues in Dispensationalism, Wesley R. Willis and John R. Master, eds., (Chicago: Moody Press, 1994) 203-223で丁寧に論じられています。
次に、患難期前携挙説に対して影響を及ぼす以下の問題について適切な説明が示される必要があるとFeinbergは提唱します*14。
- 神の御怒りについての問題;教会は神が裁きとして下される御怒りを逃れるという約束(1テサ1:10; 5:9)について、どう考えるべきか。千年期前再臨説では、この御怒りは患難時代に注がれるものと考えられている。左記の約束をどう考えるべきかは各立場で論じられている。
患難期前携挙主義者に求められているのは、この問題について、他の立場よりも相応しい解決を与えることができると示すことである。 - 栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題;イザ65:20によれば、千年王国には現在の我々のような肉体を持った住民がおり、子どもも産まれている。また、主に反抗するという罪を犯す人々が登場することを教えている黙20:7-10からも、栄光の体を持っていない人々が千年王国に入ることが推測される。
しかし、患難期後携挙説の場合、千年王国前に全ての聖徒は携挙され栄光の体が与えられることになってしまう。この問題についても各立場において答えが出されているが、患難期前携挙主義者は、他の立場よりも相応しい解決を与えることができると示さなければならない。 - 小羊の婚宴のタイミングについての問題;黙19:1-10をそのまま読むと、患難時代の終わり、キリストの地上再臨に先立って、天でキリストと教会の婚宴が催されるように思える。
この問題について他の立場よりも優れた答えを出すことができれば、患難期前携挙説は他の立場よりも聖書の教えに合致していると主張することができるだろう。 - キリストの裁きの座のタイミングについての問題;パウロは、全ての信者は「キリストのさばきの座」に立ち、各々の行いに応じて裁かれる(「報いを受ける」)ことを教えている(2コリ5:10; cf. 1コリ3:10-15)*15。
この裁きのタイミングの問題について、患難期前携挙説は他の立場よりも優れた解決を与えることができるとするなら、その根拠を示す必要がある。
患難期中携挙説で何が証明されるべきなのか
患難期中携挙説も、「携挙と地上再臨は同時に起こる同一の出来事と仮定して論じる必然性はない」という根拠を示すべきだということについては、患難期前携挙説と問題を共有しています。
また、「患難期前携挙説で何が証明されるべきなのか」の1. 〜4. は、いずれの立場においても論じられるべき問題です。
加えて、患難期中携挙説では以下の問題を論じる必要があるとFeinbergは主張します*16。
- 1テサ4:16では携挙の際に「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」とある。また、1コリ15:52では携挙は「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに」起こると言われている。患難期中携挙主義者の中には、この「終わりのラッパ」を黙11:15の第7のラッパと同一視する者がいる*17。
この場合、患難期中携挙主義者は、「終わりのラッパ」を第7のラッパと同一視することの聖書的・神学的根拠を示さなければならない。また、黙示録のラッパの裁きが患難時代の半ばで起こるということを示さなければならない。 - 患難期中携挙主義者の中には、1テサ4:16と1コリ15:52のラッパをマタ24:31(「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」)のラッパと同一視する者もいる。
この場合も、1テサ4:16と1コリ15:52のラッパとマタ24:31のラッパとを同一視することの根拠を示さなければならない。さらに、1テサ4:16と1コリ15:52のラッパとマタ24:31のラッパとを同一視した場合、別の問題が生じる。マタ24:31は、キリストが再臨する時、すなわち患難時代の終わりに起こることである。したがって、この場合に該当する患難期中携挙主義者は、なぜ自身が患難期後携挙説ではなく患難期中携挙説を採用したのかを説明する必要がある。 - 患難期中携挙説では、ダニエルの70週(ダニ9:25-27)の69週*18までは教会が存在しておらず、第70週目の半ばまで教会が存在し、それから携挙されるということになる。もしディスペンセーション主義者として患難期中携挙説を採用する場合には、ダニエルの70週の預言の中に教会の言及がないことについて説明する必要がある*19。
患難期後携挙説で何が証明されるべきなのか
患難期前携挙説とは異なり、患難期後携挙説では聖書釈義から「携挙と再臨を同一の出来事として見なせる可能性がある」ということを示すだけでは十分ではない、とFeinbergは主張します。
その理由は、(1) 他の立場を誤ったものとして排除するため、(2) 聖書釈義の結果から患難期後携挙説を立証するため、(3) もし神学的問題についての議論になれば、患難期前携挙説からの反論に遭うため(「患難期前携挙説で何が証明されるべきなのか」における1. 〜4. 参照)です*20。
しかし、患難期後携挙説で聖書釈義からその立場を説明できたとしても、「患難期前携挙説で何が証明されるべきなのか」で示した1. 〜4. の神学的問題を避けることはできません。したがって、この立場でもそれらの神学的問題について聖書から解決とその根拠を示す必要があります*21。
加えて、もしディスペンセーション主義者として患難期後携挙説を採用する場合*22には、患難期中携挙説の項で指摘した通り、ダニエルの70週の預言と教会の存在に関係した問題について説明する必要がある、とFeinbergは指摘しています*23。
Feinbergの方法論をふまえて
Feinbergが指摘する「(各立場で)何が証明されるべきなのか」という問題は、細かいところでは同意できない点もあります。
また、ディスペンセーション主義者として患難期中もしくは後携挙説を採用する場合の問題については、より根本的なところから論じていく必要があるでしょう*24。
それでも、このFeinbergの方法論に則って各立場から議論を展開していくことは有益だと思います。
「今日では多くの者が……[患難期前携挙説という教理には]明確な聖書的根拠はないと信じている」という状況です*25。特にこの教理に対する風当たりが強い日本*26で(聖書解釈の結果として)患難期前携挙説を信じる者としては、Feinbergの方法論を活用しつつ、自分の考えを体系化する必要性を強く感じています。
それでも、携挙論は本当に難しいんですよね。
聖書釈義のパラダイムが違えば(たとえば歴史的・文法的・字義的解釈を聖書全体に一貫して適用すべきかどうか等)、聖書釈義のルールが変わってしまいます。そうすると、たとえば違う立場でそれぞれ違うパラダイムを採用している場合、議論も折り合いがつかなくなってきます。Alan Hultbergは、改訂版のThree Views on the Raptureの中で「The Raptureでのディベートにおいて明確な勝者はいない」と述べていたりします*27。
おそらくこの議論で折り合いがつくことはないのだと思います。でも、患難期前携挙説に立つ一個人としては、この立場が決して「聖書的根拠が薄弱な教理」などではない、ということを発信していきたいと思うのです。
もっとも、しっかりと論じるとなれば、その前提すらも崩して批判的に聖書のテキストを見直していくところから始めなければなりませんが。
おまけ:参考文献
患難期前携挙説については、以下の文献が論理的にもしっかりしたものだと思います。
- Blaising, Craig A., “A Case for the Pretribulation Rapture,” Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, Alan Hultberg, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2010) 25-73.
- Brindle, Wayne A., "Biblical Evidence for the Imminence of the Rapture," Bibliotheca Sacra, 158 (April-June 2001) 138-51.
- Crutchfield, Larry V., "The Blessed Hope and the Tribulation in the Apostolic Fathers," When the Trumpet Sounds, Thomas Ice and Timothy Demy, eds. (Eugene, OR: Harvest House, 1995) 85-103.
- Demy, Timothy J. and Thomas D. Ice, "The Rapture and an Early Medieval Citation," Bibliotheca Sacra, 152 (July-September 1995) 306-17.
- Edger, Thomas R., "Robert H. Gundry and Revelation 3:10," Grace Theological Journal, 3 (1982) 19-49.
- Edger, “An Exegesis of Rapture Passages,” Issues in Dispensationalism, Wesley R. Willis and John R. Master, eds. (Chicago: Moody Press, 1994) 203-23.
- Feinberg, Paul D., “The Case for the Pretribulation Rapture Position,” Three Views on the Rapture: Pre-, Mid-, or Post-Tribulation, Gleason L. Archer, Jr., ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1984) 47-86.
- Feinberg, "Dispensational Theology and the Rapture," Issues in Dispensationalism, 225-45.
- Fruchtenbaum, Arnold G., The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, Revised ed. (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2003) 139-62.
- Jeffrey, Grant R., "A Pretrib Rapture Statement in the Early Medieval Church," When the Trumpet Sounds, 105-25.
- Rydelnik, Michael A., "Israel: Why the Church Must Be Raptured Before the Tribulation," Evidence for the Rapture: A Biblical Case for Pretribulationism, John F. Hart, ed. (Chicago: Moody, 2015) 255-76.
- Stitzinger, James F., "The Rapture in Twenty Centuries of Biblical Interpretation," The Master's Seminary Journal, 13(2) (Fall 2002) 149-71.
- Thomas, Robert L., "Imminence in the NT, Especially Paul's Thessalonians Epistles," The Master's Seminary Journal, 13(2) (Fall 2002) 191-214.
(同様な内容は以下にも収録されています。Thomas, "The Rapture and the Biblical Teaching of Imminency," Evidence for the Rapture, 23-43.) - Vanlaningham, Michael G., "Paul and the Rapture: 1 Corinthians 15," Evidence for the Rapture, 123-43.
*1:Th.M、Ph.D、当時トリニティ神学校聖書神学・組織神学准教授、現在同校聖書神学・組織神学教授。
*2:ここで挙げた4つの他に、患難時代の前に敬虔な信者だけが天に挙げられ、他の信者は患難時代を通過するという「partial rapturism(部分的携挙説)」なんていう立場もあるみたいです。
*3:より詳しくは以下の文献を参照してください。Paul D. Feinberg, "The Case for the Pretribulation Rapture Position," Three Views on the Rapture: Pre-, Mid-, or Post-Tribulation, Gleason L. Archer, Jr., ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1996) 47-86; Craig A. Blaising, “A Case for the Pretribulation Rapture,” Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, Alan Hultberg, ed., (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2010) 25-73.
*4:より詳しくは以下の文献を参照してください。Gleason L. Archer, Jr., "The Case for Mid-Seventieth-Week Rapture Position," Three Views on the Rapture: Pre-, Mid-, or Post-Tribulation, 115-45.
*5:より詳しくは以下の文献を参照してください。Marvin Rosenthal, The Pre-Wrath Rapture of the Church (Nashville, TN: Nelson, 1990); Alan Hultberg, "A Case for the Prewrath Rapture," Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, 109-54.
*6:Alan Hultberg, "Introduction," Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, 13-4.
*7:より詳しくは以下の文献を参照してください。Robert H. Gundry, The Church and the Tribulation: A Biblical Examination of Posttribulationism (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1973); Douglas J. Moo, "A Case for the Posttribulation Rapture," Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, 185-241.
*8:ミラード・J・エリクソン『キリスト教神学』第4巻、森谷正志訳、宇田進監修(いのちのことば社、2006年)433頁
*9:When the Trumpet Sounds, 187
*10:現在はGleason L. Archer, Jr., ed., Three Views on the Rapture: Pre-, Mid-, or Post-Tribulation (Grand Rapids MI: Zondervan, 1996)として出版されています。また、Three Views on the Raptureについては後にAlan Hultberg, ed., Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2010)として新版が出版されています。
*11:When the Trumpet Sounds, 190-2
*12:Id., 191. []内は引用者による付記。
*13:Id., 192-3
*14:Id., 194-5.
*15:ロマ8:1では「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とあります。したがって、この裁きは罪の裁きというよりも、褒章のための裁きであると考えるべきなのでしょう。Cf. Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, Revised ed. (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2003) 155-60.
*16:When the Trumpet Sounds, 195-6.
*17:たとえば、J. Oliver Baswell, A Systematic Theology of the Christian Religion (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1962), 2:397など。
*18:一般的に、ダニ9:25-27の未来主義的解釈では1週を7年(1日 = 1年)ととらえています。9:25は、エルサレム再建の命令が出てから「油注がれた者、君主」すなわちメシアが来るまでが7週 + 62週 = 69週 = 483年と解釈されます。また、9:26では第69週の後に「油注がれた者が断たれ」、すなわちメシアは死に、その後にエルサレムが異邦人の軍隊によって滅ぼされることが預言されていると解釈されます。そして、9:27に記されている第70週目の7年が患難時代を指しているものと考えられています。つまり、第69週と第70週との間には時間的ギャップが存在しているわけです。こういったダニ9:25-27の解釈については、期間を字義的に捉えるのかどうか、また本当に未来主義的に解釈して良いのかどうか、などの点で多くの議論が展開されています。ここで述べた未来主義的解釈については、Randall J. Price, “Prophetic Postponement in Daniel 9:24-27,” Progressive Dispensationalism: An Analysis of the Movement and Defense of Traditional Dispensationalism, Ron J. Bigalke Jr., ed., (Lanham, MD: University Press of America, 2005), 215-256で詳しく論じられています。
*19:一般的に、ディスペンセーション主義者は旧約聖書に教会に関する言及はないものと考えています。
*20:When the Trumpet Sounds, 196.
*21:Id., 197.
*22:Robert H. Gundryは、聖書的ディスペンセーション主義と合致するのは患難期後携挙説であると主張しています(Gundry, The Church and the Tribulation: A Biblical Examination of Posttribulationism (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1973) 27-8)。
*23:When the Trumpet Sounds, 197.
*24:たとえば、第69週と第70週にギャップがあるという解釈に立てば、そのギャップの期間に教会が存在しています(ローマによってエルサレムが破壊されたとき、既に教会は存在していました)。Gundryはその点を指摘し、第70週目に教会が存在していたとしても問題とはならないと主張しています(Gundry, The Church and the Tribulation, 14-15)。患難期前携挙説の立場から反論するとしたら、ダニ9:25-27を主ご自身が引用された「オリーブ山の説教」において、ダニエルの第70週に関する警告が教会よりもむしろユダヤ人に与えられたものである、ということの根拠を示す必要があるでしょう(cf. Paul D. Feinberg, "Dispensational Theology and the Rapture," Issues in Dispensationalism, 235-43)。
*25:Michael J. Svigel, "What Child is This? A Forgotten Argument for the Pretribulation Rapture," Evidence for the Rapture, John F. Hart, ed. (Chicago: Moody, 2015) 225-6; cf. N. T. Wright, "Farewell to the Rapture," Bible Review, 17 (August 2001) 8; 52.
*26:と、一般的にそう言っていいのかはわかりません。が、個人的な体験から言うと、「携挙なんか信じてるの?」と何度言われてきたことか……
*27:Alan Hultburg, "Introduction," Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, 21. ちなみに、引用箇所をその直後も合わせて引用すると、「……明確な勝者はいないにもかかわらず、明確な敗者はいた」となっており、Hultburgはその敗者は患難期中携挙主義者のArcherである、と述べていますf^_^;