軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(前編)

 少々大げさなタイトルですが、これは福音主義神学においてよく議論されているテーマです。本記事では、この種の議論について、ごく一部ではありますが紹介させていただきます。

 Arnold G. FruchtenbaumのYeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective (Vol. 1)のp. 44までを読みました。
 本書のpp. 10-44は、イエスの生涯の解説に入る前の前置きとして「新約聖書旧約聖書をどのように引用しているのか」という項になっています。これは現在の福音主義神学でも大変重要な問題として扱われているテーマです。なぜなら、これについてどのように考えているかによって、本記事のタイトルで提示した問いへの答えが規定されてくるからです。
 そこで、このテーマについてブログ記事としてまとめてみようと考えました。ただ、これは複雑で多種多様な主張がなされているテーマであるため、全ての議論をまとめることはできません。ですので、ここでは「新約聖書と紀元1世紀(あるいは第二神殿期)のユダヤ教の聖書理解」という観点からの議論に絞ってまとめさせていただきました。

 なお、本記事における聖書引用では新改訳第三版を使用しています。

前編のトピック

旧約聖書の「再解釈」?

 福音主義神学の中でも、旧約聖書(特に預言)の解釈については、様々な見解が存在している。たとえばジョージ・E・ラッドは、旧約預言を解釈する上では「啓示の漸進性を認識し、旧約聖書新約聖書に基づいて解釈する」という方法を支持している*1

旧約聖書の預言は、イエスの人格と使命における預言の成就という視点から解釈されなければならない。そこには再解釈も含まれる。つまり、預言の実際の成就は、旧約聖書から期待される成就の内容とは異なっていることもあるのである。*2

 つまり、ラッドが「旧約聖書新約聖書に基づいて[再]解釈する」という解釈法を支持している理由は、彼の新約聖書釈義の結果による。彼は新約聖書を釈義し、そこには「旧約聖書から期待される成就の内容」とは異なった「預言の実際の成就」が提示されているものと考えている。
 彼はこの解釈法の具体的な例として、イエス自身、また新約聖書の著者たちが「旧約聖書の預言をイエスの人格と使命という視点から再解釈した」ことを挙げている*3
 新約聖書では、「ダビデ王たるメシヤ像」、「ダニエル書の天からの人の子像」、「イザヤ書の苦難のしもべ像」という旧約聖書の三つのメシア像が統合されている、とラッドは主張する*4。彼は「イエス時代のユダヤ人が、イザヤ五三章をメシヤ預言として解釈していたという証拠は存在しない」という理由の故に、「イエスとイエスの後継の使徒たちは、旧約聖書の預言をイエスの人格と使命という視点から再解釈した」と考えている*5。すなわち、「互いの関係が不明な、大変異なった概念である」三つのメシア像を、イエスや使徒たちは「統合し再解釈している」というのである*6
 したがって、ラッドは、イエスおよび使徒たちの旧約聖書解釈から、「旧約聖書新約聖書に基づいて[再]解釈する」という解釈法を支持しているといえる。
 もしラッドの論理に従うなら、新約聖書の啓示は旧約聖書のそれよりも優先されるべきだということになるだろう。「教理において最終的に権威のあることばは、新約聖書の中に見出されなければならない。」*7
 また、新約聖書の啓示は霊感の下で与えられたものである。よって、新約聖書において旧約聖書の本来の意味が変更されているとしたら、その意味は、新約聖書の啓示によって明らかにされた「新しい意味」に置き換わっているといえるだろう。
 それでは、旧新約聖書の関係について、こうした見方は正しいのだろうか。この問いについて考えるためにも、「新約聖書の著者は旧約聖書をどのように解釈しているのか or 引用しているのか」ということを観察するのは有益であるものと考えられる。

新約聖書の著者たちとユダヤ教のヘブル語聖書「解釈法」

 「新約聖書の著者たちは旧約聖書をどのように解釈していたか」という問いは、福音主義神学の中でも長きにわたって論争され続けているテーマである。
 Vlachは、福音主義神学におけるこの問いに関する立場は7つに区分されるという考察を示している*8。ここでは7つの立場すべての議論を紹介することはできない。その中でも、「新約著者たちは当時のユダヤ教の解釈原則を使用した」という立場*9に限定して、いくつかの主張を観察してみたい。

ニューズナーの主張

 ユダヤ教における聖書釈義として有名なのは、「ミドラシュ」や「ペシェル」だろう。ユダヤ教学者のニューズナーは、ミドラシュを以下のように定義している。

ミドラシュは英語の「釈義」に対応し、それと同じ類型的意味を持つ。……しかし「ミドラシュ」という語は、「適切な規定(ミシュナの中で)または神学的真理(聖書の中で)を発見するのが目的のヘブライ語聖書[旧約聖書]の解釈」という、より限定された意味を持つ。*10

また、ペシェルについては以下のように定義している。

聖書箇所の解釈または説明。(例えば預言者の)所与の陳述が現在の事件もしくは人物と同定される。*11

 ニューズナーは、紀元前300年ごろから翻訳作業が始められたヘブル語聖書のギリシャ語訳(七十人訳、LXX)や、紀元300年から700年までの間に形成された「タルグム」(ヘブル語聖書のアラム語訳)には、自由で敷衍的な翻訳が見られることを指摘している。そのことにより、彼は、古代ユダヤ教の聖書釈義において自由で敷衍的な釈義が行われていたと考えている。

ヘブライ語聖書のアラム語訳[タルグム]は、ミドラシュ的釈義の二つの型を取っている。第一に、訳者たちは元のヘブライ語の意味を変え、そしてそれに新しくまた豊かな意味を帰するほどそれを敷衍している。第二に、訳者たちは翻訳の装いの下に、きわめて新しい史料──所与のものに対する解釈もしくはその場合のために作られた詳細──を彼らの元のヘブライ語の提示の中に挿入している。これらの二つの方法を用いて彼らは伝承された物語を豊かにし、またミドラシュ的釈義を創造し、こうして彼らのタルグムの中に含まれたミドラシュ的文書を産出したのである。*12

 また、ニューズナーは、「紀元二世紀のある時期に成立し、それが紀元六六年にローマ人によって滅ぼされるまでそこ[死海から数マイル離れたワディ・クムラン]に断続的に居住した」エッセネ派死海写本に見られるミドラシュに言及している*13
 死海文書の中には、エッセネ派によるヘブル語聖書の注解書(釈義的文書)が含まれている。「これらのテキストのひとつひとつが、聖書の預言書へのミドラシュ──解釈──となっている」のである*14。これらのテキストは、単数形でペシェル、複数形でペシャリームと呼ばれている。

ペシャリームのミドラシュにおいては、ただ一点に解釈者の焦点が合わせられていることが目立つ。聖書の預言書の記者(例えばホセア)は、クムランのエッセネ派共同体およびそれを取り巻いた諸事件に言及しているように解釈される。換言すれば、注解者の見方では、預言者はエッセネ派について預言したのである。これは、われわれの観点からすれば、クムランの解釈者が、預言書のテキストを表面的に言及していない何ものかに言及しているように理解していることを意味する。クムランの解釈者たちは隠された意味を見分け、それを明確にしようと試みているのである。*15

エッセネ派のミドラシュ集成の中にあるのは、従って、ミドラシュ的過程、すなわち具体的な諸事件と過去の言葉との有効な相関関係に照らした聖書箇所への一接近法を表現しているミドラシュ文書を含む、全く強力なミドラシュ的釈義なのである。*16

 さらにニューズナーは、新約聖書のマタイの福音書は「伝承された聖書を、歴史の諸事件およびミドラシュ解釈者に対するそれらの意味に照らして読むこと」の例であるという*17。この「マタイにおけるキリスト教のミドラシュ」の中には、「イエスの生涯と教えにおけるその意味に照らして、古代イスラエルの聖書の諸節を読む」ということが含まれている*18。こうしたミドラシュはエッセネ派のペシェルと似ており、さらに四福音書すべてに見られるという。

新約聖書のすべての福音書の中にあるものは、エッセネ派のクムラン書庫におけるように、具体的な諸事件[イエスの生涯と教え]について手に入る限りの体系に照らして昔の聖書の節を読むという、全く独自な類型の釈義である。釈義者は聖書を過去から彼自身の時代に起こった事柄に関連させるのである。彼の様式はその目標のために役立っている。そのことは、エッセネ派のミドラシュにとっても、またマタイにおけるキリスト教のミドラシュにとっても同じである*19

Ennsの主張

 福音主義神学者であるEnnsもまた、新約著者たちは古代ユダヤ教(紀元1世紀、もしくは第二神殿期のユダヤ教)の解釈法を使用していたと主張している*20
 Ennsによれば「聖書を研究する上では歴史的情報を考慮すべきである」という一般原則を考えるならば、新約著者たちの旧約釈義を理解するために、紀元1世紀のユダヤ教の聖書釈義を考慮することが重要である。

我々が一般的に聖書に持ち込む(歴史的状況を考えるべきだという)原則は、新約における旧約使用法という事象にも適用されるべきである。我々が聖書の意味を理解する上で、古代の文法や歴史を知ることは有益である。よって、古代の釈義を知ることは、新約著者たちの聖書釈義を理解する上で有益なのである。*21

 Ennsは、そういった方法によって新約著者たちの聖書釈義を研究することで、「新約著者たちの聖書への取り組み方は文法的・歴史的解釈法によるものではないことがわかる」と結論づけている*22。したがって、「旧約本来の文脈文脈における意味と新約著者たちが展開した旧約釈義の間には、しばしば『断絶』」が見られるという*23
 彼は、歴史的文法的釈義に縛られていない新約著者たちの聖書解釈を、終末論的もしくはキリスト目的的(Christotelic)解釈と呼んでいる*24。これは、「旧約聖書の全体がキリストの死と復活というクライマックスに向かっているという終末論的前提に立って旧約聖書を解釈していこうとする方法」である*25

Ennsの主張で重要なポイントは、『キリスト目的的』な解釈は旧約聖書の歴史的・文法的釈義だけからは導かれないということである。使徒たちは旧約聖書が導く救済史のクライマックスがイエス・キリストであることを既に知っていたが故に、特定の旧約テクストがイエスを指し示していることが(たとえ歴史的・文法的釈義からは導けなくても)分かったというのである。*26

 以上のことの故に、Ennsは、新約における旧約の使用法(もしくは引用法、解釈法)の特徴は「豊かな意味とひとつの目的(Fuller Meaning, Single Goal)」であると主張しているのである。
 そして彼は、新約著者たちと同じ終末論的希望を持っている私たちは、聖書を釈義する上で、新約著者たちのそのような解釈に倣うことが不可欠であるという結論を提示している*27

これまでのまとめ

 以上で紹介したニューズナーとEnnsの研究では、新約著者たちは第二神殿期のユダヤ教の解釈法に基づいてヘブル語聖書(旧約聖書)を釈義したことが示されていた。その解釈法とは、旧約本来の文脈における意味を探ろうとする字義的解釈に縛られたものではなく、より自由な敷衍的解釈法であった。また、その解釈法はイエス・キリストの生涯と教え(もしくはキリストの死と復活)を中心に実践されていた。
 そして、特にEnnsは、現代のキリスト者の聖書解釈も、そのような「キリスト目的的」な新約著者達の聖書釈義に倣うべきだと主張していることを見た。

後編について

 この前編では、「新約著者たちは字義的解釈に縛られていない当時のユダヤ教の解釈原則を用いていた」という主張を見た。後編では、「新約著者たちは当時のユダヤ教における聖書引用法を用いていたが、旧約聖書の字義的解釈を重視していた」という主張を主にFruchtenbaumのYeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspectiveから観察し、考察していく。

balien.hatenablog.com

*1:ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)9頁;太字強調は引用者による。
 なお、原著はGeorge Eldon Ladd, The Last Things: An Eschatology for Laymen (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans, 1978)

*2:前掲書、23頁

*3:前掲書、9–23頁

*4:同上;安黒務「『福音主義イスラエル論』─神学的・社会学視点からの一考察─」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会、2014年)103–4頁

*5:ラッド『終末論』20頁

*6:安黒「福音主義イスラエル論」104頁

*7:ラッド『終末論』23頁

*8:Michael J. Vlach, "New Testament Use of the Old Testament: A Survey of Where the Debate Currently Stands," Theological Studies (2011)

*9:Vlach, "New Testament Use of the Old Testament," 5-7.

*10:J・ニューズナー『ミドラシュとは何か』長窪専三訳(教文館、1994年)234頁
 なお、原著はJacob Neusner, What is Midrash? (Fortress Press, 1987)

*11:前掲書、235頁

*12:前掲書、53頁

*13:前掲書、62–72頁

*14:前掲書、64頁

*15:前掲書、66–7頁;太字強調は引用者による。

*16:前掲書、70頁

*17:前掲書、73–80頁

*18:前掲書、78–9頁

*19:同上

*20:Peter Enns, “Fuller Meaning, Single Goal: A Christotelic Approach to the New Testament Use of the Old in Its First-Century Interpretive Environment,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, Kenneth Berding and Jonathan Lunde, eds. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008) 167-217.
 なお、Ennsと同様な意見を提示している近年の邦語文献としては以下を参照のこと。山﨑ランサム和彦「新約聖書における使徒的解釈学─現代福音主義への示唆─」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会、2014年)33–54頁

*21:Enns, "Fuller Meaning, Single Goal," 174.

*22:Ibid. なお、文法的・歴史的解釈法もしくは歴史的・文法的解釈法については、拙稿「歴史的文法的解釈法についての覚書(1)」および「同(2)」参照のこと。

*23:Enns, "Fuller Meaning, Single Goal," 174.

*24:Id., 217.

*25:Ibid. この解説は山﨑「新約聖書における使徒的解釈学」46頁からの引用である

*26:前掲書、46–7頁;太字強調部は、原文では下線で強調されている箇所である。

*27:Enns, "Fulle Meaning, Single Goal," 217.