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聖書における「イスラエル」の意味(4)新約聖書での「イスラエル」の登場箇所

 前回(2)〜(3)までは、旧約聖書における「イスラエル」の意味を論じてきました。

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 そこで分かった旧約での「イスラエル」の用法は、以下の4つにまとめることができます。

  1. ヤコブの別称
  2. ヤコブの子孫である民族
  3. その民族から成る国家/王国
  4. (例外的に)メシア的人物

そして、旧約全体のナラティヴにおける「イスラエル」という存在は、2. および3. の意味をもって定義される*1ということを確認しました。
 今回からは、数回連続で「新約聖書における『イスラエル』の意味」を論じていきます。初回では、まずは新約聖書で「イスラエル」という用語が使われている箇所を確認していきましょう。

トピック

3.新約聖書における「イスラエル」の意味

3–1.新約聖書におけるIsraēlおよびIsraēlitēsの登場箇所について

 Fruchtenbaumは、「Israel」という言葉は新約聖書で73回登場するとしており、その調査結果を示して新約聖書における「イスラエル」の意味を論じている*2。ここでは、新約聖書Israēlイスラエル)およびIsraēlitēsイスラエル人)が登場する箇所を示し、そこから新約聖書における「イスラエル」の意味について論じていく。
 これ以降では、以下のリンク先に置かれているPDFファイルを参照していただきたい。

  DropBox:新約聖書におけるIsraēlおよびIsraēlitēsの登場箇所まとめ

表1新約聖書におけるIsraēlの登場箇所について、表2Israēlitēsの登場箇所について示したものである。また、表3にはIsraēlおよびIsraēlitēsの登場回数を計上した結果がまとめられている。なお、表12に示した結果は、NASB のギリシャコンコルダンスに基づいたものである*3
 表3に示されるように、新約聖書においてIsraēlは合計66箇所に登場する。Israēlitēsについては、合計9箇所に登場している。したがって、IsraēlおよびIsraēlitēsについての言及は総計75箇所の聖句に見られるということになる。表3における書物ごとの登場回数内訳を見たときに目立つのは、マタイの福音書、ルカの福音書—使徒の働き(以下ルカ文書)、パウロ書簡である*4。マタイの福音書では12箇所、ルカ文書では計32箇所、パウロ書簡では計15箇所にIsraēlもしくはIsraēlitēsが使用されている。
 マタイの福音書において「イスラエル」という概念に中心的な関心が向けられていることは、一般的に言われていることである*5。そのマタイの福音書において「イスラエル」という言葉が用いられている箇所では、それらはすべて民族的イスラエルへの言及を示している*6
 また、ルカ文書においても、メシアであるイエスとの関連において「イスラエル」という概念には特別な関心が向けられている*7。ここにおいても、「イスラエル」という言葉の用例の中で、その基本的概念の変更は見られない*8。特に使徒の働きでは、2章以降でキリストを信じる者たちの共同体である「教会」(ekklēsia)が誕生してからの記録*9において、「イスラエル」と「教会」がどのように使い分けられているのかを見ることができる。使徒の働きにおけるIsraēlおよびIsraēlitēsekklēsiaの用例を比較した結果は、Fruchtenbaumが次のように述べている通りだと言って問題はないだろう。

使徒の働きの中では、イスラエルと教会が同時に存在している。Israelという用語は20回[引用者注:IsraēlIsraēlitēsの使用箇所を合わせた回数である]、ekklesia(教会)という用語は19回使われているが、それでもこの2つのグループは常に区別されている。*10

 また、2–5.で指摘したように旧約聖書では頻繁に見られた「イスラエルの神」という表現は、新約聖書ではマタイの福音書とルカ文書においてのみ用いられている。
 次にパウロ書簡についてであるが、「イスラエル」の用例を確かめる上で特に重要なのはローマ人への手紙9–11章である。それは、ローマ人への手紙の中でIsraēlもしくはIsraēlitēsが用いられているのはこの3つの章の中だけであることからもわかる。また、パウロ書簡全体の中でも、この2つの用語はローマ人への手紙9–11章において最も多く使われている。ラッドが言うように、ローマ人への手紙9–11章は「神の贖罪のプログラムにおけるユダヤ民族の位置[が]詳細に論じ」られている部分であり、「たびたびパウロの主要な議論への一種の挿入と見られてきたもの[だが]、実は書簡の中心と理解されてもよいもの」である*11。この3つの章において、「イスラエル」が単なる民族的イスラエル以上の意味で使われているのではないか、と議論が分かれている箇所は9:6と11:26である。しかし、それ以外の箇所では、IsraēlおよびIsraēlitēsは明らかに民族的イスラエルを指して用いられている。9:6および11:26については、次回以降で詳細に論じられることになる。
 これまで特に言及したマタイの福音書、ルカ文書、ローマ人への手紙以外の書物におけるIsraēlおよびIsraēlitēsの用例についても、いくつかの議論が分かれる箇所を除いて、旧約聖書の「イスラエル」の基本的意味──民族的イスラエル──からの逸脱はほとんど見られない。
 Fruchtenbaumは新約聖書の「イスラエル」の意味について、彼自身による調査結果を次のように要約している。

新約聖書におけるIsraēlおよびIsraēlitēsの用例について]圧倒的多数が民族的イスラエルへの言及である。幾つかの少数の用例はユダヤ人信者を指しているが、それでも彼らは民族的にユダヤ人である。*12

 しかし、ローマ人への手紙9:6;11:26に加え、ガラテヤ人への手紙6:16、そしてヨハネの黙示録7:4;21:12については、先述の「いくつかの議論が分かれる箇所」として指摘することができるだろう。これら合計6箇所以外の69箇所では、新約聖書においてIsraēlおよびIsraēlitēsは明確に民族的イスラエルを指して用いられている。しかし、漸進的啓示の観点からすると、新約聖書においてわずかでも「イスラエル」の意味の変化が見られないかどうかを検証することは重要である*13。次回以降では、議論が分かれている6つの聖句について観察・考察を試みたい。

 「いくつかの議論が分かれる箇所」を論じていく上で徐々に明らかにされていくことになるが、(1)で取り上げた幾人かの神学者たちの主張からも分かるように、新約聖書における「イスラエル」の意味を考えていく上での鍵は「イスラエルと教会に関する議論の分かれる聖句の適切な理解」*14である。それは、次のような問いとして言い換えることもできる。「イスラエル」は民族的イスラエルに限って用いられる用語なのか? あるいは、民族を超えた信者の普遍的共同体(いわゆる「神の民」全体)にも適用され得る用語なのか?
 以上の問いに対して個人が何かしらの判断を下す際、大きな影響を及ぼす複数の聖書箇所の一例が、先に挙げた「いくつかの議論が分かれる箇所」である。したがって、上記の問いについて考えていくために、「いくつかの議論が分かれる箇所」について、その聖句の前後の文脈も踏まえながらなるべく詳しく論じていきたい。次回については、ローマ人への手紙9:6を取り上げる予定である。

*1:Fruchtenbaumは、「イスラエル」という用語を「イスラエルという用語は神学的にはアブラハム、イサク、ヤコブのすべての子孫を示す」と定義しています(Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 2)。

*2:Fruchtenbaum, Israelology, 684-90; Id., “Israel and the Church,” Issues in Dispensationalism, Wesley R. Willis and John R. Master, eds. (Chicago: Moody Press, 1994) 118.

*3:www.BlueLetterBible.org, NASB Greek Concordance, Strong's G2474 - Israēl; G2475 - Israēlitēs.

*4:Robert L. Saucy, “Israel and the Church: A Case for Discontinuity,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg, ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988) 245.

*5:R. T. France, “Matthew, Mark, and Luke,” A Theology of the New Testament, George Eldon Ladd, Donald A. Hagner ed., Revised ed. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1993) 218-28; Richard Longenecker, Biblical Exegesis in the Apostolic Period (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing, Co., 1975) 141-42; Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 1996) 185-89; ジョージ・エルドン・ラッド『新約聖書と批評学』榊原康夫・吉田隆共訳(いのちのことば社、2014年)182頁

*6:マタイにおいて見られる「イスラエル」の概念についてのより詳細な議論は、Michael J. Wilkins, “Israel According to the Gospels,” The People, the Land, and the Future of Israel: Israel and the Jewish People in Plans of God, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2014) 88-100を参照のこと。

*7:Fruchtenbaum, Yeshua, 192-201; Darrell L. Bock, “Israel in Luke-Acts,” The People, the Land, and the Future of Israel, 104; Ibid., 113.

*8:Ibid.

*9:実際に使徒の働きの中で教会を指してekklēsiaという単語が用いられるのは5:11からである。なお、「教会」の始まりの時期については、ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第4巻、森谷正志訳、宇田進監修(いのちのことば社、2006年)237–38頁を参照のこと。「教会」という存在そのものについては、後に「イスラエル」と教会の関係について取り扱う際に論じたい。

*10:Fruchtenbaum, “Israel and the Church,” 118.

*11:ラッド『新約聖書と批評学』178頁 Cf. Walter C. Kaiser Jr., “Jewish Evangelism in the New Millennium in Light of Israel’s Future (Romans 9-11),” To the Jew First: The Case for Jewish Evangelism in Scripture and History, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2008) 40-41.

*12:Fruchtenbaum, “Israel and the Church,” 120.

*13:以前提唱した旧新約聖書の解釈学的枠組みにおける1. および4. に則れば、旧約聖書において民族的イスラエルに物理的また霊的祝福の約束が契約という形で与えられている事実から、「イスラエル」の意味は新約聖書においても変更され得ないということが推測される。しかし、実際に新約聖書で「イスラエル」という語が数十回使われており、そのテキストを観察可能であるが故に、実データから推測の内容を検証することは義務であるといえよう。

*14:Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-Dispensational Theology (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1993) 195.