ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)
今回は「補足」として、1章1節の「いのちのことば」という表現の意味について取り上げます。
トピック
補足 1:1「いのちのことば」の意味について
A.「いのちのことば」という表現の解釈について
ヨハネの手紙第一1:1の「いのちのことば ho logos ho zōēn」という表現の解釈を巡っては、注解者の間でいくつかの見解に分かれている。この表現において、特に「ことば ho logos」が第四福音書の序文のようにイエス・キリスト御自身を指しているのか、それともイエスのメッセージ自体を指しているのか、そうした点で解釈の相違が生じているのである。
Thayerによれば、ギリシャ語のlogosには話すことに関連する意味(言葉、[誰かが]発言[したこと]、説教など)や、理性に関する意味(理由、記述、説明など)がある*1。したがって、七十人訳聖書では同様に言葉や発言を表すヘブライ語のdâbârなどの訳語として用いられている*2。また、新約聖書のヨハネ文書においては、logosがメシアであるイエスを表す神学用語として使われていることが指摘されている。したがって、ho logosという表現自体からは、それをイエス御自身であるとする解釈も、イエスのメッセージを意味するとする解釈も成立し得るのである。
ここでは、注解部の序論(1:1–4)における「いのちのことば」の解釈の補足を試みている。以下では、「いのちのことば」の解釈についての各立場について観察している。また、その過程でヨハネの福音書におけるho logosの意味からヨハネのlogos理解について確認している。そして、それらをふまえた筆者の「いのちのことば」の解釈を述べる。
B.第一の立場:「いのちのことば」はイエス・キリスト御自身を指している
英語訳聖書においては、「いのちのことば」がどのように表現されているかを観察することで、訳者がこの「ことば」をどのように捉えているかが推測できる。KJV、ASV、NIV、NASB、HCSBなどでは「the Word of life」となっており、「ことば the Word」はヨハネの福音書1:1と同様に大文字を使って訳されている。一方、NRSV、NLT、ESVなどでは「the word of life」と小文字が使われている。前者の場合は、訳者が手紙の「ことば」を福音書の「ことば」と同じ意味で捉えている可能性が高いものと考えられる。
Robertsonはヨハネの手紙第一1:1の注釈において、ヨハネの福音書1:1での「ことば」やヨハネの黙示録19:13の「神のことば」との比較から、ここでの「いのちのことば」もまたイエス御自身を指すものとしている*3。「しかし、彼[イエス]は『いのちのことば the Word of life』であり、神が受肉された方なのである。」
Sauerもまた「いのちのことば」をキリスト御自身であると捉えている*4。それをふまえて、彼は先行する4つの関係詞(初めからあったもの/私たちが聞いたもの/目で見たもの/じっと見、また手でさわったもの)も含めて次のような解釈を示している。
キリストは永遠の過去の初めから存在しておられた方である。イエスの地上における奉仕の間、著者によれば、使徒たちは彼の教えを聞き、必要とする者への彼の奉仕をその目で見、イエスにおいて受肉された、永遠のいのちをもたらす方である(v. 1)神のことばについて書いているのである。*5
彼によれば、序論の主題はイエス・キリストご自身である。そして、序文における4つの関係詞は、ヨハネたちがその受肉した「ことば」を実際に目撃し、その「ことば」との交わりを体験したことの証言なのである*6。
C.ヨハネの福音書における「ことば」の意味について
第一の立場では、「いのちのことば」の解釈について、ヨハネの福音書序文における「ことば ho logos」の意味に依拠していることがわかる。また、次回以降見ることになる第二の立場では、福音書序文における「ことば」と手紙における「いのちのことば」との相違点が指摘されている。したがって、「いのちのことば」の解釈をこの先進めていくためには、ここで福音書序文における「ことば」の意味について確認することが必要であるものと考えられる。
福音書序文における「ことば」のユダヤ的背景
ヨハネの福音書序文における「ことば」すなわちlogosの理解について、「学者たちはしばしば、ヘレニズムにおけるロゴスの概念に起源を見出そうと試みた」*7。そのようにヨハネの「ことば」理解をヘレニズム時代の哲学におけるロゴスという概念と結びつける試みは、教会史の初期にも見出される。ストア学派におけるロゴスは、ゴンサレスの記述を借りて端的に表現すれば、世界の中や人間の精神にある「秩序の原理」あるいは「理性の原理」を指すものである*8。初期のキリスト教信仰の護教家たちは「キリスト者が、彼らの信仰は道理にかなっているというだけでなく、どこでも誰にでも知られているどのような真理も、イエスにおいて受肉した同一のロゴスの働き掛けの結果であると」主張するようになった*9。殉教者ユスティノス(紀元100–162年頃)は、彼の護教論において、明確にストア学派的なロゴス概念をキリスト論に取り入れた。彼は「かつての哲学者たちが知っていたことは何であれ、彼らがロゴスから受け取ったものであり、したがって、かつての賢人たちは真理を語っていたのだからキリスト者であった、と主張していた」*10。すなわち、彼はイエス・キリストこそ真のロゴスであると見做していたのである。
一方で、ヨハネと同時代のヘレニズム世界におけるユダヤ人哲学者であるアレクサンドリアのフィロン(紀元前20/30–紀元40/50年)は、旧約聖書における「ことば dâbâr」および「知恵 hokmâh」の理解をギリシャ哲学的ロゴス概念に取り入れ、彼独自のロゴス理解を発展させた*11。Fruchtenbaumは、フィロンのロゴス概念を以下の5項目に要約して示している*12。
- ロゴスはeikon、神の像 the image of Godである。
- ロゴスはラビ的天使論で最も神に近い天使であるメタトロン Metatronに近い存在である。
- ロゴスは仲保者として、大祭司の働きをする存在である。
- ロゴスはpalaclete[助け手、あるいは弁護者]である。
- ロゴスは人ではなく、何か謎に満ちた、現実離れした存在である。
他にも、フィロンが神的ことば the divine word(ロゴス)と太陽を関連付けていることは、福音書1:1–4で「ことば」と「光」が関連付けられていることに類似している*13。このように、フィロンにおけるロゴス理解には、福音書で示されているヨハネの「ことば」理解と多くの類似点が見出される。一方で、福音書ではロゴスは明らかに人格的存在とされ、メシア的人物と同一視されているのに対して、フィロンにおいてはそうではない*14。このように、フィロンのロゴス理解とヨハネの「ことば」理解との間には、明らかな、そして大きな相違点も存在しているのである。また、Fruchtenbaumは、イスラエルの地におけるユダヤ教ではヘレニズム的ユダヤ教ほど比喩的解釈が発達していなかったことなどを指摘し、ヨハネの「ことば」理解の起源をフィロンのロゴス概念に求めることはできないと主張している。
使徒[ヨハネ]によるLogosの用法の起源は、フィロンの著作ではない。このガリラヤの漁師はあのアレクサンドリアの哲学者が行ったような人々のところへは旅をしていない。ヨハネのロゴス[理解]の根拠を巡っては、我々は彼が共に育ったユダヤ教、すなわちイスラエルの地のユダヤ教以外に見出す必要はない。その種のユダヤ教は多彩であったが、フィロンに代表されるヘレニズム的ユダヤ教とは区別されていた。*15
以上のことから、Laddはヨハネの「ことば」理解の研究における「近年の傾向は、その用語を旧約聖書の背景と照らし合わせて解釈することである」と言っている*16。このことについて、Bockは次のように述べている。
ことばというテーマは豊富な背景を持っており、そういった背景はヨハネがこの術語を選んだことにとって重要である。なぜならば、その術語は旧約聖書およびユダヤ教における次の4つの主題とよく比較され、また対照的だからである。その4つの主題とは、創造的な神のことば、知恵、トーラー[律法]、そしてユダヤ教のタルグムにおけるmemraである。ことばが受肉したというヨハネの概念は独特なものであり、この術語のユダヤ的背景からの重要な発展を表している。しかし、彼の聴衆たちはヨハネが用いた表現について何かしらの理解を持っており、彼の主張の性質とそこにおける対照の両方を正しく理解したはずである。*17
FruchtenbaumもまたBockと同様に、ヨハネのロゴス理解の起源はタルグムに見出されると主張している。
この使徒によるロゴス理解は、彼がヘブライ語聖書のアラム語訳および解釈であるタルグミーム[タルグムの複数形]によく親しんでいたことを示している。タルグミームにおいて、翻訳者たちが用いたMemraという言葉、そしてその言葉のタルグミームにおける用法こそが、我々がヨハネのロゴス理解の起源を見出すものである。*18
福音書序文で見られる「ことば」の概念については、以下のように様々な要素が見られる。
- 永遠的存在者である(1:1)
- 神である(1:1)
- 神とともにいた(1:1-2)
- 創造者である(1:3)
- いのちを有している(1:4)
- 光である(1:4、7-9)
- 人となって世に来た(1:10-11、14)
- 神のひとり子としての栄光を持っていた(1:14)
- 恵みとまことに満ちていた(1:14)
福音書序文において、以上のような「ことば」が内包している様々な要素が合理的・理論的に繋ぎ合わせられているとは言い難い。これは、ギリシャ哲学的な論法とは異なるものである。むしろ、ここでの「ことば」理解については、ブロック・ロジック的に「概念が、一つ一つのブロックのように固まりとしてまとまった思想の集合体」として表されている*19と見た方が適切であるものと考えられる。そして、ある概念に対してこのようなブロック・ロジック的表現がなされていることは、旧約聖書やユダヤ教の文書においては珍しいことではない。したがって、福音書序文における「ことば」という概念の表現方法を見ても、この術語はLadd、Bock、またFruchtenbaumらが言うように旧約聖書の背景やユダヤ教的背景と照らし合わせて理解されるべきであるものと考えられる。
*1:Joseph H. Thayer, Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded with Strong's Concordance Numbers, 11th Printing (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 2014[1896]) G3056.
*2:F. Brown, S. Driver, and C. Briggs, The Brown-Drive-Briggs Hebrew and English Lexicon: Coded with Strong's Concordance Numbers, 15th Printing (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 2014[1906]) H1697.
*3:A. T. Robertson, Word Pictures of the New Testament, in PC Software e-Sword X.
*4:Ronald Sauer, "1 John," The Moody Bible Commentary, Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham, eds. (Chicago, IL: Moody Publishers, 2014) 1975.
*5:Ibid.
*6:George Eldon Ladd, A Theology of the New Testament, Donald A. Hagner, ed., Revised ed. (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 1993) 661および中川健一『ヨハネの手紙 第一「救いの確信を得る喜び」』2016年聖書フォーラムキャンプ配布資料(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)3頁参照。
*7:Ladd, A Theolgy of the New Testament, 274.
*8:フスト・ゴンサレス『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳(教文館、2010年)287頁。また、Antony Flew, A Dictionary of Philosophy (Cavaye Place, London: Pan Books Ltd, 1979) 199も参照のこと。
*10:同上
*11:Ladd, A Theology of the New Testament, 275-76.
*12:Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective, Vol. 1 (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2016) 209-10.
*13:Ibid., 211.
*14:Ibid, 213-14.
*15:Ibid., 214-15.
*16:Ladd, A Theology of the New Testament, 274; cf. Robertson, A Harmony of the Gospels: For Students of the Life of Christ (New York: HarperCollins Publishers, 1922), 2.
*17:Darrell L. Bock, Jesus According to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2002) 410.
*18:Fruchtenbaum, Yeshua, 215.
*19:ブロック・ロジックについて、ウィルソンは「概念が、一つ一つのブロックのように固まりとしてまとまった思想の集合体として表され」るロジックのことであると説明している(マービン・R・ウィルソン『私たちの父アブラハム』B.F.P.Japan出版部訳(B.F.P.Japan、2015年)220頁)。彼によれば、これは「ヘブライ的思想をかたどってい」るものである。
聖書に見られるブロック・ロジックの例としては、三位一体論や、神が愛の神であり義の神であるという神論、御子が神であり人であるという受肉論、また(出エジプト記やパウロ書簡に顕著な)神の主権と人間の責任の関係などが挙げられる。したがって、ブロック・ロジックはキリスト教神学の教理においても重要な役割を果たしているものと考えられる。詳しくは、ウィルソン『私たちの父アブラハム』220-25頁を参照のこと。