軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「聖書信仰」を考える(前編)

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 あけましておめでとうございます。10月以来の投稿となってしまいました。ヨハネの手紙第一の釈義は着々と進めてますし、イスラエル論や携挙論なんかも少しずつ勉強を進めているのですが、何かとバタバタしておりまして、投稿できずにおりました。手軽なものも交えながら、なるべくコンスタントな投稿を心がけたいところではあるのですが……
 この久々の記事かつ新年の初投稿記事では、最近出版された聖書神学舎教師会編『聖書信仰と諸問題』(いのちのことば社、2017年)のレビューも含めて、「聖書信仰」について最近考えたことを分かち合わせていただきたいと思います。

トピック

1.はじめに

 私はかつて、自由主義神学的な聖書観から、福音主義的聖書観への転換を経験したことがある。そのような経験もあってか、「聖書信仰」や「聖書の無謬性」「聖書の無誤性」といったテーマについては、かねてより個人的関心を抱いている。最近にもこれらのテーマについて改めて考えさせられることがあったのだが、そんな折りに、聖書神学舎教師会編『聖書信仰とその諸問題』(いのちのことば社、2017年)が出版された。
 去る2016年末、ある学生団体のキャンプ中の聖書研究テキストを作成するという奉仕をさせていただいた。そこでのテーマは「キリスト者の一致」であった。それを念頭にテキストを作りながら、個人的には神学的立場が異なる諸グループが存在する中でどのように一致していくべきか、ということを考えざるを得なかった。このことを考える過程では、特に福音主義における「聖書観」の違いというものに着目させられた。神学的立場が異なる者同士の一致に関するキーワードのひとつは「愛ある対話」であると思うのだが、そのような「対話」のためには相手の立場に存在する諸前提を把握することが必要である。そして、神学的立場の違いは、聖書観の相違から生じていることが多々ある。こういったことから、自分自身が左記のような対話に努めていくためには、福音派において見られる種々の聖書観を把握し、また自分の聖書観を理論的に構築しておくことも必要であると認識させられた。
 以上のような個人的文脈の中で、『聖書信仰とその諸問題』については大いに関心を持って読むことができた。2014年、2015年と続けて「聖書解釈」や「聖書信仰」を扱う文献*1に触れてきていたこともあり、このようなテーマを継続して考えさせていただけていることには感謝である。
 本稿では、『聖書信仰とその諸問題』の簡易な書評と共に、私が「聖書信仰」について個人的に考えていた雑多なことを書き残しておきたい。拙いながらも、読者の皆様が「聖書信仰」を考えていくきっかけ、問題提起としてお役に立てれば幸いである。

 さて、書評及び種々の雑感を述べる前に、本稿における予備知識として、「聖書信仰」、「聖書の無誤性(infallibility)」及び「無誤性(inerrancy)」、そして「保守的聖書信仰」といった用語について整理しておきたい。

聖書信仰

 『聖書信仰とその諸問題』15頁において、赤坂氏はこの語は「最も簡潔に述べれば、聖書が誤りのない神のことばであるという告白に立ち、聖書の至高の権威を強調する信仰を意味する」ものであると述べている。

聖書の無謬性(infallibility)と無誤性(inerrancy)

 無謬性 infallibilityは聖書の「誤り得ない」性質を、無誤性は聖書の「誤りがない」性質を示している(16頁;以降、()内でページ番号のみ記載の場合は『聖書信仰とその諸問題』におけるページ番号を指す)。しかしながら、その「誤り得ない」もしくは「誤りがない」という性質の意味範囲は、「現実には使用者によって多様な意味を持たされて用いられてきた」。したがって、「これらの用語の使用と理解には注意深さが必要である」(17頁)。
 藤本氏は、たとえばウェストミンスター告白における「無謬 infallible」は「人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体」に関わることとされているが、その後保守的福音主義において「単に救いと信仰生活に関わることだけでなく、その歴史的記や著者性、果てはそこに描かれている文字通りのことすべてが神の誤りなき真理であると主張するようになる」と述べている*2。「そのとき用いられたのが『無誤』である。」*3

保守的聖書信仰

 前項で述べたように、「聖書信仰」を掲げる者の間でも、その「無謬性」の意味範囲は異なっている。ここでは『聖書信仰とその諸問題』の著者らの(そして私自身もほとんど同意している)聖書信仰を敢えて「保守的」と呼ばせていただきたい。その聖書信仰とは、藤本氏が批判している「保守的福音主義」における「その歴史的記述や著者性、果てはそこに描かれている文字どおりのことすべてが神の誤りなき真理である」という主張を含んだ聖書信仰のことである*4。具体的には、本書の著者らは皆アダムの歴史性を信じているように思われる。また、有神的進化論*5に基づいた創造を否定しているようにも推測される。
 ただし、このような聖書信仰にのみ「保守的聖書信仰」というレッテルを貼り付けることは、福音主義における聖書信仰に関する議論で有益な分類を提供できるとは考えていない。「聖書信仰」自体は幅広いものであるため、何をもって「保守的」と呼ぶことができるのかは慎重に定められる必要が有る。また、そのように一括りにできるかどうか自体が疑わしいこともある。
 ここでは、あくまで藤本氏が著書『聖書信仰』の中で主張されているような聖書信仰と比較して、『聖書信仰とその諸問題』の著者らの聖書信仰が「保守的」であるという意味で、便宜的にこのように呼んでおくこととしたい。

2.『聖書信仰とその諸問題』についての簡易な書評

 ここでは、『聖書信仰とその諸問題』において特に着目させられた章を紹介し、そこで述べられている傾聴すべき主張や、私個人が得た所感を述べさせていただきたい。その後に、本書を読むに当たっての留意点であると感ぜられた点について述べる。

赤坂泉「聖書信仰の諸問題」(13–44頁)

 赤坂氏は本書の最初の章において、1.で少しだけ触れたような「『聖書信仰』の諸側面」を述べた後、「日本における『聖書信仰』の軌跡」を簡潔に紹介されている。そういった概観的記述に続く「いくつかの課題」と題されたセクションでは、次のような言葉があり、藤本氏の『聖書信仰』を読んだ者にとっては興味をそそられる。

歴史の現実のなかで、人のことばを用いてご自身を啓示なさった神は、ことばを理解する力(知性)を人に与え、真理の教師としての聖霊の助けを備えて、人が神のことばを正しく理解できるようにしてくださっている。そう信じる。歴史的・文法的釈義の訓練と、聖書解釈における聖霊の働きへの信頼とは相補的、相乗的に働くものである。ところが、両者が相容れない、あるいは矛盾するかのような主張がなされることがある。
 後者を軽んじることは主知主義に引き寄せられる危険をはらむ。人間理性を絶対視して、神のことばを切り刻み、みことばを操るような態度に陥ることがあってはならない。
 前者を軽んじることは聖書の真理性を放棄する危険をはらむ。聖書記者に働いた聖霊の「霊感」と、聖書読者に働く聖霊の「照明」とを同一視するかのような態度で、聖書に何かを「付け加える」ことがあってはならない。
 どちらの極端に立つことも危険なことであって、相補・相乗的に働くものと理解して聖書のみことばに近づく態度が重要である。(35–36頁)

これは、「聖書解釈における歴史的文法的釈義の規範性を見直していこう」という近年の福音主義神学の流れの中で、思い起こされるべき重要な態度であるように思われる。
 次に、本書で扱われているような保守的聖書信仰に対して藤本氏が行われた(そのような聖書信仰の)哲学的前提に対する批判*6について、赤坂氏は次のように述べておられる。

 聖書信仰の前提を見つめ直すべきとの藤本満氏の問いかけは重要である。ただ、北米の福音主義が、啓蒙主義の理性主義的認識論とスコットランド常識哲学を前提としていることに気づかず、理性に対する全的信頼、言語に対する信頼をもって聖書の性質を論じてきた、という評価ははたして妥当か。神の実在を前提とし、聖霊の神性と活動を信じる福音主義において、そこまで言い切るのは極端ではないだろうか。(36–37頁)

聖書の命題性を追求することと、聖霊の働きに信頼することとは二律背反ではない。藤本氏は、スタンレー・グレンツの枠組みに準拠して、ポストモダンにおける「モザイク」的なあり方を推奨するが、異質なものの組み合わせとして、モザイクというよりも、本質的に内包する複数の局面ということができよう。(37–38頁)

こういった主張は、藤本氏がされているような保守的聖書信仰批判への応答の記録として非常に重要であるものと考えられる。(ただ、私個人の勝手な願望となってしまうのだが、赤坂氏には、こういった聖書信仰の哲学的前提に関する議論に絞った1章を執筆していただきたかった。)

津村俊夫「聖書信仰と批評学──『アダムの歴史性』」(81–113頁) 、児玉剛「聖書論と組織神学──ピーター・エンズのアダム論より」(114–57頁)

 津村氏は、聖書論における歴史批評学との関係をどのように捉えていくべきなのかという視点、また「聖書のテキストに聞く」という言語学的視点から「アダムの歴史性」を論証されている。そこでは、氏が既出の文献において主張されている「歴史性(時空性)を軽視することへの危険性」が論じられている。氏の主張をより詳しく知るには、以下の文献が比較的入手しやすく、参考になるだろう。

  1. 福音主義の聖書解釈──その方法論の確立をめざして──」『福音主義神学』第17号(1986年)40–57頁
  2. 福音主義における聖書釈義」『福音主義神学』第45号(2014年)5–32頁
  3. 『聖書セミナー No. 13 創造と洪水』(日本聖書協会、2006年)

また、本ブログにおける拙稿「歴史的文法的解釈法についての覚書(2)」においても、氏の主張を非常に簡易にではあるが取り上げているので、参考にされたい。
 一方で児玉氏は、「アダムの歴史性」を否定するピーター・エンズの聖書観を主な考察対象とし、組織神学的視点から「歴史的・個人的なアダムの存在を否定することにより、エンズは聖書の提示する救いの構図そのものを否定している」と主張されている(145頁)。エンズのように「出発点を聖書ではなく進化論とする」聖書論、すなわち聖書外の知見から出発する聖書論は、福音主義的(または伝統的)組織神学を否定するものだというのである(148–49頁)。これは、保守的聖書信仰に立つ者の側からはよくなされてきた主張と言えるだろう。しかし、こういった主張がエンズの聖書解釈に対する批判も交えながら行われている点で、注目に値する。

三浦譲「新約聖書における旧約聖書引用の問題」(158–201頁)

 本章は、山﨑ランサム和彦氏が『福音主義神学』第45号で発表された論文「新約聖書における使徒的解釈学──現代福音主義神学への示唆──」への応答といった性質を帯びている。山﨑ランサム氏は同論文において、現代の福音主義者たちは「使徒たちの解釈学的態度」から学び、「歴史的・文法的方法も包含しつつ、より自由で豊かな」聖書解釈学を確立するべきであると主張されている*7。三浦氏はそういった山﨑ランサム氏の主張に着目し、「『歴史的・文法的釈義』が唯一の正しい聖書解釈法なのか」という論点に対する応答を試みられている(168頁)。
 本章における応答は、主に予型論的解釈(特にマタイの福音書2:15におけるホセア書11:1の引用)をどう捉えるべきかという問題と、山﨑ランサム氏が紹介されているピーター・エンズの聖書解釈論における問題に論点が絞られている。この2点について三浦氏の主張の大きな土台となっているのは、Kenneth Berding and Jonathan Lunde, eds., Three Views on the New Testament Use of the Old Testament (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008)においてWalter C. Kaiser Jr.、Darrell L. Bock、Peter Ennsの3名が展開した「新約聖書における旧約聖書引用法」に関する議論である。氏が述べておられるように、この文献は山﨑ランサム氏の論文においても随所で取り上げられているが、Bockの立場については検討されていない。そこで三浦氏は、3者の主張を比較した結果、「カイザーの立場とエンズの立場の両極端」性*8を指摘し、「カイザーの立場の理解に困難が伴うとしても、すぐにエンズの立場に飛躍する必要はないのではないかと思う」と述べておられる(183頁)。

ボックは旧約聖書著者の意図と新約聖書著者の意図に「一つの意味」という連続性を認めながらも、聖書の究極的な著者である神は最終的に一つの文脈における対象だけではなく、いくつかの時間枠を超えた文脈における対象を示されると考える。神は歴史を通して先のテキストに表された計画を徐々に明らかにされ、後の出来事とテキストにおいてそれをさらに明瞭にされる。(183頁)

 また、氏は「山﨑ランサム氏の論点はエンズの主張の上に立ってのことなのではないか」と考察し(184頁)、その上でエンズの主張には留意点があることを指摘されている(185–86頁)。そのエンズの主張に関する留意点とは「そもそも聖書内の矛盾と思われる点を克服しようとするところから発しているように思えること」であり、児玉氏が既に提示された指摘と共通している。
 「『歴史的・文法的釈義』が唯一の正しい聖書解釈法なのか」という問いに関する三浦氏の答えは、以下の段落に要約されていると言えよう。

 エンズの主張は主に後続テキスト(新約)から先行テキスト(旧約)へのretrospectiveな方向性のみを強調しているように聞こえるが、むしろ新約聖書における旧約聖書引用問題に対してはprospectiveな方向性(先→後)とretrospectiveな方向性(後→先)の両方の方向性の理解が必要なのではないか。つまりは、これまでも福音主義者たちの多くは、ボックや[G・K・]ビールの表現を借りるならば「神学的・正典的読み方」(“theological-canonical reading”)/「聖書的・神学的アプローチ」(“biblical-theological approach”)を含んだ歴史的・文法的釈義に沿ってテキストを理解してきたのであり、これからもその方向性の中で歩むことができるのではないかと思われる。(195頁)

つまり、山﨑ランサム氏が現代福音主義神学における聖書解釈の行き方についてエンズが提示した方向性に可能性を見出されたのに対して、三浦氏はボックが提示した方向性に可能性に見出しておられるのである。
 「カイザーの立場の理解に困難が伴うとしても、すぐにエンズの立場に飛躍する必要はないのではないか」との三浦氏の問いかけには、全くもって同意したい。山﨑ランサム氏の論文で提起された問題については、私個人も拙稿「歴史的文法的解釈法についての覚書(2)」で応答を試みたことがある。同様な問題意識を持っておられる神学者の方の論文を読むことができ、嬉しい限りである。
 ただし、私としては、ボックの立場もまた問題を含むものであり*9、ボックの立場に飛ぶ必然性もないのではないかと考えているところである。たとえばマタイの福音書2:15におけるホセア書11:1の引用の問題については、ボックや三浦氏の議論に概ね同意するも、神がホセア書に込められた「何か」を、「ホセアも意図していなかった以上の完全な意味 sensus plenior」であると即座に結論づけることには、やや飛躍が見られるのではないだろうか。Vlachが言う通り、「ホセアが理解していなかった重要性を神が知っており、それを聖句に込められたこと」は認めざるを得ない。しかし、「重要性」と「意味」とはイコールではない。マタイが、ホセアが気づいていなかった「重要性」を霊感の下で認識したのであれば、ホセア書11:1にsensus pleniorを認める必然性はないように思われるのである*10

鞭木由行「キリストの権威と聖書信仰」(221–59頁)

 鞭木氏はこの章で、聖書の無誤性の根拠は、権威ある方であるキリストがそれを保証されていることだ、と論じておられる。これは、氏自身が語っているように「伝統的な聖書信仰の議論」である*11
 章の最後において、氏はこのように聖書の霊感及び無誤性の根拠をキリストの権威に置くことは、循環論法を超えたものであると主張されている(255–58頁)。その根拠は、信者が「キリストとの生ける交わり」に入れられているからであり、信者にとってのキリストに関する情報とは「聖書に基づきながら、同時に私たちの日々の経験」である(256頁)。氏が言わんとしていることはよく分かる。また、信者にとって、キリストとの交わりにおける経験は聖書釈義においても信仰生活(教理の実践)においても非常に重要である。しかしながら、キリストの権威に根拠を置いた聖書論が循環性を超えたものであるかどうかには疑問の余地があるように思われる。
 聖書「信仰」においては、交わりの体験における情報を根拠とすることは良い、と言えるかもしれない。しかし、無誤性の主張のような理論が含まれる聖書「論」においては、経験を根拠とすることはいささか心許ない。その経験が聖書論構築において有益であるということは、結局のところ聖書に書かれているキリストに関する情報と合致していることから判断される。であれば、キリストの権威を土台とした聖書論もまた、循環性を備えていると言わざるを得ないのではないだろうか*12
 読みながらこのような疑問点はあったのだが、私は鞭木氏が主張されているような「キリストの権威を土台とした聖書論」には改めて目が開かれるような思いを抱いた。特に、氏が結びで述べておられる次の言葉は、傾聴に値するものである。

かつて福音主義の中にも、聖書への信頼から、あるいは無誤であるから、霊感されているという考え方をした時期がありました。しかし、そのように考えることによって、いつの間にか合理主義と同じ前提に立っており、私たちの理性が判断規準となっていたのです。その結果、歴史批評額によって聖書の無誤が脅かされた時、十全霊感、言語霊感を主張できなくなってしまいました。私たちが聖書の権威を主張するのは、聖霊の自己証言とキリストの証言とに十分な信頼を置くからにほかなりません。それ以外のところに信頼を置くと、私たちは霊感説を割り引いていかなければならなくなってしまうのです。……聖書の神的権威の教理にとって、聖書と主イエスの言明を見れば、主イエスが聖書の著者を神と考えておられたことは明らかです。そこに私たちも立ち続けるべきでしょう。(258–59頁)

本書を読む上での留意点

 これまで述べてきた通り、本書はエンズによって従来よりなされており、最近になって山﨑ランサム氏や藤本氏らによってわが国でも展開されてきた「聖書信仰(或いは聖書論)の見直し」というテーマに対する応答という性格を持っている。したがって、本書をより良く理解する上では、彼らの著書(少なくとも、山﨑ランサム氏の「新約聖書における使徒的解釈学」と藤本氏の『聖書信仰』)を読んでおくと良い。それらの文献と並行して読むことによって、本書は聖書論に対するより保守的アプローチからの主張のまとめとして、聖書信仰に関する議論を展開するにおいてふまえるべき貴重な文献として認識されるのではないかと感じている。
 なお、このテーマに関して、米国でもやはり保守的聖書信仰に立つ者らによる論文集が2015年に出版されている(F. David Farnell, ed., Vital Issues in the Inerrancy Debate [Eugene, OR: Wipf and Stock Publishers, 2015])。先日こちらも入手したので、これからじっくりと読んでいきたいと思う。

*1:2014年には山﨑ランサム和彦「新約聖書における使徒的解釈学──現代福音主義への示唆──」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会)が、2015年には藤本満『聖書信仰──その歴史と可能性』(いのちのことば社)が発表されている。これらの文献で提示されている聖書解釈論や聖書観については、拙稿「歴史的文法的解釈法についての覚書(1)」〜「同(4)」及び「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(前編)」〜「同(補足その2)」で応答を試みている。拙ブログのカテゴリ「解釈学」を参照されたい。

*2:藤本『聖書信仰』21頁・注(7)

*3:同上

*4:ただし、藤本氏が「果てはそこに描かれている文字どおりのことすべて」にどのようなことまでを含めておられるのかは明らかではない。

*5:ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第2巻、安黒務訳、宇田進監修(いのちのことば社、2003年)152頁;アリスター・E・マクグラス『科学と宗教』稲垣久和・倉沢正則・小林高徳共訳(教文館、2009年)189–90頁

*6:保守的福音主義の合理主義的傾向に対する批判である。藤本氏は、聖書の権威と無誤性を土台として聖書の合理性を主張した古プリンストン学派のパラダイムが、啓蒙主義と合理主義に根差したものであるとして批判を行っている(藤本『聖書信仰』60–72;74–85頁)。

*7:山﨑ランサム「新約聖書における使徒的解釈学」50–51頁

*8:エンズの立場は「新約聖書の著者たちは旧約聖書の比喩的解釈・字義的解釈・非文脈的解釈を認め、かつ実践していた。現代の我々もまた新約聖書著者たちの解釈法に倣うべきである」といったものである(Enns, “Fuller Meaning, Single Goal: A Christotelic Approach to the New Testament Use of the Old in Its First-Century Interpretive Environment,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, 174, 178, 217)。
 一方でカイザーは、「聖書の『意味』はその(人間の)著者が込めた『単一の意味』のみである」といった主旨の聖書論を主張している。Three Viewsにおける彼の主張においては、新約聖書著者による旧約聖書引用の意図は、旧約聖書の著者が込めた「単一の意味」と完全に合致しているものとされている(Kaiser, “Single Meaning, Unified Referents: Accurate and Authoritative Citations of the Old Testament by the New Testament,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, 49)。

*9:拙稿「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その2)」における「Eclectic Approachの問題」を参照されたい。

*10:この点については、拙稿「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(後編)」を参照されたい。

*11:ピエール・Ch・マルセル「主イエスによる聖書の使用」内田和彦訳『聖書論論集』メリル・C・テニー=カール・F・H・ヘンリー共編、舟喜順一訳編(聖書図書刊行会、1974年)225–47頁

*12:ただし、理論体系における循環性は必ずしも批判されるべきであるとは思えない。それが理論として説明されるものであるか、そのような性質のものを含んでいる限り、閉鎖系になってしまうためである(アリスター・E・マクグラス『神の科学──科学的神学入門』稲垣久和・岩田三枝子・小野寺一清共訳[教文館、2005年]232–33参照)。さらに、その閉鎖系が構築される上で導入されている大前提までもが完全に説明可能な、非循環性の理論体系があるとは考え難い。