軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「誕生日の夜の回想」

はじめに

19歳になろうとしていた頃、加藤宗哉と富岡幸一郎の編集による『遠藤周作文学論集 文学篇/宗教篇』(講談社、2009年)を手に入れた。とりわけ『文学篇』の中にあった「誕生日の夜の回想」というエッセイは、私の心を掴んで離さなかった。それ以来、自分の誕生日が近づくとこのエッセイを開くのが恒例となっている。ほとんどの場合、その日が近づくとこのエッセイを繰り返し読み、心に浮かんだ考えについて日記を残し、その都度関連する書籍を読み漁る。そして、誕生日当日にもう一度このエッセイを読み、その時点までの思いをまとめて書き残すのである。

このエッセイは、1950年6月の作者のフランス留学を目前にして『三田文學』に発表されたものである。事実関係はどうあれ、本文最後では1949年4月22日にしたためられたことが記されており、すなわち、作者が26歳になった誕生日(1949年3月27日)の夜を回想したものであることを示している。

論じられている主題は、端的に表せば〈文学における日本的感性との戦い〉であると言えるだろう。第1章、第2章それぞれの最初の段落で、作者は瑞々しい烈しさをもってしてこの〈戦い〉への決意を表明している。

 警告は幾度も発せられたし反逆は幾度も繰り返された。僕等の先輩は日本文学の動脈硬化を切開しようと悪戦苦闘してきた。極端に言えば昭和の文壇史(文学史ではない)とは、切っても切っても再生する蜥蜴の尾にも似た文壇小説と懲りもせずその尾を破ろうとする革新者との闘いであったと言って差支えないであろう。僕等は今日まで汗牛充棟ただならぬ程の私小説是非を、またわが自然主義が如何なる原因で身辺小説風俗小説と堕したかという解説を、更にそれらの作家の現実が決して本質的現実でないという指摘をイヤという程読んできた。この頃またその繰りかえしが別の形で(だが本質的には同じである)営まれはじめている。にも拘らず日本的写実小説は超然として存続し、また今後も超然として存続するであろう。戦後派文学者のまいた種はどうなったのであるか。よし彼等の成果がまだ途上であったにせよ、その確信のうつくしい意志までが無残に断絶するのであろうか。

近代日本文学は、西洋文学が追求した自然主義を取り入れようと試みた。ある時代までの西洋文学において、その土台には受容・対立などいかなるものであれ、キリスト教なる宗教との関係が横たわっている。しかし、日本的自然主義文学はその土台をも取り入れることはできず、結局は「じめじめした霖雨状態」にある日本の「汎神的風土伝統」に還っていき、「身辺小説風俗小説と堕し」てしまったのである。こういったことはこの国でも事あるごとに批評されてきたものの、「にも拘らず日本的写実小説は超然として存続し、また今後も超然として存続するであろう」。そして作者自身が、この「全は個の延長であるという怠惰な汎神性に育てられた」、「人間と自然との間に存在論的差別を設けず、神々のなかにも人間性を敷衍しようとするように、外界と自己との境界線をすべて薄めてしまい動くことを何よりも恐れた日本的感性」が自分の中にも「地下水の如く流れ、誘い、愛撫している」ことを自覚している。彼はこれを恐れながらも、キリスト教を信ずる日本の文学者としてこの感性と戦い、〈日本のキリスト教文学〉を追求していかんと決意するのである。

 チボーデの文学史をよむ時、僕等はかの国で、一世代が後続する世代に渡すバトンの受け継ぎ方、伝え方の鮮やかさに驚くのだ。もし僕等を一九五〇年代と呼ぶならば、僕等のあと一九五五年代、六〇年代の青年は何を僕等からうけるというのだろう。もし僕等が今、ここで挫け、再び日本的写実文学日本的感性に屈服するままならば、彼等は僕等よりももっと深い無力感、宿命感を抱くに違いない。僕等が彼等に残すものがやくざな絶望感、うす穢い敗北感だけだとすれば、それは悲しいことだ。よし僕等の仕事が未完成であっても、少なくともある曙光、ある手がかりだけは続く世代のために作っておかねばならぬ。そうなのだ。まことにそうなのだ。二十六歳のこの誕生日の夜、僕はそれを決心しよう。

以上のような内容は、「神々と神と」、「堀辰雄覚書」といった遠藤の初期評論に一貫して流れているテーマのひとつであり、彼はこういった問題意識を持って渡仏した。〈神々と神〉、また〈東方と西方〉、〈有色人種と白色人種〉といった〈対立〉は初期遠藤文学の根幹を成しているものであり、この〈対立〉という文学的テーマが代表作『海と毒薬』や『沈黙』の結実に繋がっていくということは、今や数多の評論家によって語り尽くされている。

私にとっての大問題

初めてこのエッセイを読んだ時、もちろん内容にも興味を持ったが、まず惹かれたのは作者の鮮烈な決意表明それ自体だった。何か自分が追求したいテーマを持っていて、それについて「よし僕等の仕事が未完成であっても、少なくともある曙光、ある手がかりだけは続く世代のために作っておかねばならぬ。そうなのだ。まことにそうなのだ」と決心する遠藤の姿勢に、10代最後の1年を目前とした私は強く惹かれたのである。

その頃、私はリベラルな神学と遠藤文学の思想に影響された信仰から、福音主義的な信仰への転換を経験した直後だった。ということは、〈聖書はすべて神の霊感による御言葉である〉という福音主義への確信と信仰は与えられたものの、まだそれまで持っていたリベラル神学的な感覚を引きずっており、足下はぐらついていたのだ。だから、福音主義的な聖書の読み方は正しいのか、といったことは当時大問題だった。それから福音主義神学について色々と文献を読むにつれて、また福音主義に立つ様々な兄弟姉妹との交流を持つにつれて、私が福音主義に転換するきっかけとなった牧師はディスペンセーション主義なる神学的立場に立っていることを知った。私の〈福音主義的な聖書の読み方は正しいのか〉という問いは、ただちに〈ディスペンセーション主義的な聖書の読み方は正しいのか〉という複雑な問題に移行していったのである。

また、10代前半から遠藤の著作に親しんできたからには、〈キリスト教と文学〉というテーマはいつでも心のどこかに引っかかっていた。1年の内数回は、これを書いている今のように、このテーマが前に前に噴き出してくるのである。しかも、私はローマ・カトリックでもリベラル神学でもなく、聖書信仰を持つ福音主義者となってしまった。だから、〈福音主義者はいかにして文学に取り組むことができるのか〉ということは、私にとって第2の大問題となった。

以上のような2つの大問題について、今なお、誕生日が近づく度にこのエッセイを読み返しながら、みすぼらしい考えを巡らしているのである。

このブログを始めた当初の目的は、第1の大問題について考えたこと・調べたことの覚書をまとめておくことだった。終末論、イスラエル論など途中で放り投げたままのテーマもあり、今現在もこの大問題について勉強を続けている。だが現段階では、自分の言葉で論じることのできる主張は、このブログやツイッターでほとんど出し切ってしまったように感じている。

しかしながら、昨年頃から、もうひとつの大問題が噴き出してきた。既に述べたように、2つの大問題はずっと意識してきたのだが、もうひとつの大問題が今までにない程に、「お前さん、こちらは無視して進むのかい?」と煽りながら首を振り出したのである。

福音主義者と近現代文学

拙稿をお読み下さっている方々ならご想像がつくとは思うが、私は何か語り出すとすぐに「神学が〜」時には「文学が〜」と言い出す、つまらない人間である(もっとも、後者のテーマを分かち合える人は身の回りにほとんどいないのだが)。3年前、ディズニーランドに行った時でさえ友人と神学をやりたいということを分かち合っていたのだが、最後はやはり文学の話、そして遠藤周作の話になっていき、その友人から「やっぱり遠藤周作に行き着くんだねぇ」と言われてしまったのを思い出した。きっとそこでも、〈福音主義と文学〉というようなことを話していたのだと思う。

さて、福音主義と文学、あるいはプロテスタンティズムと文学というと、まず思い当たるのは内村鑑三の「何故に大文学は出ざるか」と「如何にして大文学を得んか」である。彼は持ち前の厳格さをもってして「日本国は世界的精神を養はざりしなり、故に世界的大文学は彼より出ざるなり」と述べる。その厳格さは「文学とは真面目なる職業なり、勇者の職業なり、文学は戦争なり、醜に対する戦争なり、不義薄情媚俗ゴマカシ主義に対する戦争なり」という一文にもよく表されている。

最近私は、プロテスタントとしてこの内村鑑三の精神を継いだ作家のひとりは、三浦綾子だったのではないかと考えさせられている。彼女は「『塩狩峠』の連載を前に」で次のように述べている。

朝日新聞文芸時評で、江藤淳氏が、私の小説「氷点」に文壇への挑戦を感じたと書かれてあった。私自身、それほど気負いもなかったように思うけれど、結果としてそのような評をいただいたということに私は、クリスチャンの生き方は、文学であれ、絵画であれ、また日常生活であれ、この世的なものに挑んでいるのだということを、改めて思い知らされた。内村鑑三先生の言葉を、私はこのごろ新たな思いで想い起している。

この発言をふまえて、佐古純一郎は「三浦綾子さんにとって、小説を書き、作品を発表するということは、『この世と戦う』ことなのである」という了解を示している(新潮社版『塩狩峠』解説参照)。キリスト者が「この世と戦う」目的は、その戦いによって我々が信じ、属しているイエス・キリストの栄光が表されることであり、それによって世の人々に〈良い知らせ〉を伝えていくことだ。だから、徹底して「あかしの文学」に取り組んだ三浦綾子が、「内村鑑三の精神を継いだ作家のひとり」だと思うようになったのである。

内村や三浦にとって、キリスト者の文学とは必ずしも日本的感性との対立を意味するのではない。神々と神、東方と西方といったあらゆる対立に強調を置いているのでもない。それは〈世〉との〈戦い〉なのである。聖書における〈世〉とは、ジョン・ストットヨハネ書簡に関する註解で述べたように、サタンの支配下にある「物質的世界の秩序や宇宙、地球とそこに住む人類全体」を指している。日本的感性だけではない、この〈世〉の性質自体が神とは相容れないものなのである。

だから、いかなる形であれ〈世〉における生を描く文学においてキリスト者が生を扱うときには、彼/彼女は〈世〉と対立し、戦う中での生を描かなければならないのである。

しかし、〈世〉と戦いながらもそこにおける生を描く時、作家は〈世〉を避けては通れない。それを凝視し、描写しなければならない。彼/彼女自身、〈世〉から離れた場所で戦いを繰り広げているのではない。その只中で、息衝きながら戦っているのである。彼/彼女は自らが戦うべき相手を描き、その中における生を描写し、以上のことを通して自らの戦いを表現していく。これはいかに難儀なことなのだろうか。

遠藤は、この葛藤を直感していたように思える。彼が正統的キリスト教信仰を持っていたか否かはともかく、彼はローマ・カトリックの教義を通し、この戦いを表明してきた西洋的キリスト教に包まれて育った。そして、作家として出発し始めた当時の彼の場合、日本文学の中でカトリック者がまず戦うべき相手として見出したのは、日本的感性だったのだ。先に述べた通り、彼は自らの内に戦うべき日本的感性が豊かに流れているのを実感していた。彼は自らがその中で生き、また自らの中にも流れているこの感性との戦いを文学として扱っていく上で、どれほど葛藤したのだろう。

その葛藤があったからこそ、遠藤は内村に抵抗した。内村は文学を〈世〉との戦いであると表明したその評論において、〈世〉に対する勝利や支配の絶対的確信を到達点としている、あるいはただ「神はそれを良しと見られた」被造物としてしか〈世〉を見据えていない古典文学しか扱っていない。〈世〉をその中から見据え、時にはその最も暗澹たる所から始めることもある近代文学には一切触れていない。この沈黙からは、敵意を持った無視が感ぜられるのである。遠藤の内村に対する抵抗は、この問題に集中している。少しく引用が長くなってしまうが、「内村鑑三と文学」というエッセイにおける彼の声に耳を傾けてみたい。

私は「宗教と文学」とを論ずる時の内村鑑三には、やはりどこかに文学を──少なくとも近代文学など糞くらえといった気持ちがあったのではないかと思う。彼は『いかにして大文学を得んか』というエッセイで、文体を論じ自然の観察をすすめ、あるいはゲーテやウォルズオスについて語っている。しかし、彼には「宗教と文学」の問題が、現代の宗教作家をくるしめている矛盾や、二律背反など糞くらえと思っていたにちがいないのだ。彼にとっては、「宗教のなかの文学」は存在したが、「文学における宗教」などは、あくまで拒否すべきものであったろう。

続けて、内村の「芸術と宗教」に書かれていることを受けた遠藤の声を引用したい。

「芸術と宗教とは全然その本領を異にする。芸術の本領は美であって、宗教の本領は義である」と彼は断定するが、その断定はわれわれもくつがえすわけにはいかぬ。問題は美、と義、とが調和できるかにかかっているのだ。だが鑑三はこの調和のねがいを、ただちに粉砕してしまう。「論より証拠」と彼は言う。「宗教に深きものは大体に芸術に浅くある」「芸術さかんなるときは宗教のおとろへるときであった」
 この論議は、彼がプロテスタントであるためだと思う。少なくとも彼はその時、西欧の中世の芸術を無視していたのである。しかし、その無視は別として、彼の論は少なくとも近代のわれわれには当たっている。そして彼は「芸術は多くの場合において信仰の妨害者である」とはっきり言い、真の芸術家は「芸術を宗教の侍女として使つた。彼等の芸術の偉大ないし理由はそこにあつた。それは義は美以上であつて、美は義につかふべきものであるから」と断定するのだ。

彼ははっきりと、「私は、このような断定のできる鑑三をうらやましいと思う。思いながら同時に抵抗する」と述べている。

「芸術を宗教の侍女として使」うべしという内村の思想は、分からないでもない。三浦が伝道のために「あかしの文学」を展開したのは、「文学をキリスト教の侍女として使った」と表現することもできるだろう。

しかし、〈世〉の中での、〈世〉との戦いという使命から考えるならば、キリスト教作家は、「堕落させてはならず、しかし嘘を言うわけには行かず、肉の要求を唆ってはならぬが、人生を偽造することは控えねばならず、この二つの深淵の間の狭い峰を渡らねばならない」というフランソワ・モーリアックの「小説論」を忘れることはできない。遠藤は「この二つの深淵の間の狭い峰」の追求を彼自身の文学とした。三浦は、彼女の「あかしの文学」のために祈り準備する中で、このような問題とぶつかったのだろうか。ぶつかったとしたら、どのように乗り越えたのだろうか。福音主義者と文学の問題について考えるとき、最大の興味はここにある。しかし、これを満足に論じている評論には中々出くわさない。はたしてこれは論ずる価値もないほど些細な問題なのか、あるいは……

誕生日の夜の回想

「誕生日の夜の回想」について書くつもりが、結局はそれに乗じた自分語りのようになってしまっているが、私にとってこのエッセイを読むことは、大切にしている2つの大問題(あるいはそのどちらか)を手に取り直し、まじまじと見つめ直すという1年に1度の儀式のようなものなのだ。しかし、この儀式は他の文章によっては達成されない。このエッセイだからこそ、どちらの大問題も、遠藤周作という作家との出会いがなければ起こり得なかったということを思い出させてくれる。聖書の読み方についても、日本人としてのキリスト教信仰の在り方についても、日を重ねるにつれて遠藤からは離れ、別の行き方に共感するようになっている。それでも考えを重ねていると、「やっぱり遠藤周作に行き着く」。自分の内に消せない影響を残していったこの作家と向かい合わざるを得ないのである。

26歳を迎えた「誕生日の夜」、遠藤は日本人としての彼とキリスト教との〈距離感〉を追求し続けることの決意を表明した。それは、〈世〉が提唱するある感性への、彼なりの宣戦布告であった。彼は肺が弱いことを様々なエッセイで嘆いているが、自分が見出したテーマを追い続けることに関しては尋常ならざる持久力を見せた。私も遺伝のためか呼吸器がそれほど強い方ではないのだが、遠藤とは違って、自分が持っているテーマを追求する持久力にも欠けている。情けないことに、あっちへこっちへと浮気しながら、時々2つの大問題へ還っていくのが精一杯だ。

しかし、時々こういった思考の世界へ還ってきて「やっぱり遠藤周作に行き着く」時に待ちかまえているのは、若き日に「もし僕等が今、ここで挫け、再び日本的写実文学日本的感性に屈服するままならば、彼等は僕等よりももっと深い無力感、宿命感を抱くに違いない」と痛烈に記した遠藤が、最後には宗教多元論という神々の汎神的風土に充ち満ちた『深い河』の世界に呑み込まれていったという事実である。この事実は、日本的な〈和の精神〉と表現されるものを尊ぶ論者から見れば、遠藤の〈勝利〉である──この〈和の精神〉なる思想は唯一神信仰を持つ者からすれば暴力的思想なのだが、ここで詳しく論ずる余裕はない──。しかし、唯一神信仰を持つ啓示宗教としてのキリスト教の観点からすれば、『深い河』は遠藤の〈敗北〉にほかならない。とりわけ、その立場の最右翼に位置するであろう福音主義からすれば、(あくまで作品上に表明された思想に関してであるが)遠藤は敗北者として映ってしまうのである。

この事実を前にすると、「遠藤さん、なぜですか」と大声で問いたくなる。文学青年と呼ぶことすら恥ずかしい私でも、確かに彼が刻んできた作品を通して、そして数多の評論家の言葉を通して、遠藤が歩んだ宗教多元論への道筋を頭では理解しているつもりだ。あるいは、彼自身がそれまで表明してきた信仰の内容や、作品に見られる思想的傾向の数々から、神学的理論的な説明をつけることもできるだろう。しかし、納得はできないのである。あの精神的に熾烈な留学体験を目の前にして、「よし僕等の仕事が未完成であっても、少なくともある曙光、ある手がかりだけは続く世代のためにつくっておかねばならぬ。そうなのだ。まことにそうなのだ。二十六歳のこの誕生日の夜、僕はそれを決心しよう」と述べたこの鋭く痛々しい決心の後の彼の足取りについて、私は納得することができない。

遠藤が「二十六歳のこの誕生日の夜」に残した宿題──それは〈日本の汎神的風土と唯一神論的精神との戦い〉というよりは、〈日本の文学あるいは広く芸術におけるキリスト者の戦い方〉という問題である──は、21世紀に生きる私たちがまだ取り組む価値があるものなのだろうか。私たちは、遠藤が生涯をかけて導き出した以上の答えを提出することができるのだろうか。私は彼に出会った後、ついぞ彼が作品の中で表明することはなかった、聖書をそのまま信じる信仰をいただいた。それは彼自身が承知していた通り、言葉など至らない、神秘的な領域の話である。しかし、私がその信仰をいただけた、そのことは何よりも確かなのだ。彼に出会った上で、このような信仰をいただけた。そういう私たちは、この作家が誰よりも深く文学史に刻んだ宿題に、どう取り組んでいくことができるのだろうか。無駄なあがきに終わってしまうのだろうか。私は彼について考えるとき、いつもこのような不安感に襲われる。しかし、彼が宣言したこの鮮烈な決心に心惹かれ、そしてこの決心が、芸術という領域でもイエスの栄光を輝かせるべきキリスト者にとってまだまだ必要であると信じてやまないのである。

私はここから、この作家の年齢をさらに辿っていくことになる。とてもとても彼になど、また彼を追いかけた数多の評論家たちにすら届かないのであるが、しかし彼のことが大好きな福音主義キリスト者のひとりとして、彼の決意を繰り返したいと願うのである。

「よし僕等の仕事が未完成であっても、少なくともある曙光、ある手がかりだけは続く世代のためにつくっておかねばならぬ。そうなのだ。まことにそうなのだ。二十六歳のこの誕生日の夜、僕はそれを決心しよう。」