軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(1)ミラード・エリクソン『キリスト教神学』

正直言って、最近はブログ記事の「ネタ」がない。いや、勉強しているテーマは色々とあるが、まだ記事を書けるほど呑み込むことができていない。しかし、折角はてなブログのアカウントまで作ったのだから、このままではもったいない。では、日記につけている読書の記録を少し整えて、手軽に記事にしてしまおう、と思いついた。

この読書記録は、書評のようなかしこまったものではない。当然感想などは書くが、同時に、その本との出会い、その本に影響された結果など、そういったことを中心に、気軽に書いていきたい。でないと、それなりに続けられる自信がないのである。あとは、正直に言ってしまえば、恥ずかしながら、しっかりした書評を書くことができるほど読み込んでいる本はそう多くないからだ……。

ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』宇田進監修(いのちのことば社

  • 第1巻・第2巻合本:安黒務訳(2010年)
  • 第3巻:伊藤淑美訳(2005年)
  • 第4巻:森谷正志訳(2006年)

最近、ブログでもやたらと「文学、文学」と吠えているが、好きなんだから仕方がない。確かに今、個人的な勉強の比重は神学よりも文学の方が大きくなっているけれども、続けてきている神学の勉強からそう外れたものでもない、と思っている。改めて大好きな文学から学ぼうとしているのは、組織神学では「人間論」や「罪論」と呼ばれている分野に関するものなのだ。

並行して聖書本文や神学書も読んでいるわけだけれども、「人間論」や「罪論」を勉強するために、久しぶりにミラード・エリクソンの『キリスト教神学』第3巻を開いた。この大著を開く度に、エリクソンがどこまでも聖書本文に立って神学理論(教理)を展開していこうとしている姿勢に感嘆させられる。読むとやはり面白く、夕食後や就寝前に第1巻からチマチマと読み直している。

神学書を「面白い」と表現するのは変かもしれないが、エリクソンを読むときの気持ちを表現する上で、どうもそれ以上に適切な言葉が思い浮かばない。

本書のどの章を開いても、著者はまず聖書本文とその諸解釈、あるいは諸学者の見解の吟味から始め、次にそれらの考察をふまえて改めて御言葉の釈義に立ち返り、そしてロジカルに福音主義的教理を提示する。こういった神学書を読むときに得られるものは様々だ。一面から言えば、著者が御言葉の研究──神学という営みにかけている情熱を感じて、心が熱くなる。もう一面から言えば、自分がある教理についてなんと浅はかな理解しか持っていなかったかと反省させられる。さらに他の面から言えば、著者の理論をふまえた上で、同じ紙面に示された御言葉本文に心打たれ、このような啓示によりご自分を顕された神をほめたたえたくなる。この最後の感動について、私は、聖霊エリクソンを用いて御言葉の理解を深めさせてくれたので、賛美に繋がっているのではないかと思っている。以上のように、この分厚い複数巻の神学書を読むときに心に巻き起こる種々の感情を考えると、一言で表そうとするなら「面白い」という言葉しか思い浮かばないのである。

私が本書と一番最初に出会ったのは、大学1年の夏ごろだったと思う。当時リベラル的な信仰で凝り固まっていた私は、ある福音的クリスチャンたちの学び会に参加する機会を得ていたのだが、そこで語られる聖書観と、それを教える牧師に非常に反発を感じていた。そこで、生意気にもよしその牧師を論破してやろうと考え、勉強を始めた。そこでどんな本を読み漁ったのか、詳細な記憶は残っていないが、ギュンター・ボルンカムの『新約聖書』を読んだことは覚えている。遠藤周作が『イエスの生涯』の執筆に当たって参考にしたということで、その新約学者の名を知っていたからだ。

いくつかリベラルな立場からの神学書を読み、しかし相手を論破するには相手の考え方をもっと知らなければ駄目だと思い、まずはその牧師の著作を熟読した。これがいけなかった。ボルンカムほど格調高い本ではなかったが(失礼!)、彼が信念にかける情熱を感じ、また福音的聖書理解について明瞭な説明を受ける中で、足下がぐらつきはじめた。次に、リー・ストロベルの『ナザレのイエスは神の子か?』を読んだのもいけなかった。「福音書のイエス物語は基本的に作り話」だと信じきっていたから、ストロベルの著書は衝撃的だった。他にも読んだ本は幾つかあったと思うが、決定的な一打を加えたのは、ストロベルと一緒に入手した本書の第1巻・第2巻合本、特に第1巻の第4章「神学と聖書の批評的研究」だった。

このひとつの章ですら書かれていることを理解できていたとは思われないが、次のことだけは強く記憶に残っている。そこでは、遠藤周作が当然の科学的前提として取り入れていた様式史批評や編集史批評の特色が、客観的に示され、評価され、そして批判されていた。今改めて第1巻の119頁を開いてみると、「批評学的方法を評価するためのガイドライン」という項目の中で、「循環論法の存在を見つける必要がある」、「根拠のない推測に対する警戒を怠ってはいけない」、「恣意性や主観性に気づく必要がある」といった箇所に古い赤線が引かれている。おそらく当時、余程印象に残ったのだろう。

様式史批評や編集史批評は、今や絶対的な、定理や公式のようなものだと思っていた基盤は、崩れ去ったように思われた。それで私は、自分が論破したいと思っていた牧師の著作に帰り、それから福音書を読み直しはじめて、それまでの自分が間違っていたとしか思われないという域まで追い詰められたのである。

こうして今の信仰を振り返ってみると、エリクソンが果たしてくれた役割は決して小さいものではない、と改めて思わされた。

第3、4巻を手に入れたのは、もっと後になってからだった。その頃、キリスト者学生会(KGK)の聖書研究会にも出入りするようになっていた。自分が先述の牧師を通して学んでいたのはディスペンセーション主義という立場に基づいた神学であるということを学んだ上で、KGKでの交わりにおいて、福音派のクリスチャンでも聖書理解が多様であることを改めて実感していた。

聖書研究会に参加する中で、ディスペンセーション主義から学んだ私と、そうではない兄弟姉妹たちとの間における主要な聖書解釈の違いは、終末論にあるとも実感した。おそらく既にそういったことを知識としては持っていたと思うが、やはり記憶に強烈に残っているのは、その実感の方である。そして、私のエリクソン大先生は終末論について何と教えているのだろう、と思い、教会論や終末論を扱っている『キリスト教神学』第4巻に手を伸ばしたのである。

読んでみると、エリクソンは、私たちと同じく千年期前再臨説を支持してはいたが、患難期前携挙などを主張するディスペンセーション主義的終末論に批判的であった。なんとなく予想していた通りではあったが、それでも困惑させられた。私には、患難期前携挙を含む終末論を説くメッセージを聞いて心が燃やされたという経験があったからである。そして直ちに、なぜ同じ福音派でもこのように終末論が違っているのだろう、どちらの解釈が正しいのだろう、という大問題が生じてきたのである。

別の記事で「私の大問題」のひとつとして、「私の〈福音主義的な聖書の読み方は正しいのか〉という問いは、ただちに〈ディスペンセーション主義的な聖書の読み方は正しいのか〉という複雑な問題に移行していった」ということを書いた。前者の問いに「否」と答えたかった私を追い詰めたのはエリクソンだったが、「然り」と答えられるような気になっていた私にさらなる追い討ちをかけ、後者の問いを突きつけてきたのもまた、エリクソンだったのである。そして、この問題を私の勉強のテーマとするために、アーノルド・フルクテンバウムの著作に手を出していったのであるが、そのことはまた別の機会に記したい。

こうして改めて振り返ってみると、エリクソンという神学者、彼が記した『キリスト教神学』という大著は、私にとって非常に大切な本であるということを認識させられた。何年か前、ある尊敬する兄弟が「エリクソンはもう古いでしょう」と言っていた。そうかもしれない。しかし、吟味してみればそうではないかもしれない。確かにこの本の背後にある「穏健なカルヴァン主義」という立場をも根本的に見つめ直し、諸前提の吟味から始まってエリクソンの神学に問いを突きつけるということは必要だと思う。そうでなければ、神学は科学的営みにはなり得ないだろう。

だが同時に、エリクソンが提示する神学とは異なる、何か新しい信念体系が出てきたとき、私たちは無闇矢鱈にそれに飛びつくようなことは避けた方がいいのではないか。まずエリクソンの理論をよく咀嚼し、その上で吟味しなければならない。私たちがエリクソンを批判することができるのは、その後である。

……と、大層な口を叩いてはいるが、私自身、エリクソンには賛同できない点もありながら、自分で言ったことを実践できてはいない。過去の記事でエリクソンが示したのと同様な教理に対する批判を書いたこともあるが、果たしてその時、私は充分にエリクソンを読み、咀嚼することができていただろうか。この度本書を再読しながら、そんなことを反省させられた。

いずれにしろ、私の細々とした神学の勉強は、エリクソンから多大な恩恵を被っている。今後も組織神学の書を読むとき、傍らには本書が置かれていることだろう。