こんなブログでも、閲覧してくださる方々がいらっしゃるのは、本当に有り難いことだ。当ブログのアクセス解析を覗いてみると、最もアクセス数が多いのは「遠藤周作の『沈黙』について」で、その後にはイスラエル、聖書信仰、ディスペンセーション主義に関する記事が続いている。タイムリーな本や、神学的にタイムリーな話題を扱えばアクセス数がぐんと跳ね上がるのは重々承知しているのだが、いつもいつもそういった話題を追いかけるのは疲れる。せっかく趣味で始めたブログなのだから、その時々考えていること、また自分が好きな話題で細々と書き続けていきたいと思う。
そこで、今回も懲りずに正宗白鳥である。ただし、最も最近読んだのは白鳥本人の作ではなく、白鳥に関するいわゆる作家論だ。山本健吉『正宗白鳥──その底にあるもの──』(昭和50年)は、白鳥の死後13年が経って刊行された。
山本健吉といえば、『私小説作家論』や『古典と現代文学』で有名な評論家である。その2冊は、私の愛読書でもある。それらの評論には、対象の内面にずっと潜っていって、本質を掴み取った末にゆっくり浮上してくるような、惚れ惚れするような深みがある。しかも、その筆致は明晰であって、記述にわかりづらさがない。深く重いテーマを美しい文章で記すことの難しさは、私のような素人には想像を絶するものである。だから彼の評論を読む度に、食い入るようにその文章を見つめ、感嘆してしまう。
この『正宗白鳥』の中でも、山本は白鳥の本質を掴み取ろうと、彼の内面にずっと潜っていくために悪戦苦闘している。『古典と現代文学』ほどの美文ではないかもしれないが、その悪戦苦闘を見抜かれないよう、さらりと記してしまうのが山本の凄いところだ。しかし、『古典と現代文学』の作家論版を期待する読者は、疑問を呈さざるを得ない。本書で山本は、白鳥の信仰の問題を、繰り返し、堂々巡りのように、似たような視点から問いかけ続けている。たとえば、懐疑者・白鳥が遂にキリスト教式の葬儀を挙げたという問題。たとえば、白鳥が青年期に感化されたという『浴泉記』。たとえば、白鳥が青少年期に感化された内村鑑三。たとえば、白鳥が読み込んだトルストイの短編『イワン・イリッチの死』……。
山本はこの評論に「その底にあるもの」という副題をつけている。では、「その底にあるもの」とは何か。彼は「あとがき」で次のように述べている。
ここでは「その底にあるもの」と傍題をつけたように、白鳥の文学の奥にその信仰の実体を探りたいと思ったのである。
白鳥の底にある「その信仰の実体」。山本はこれを探るために本書に収められている評論を記したというが、ここから分かるように、山本は白鳥が「信仰を持っていたか」といったことは論じようとしない。むしろ彼は、はじめから、白鳥が「終始変わらぬクリスチャンだった」という観点に立って、白鳥の「信仰の実体」を探ろうとしているのである。
それをふまえてみれば、山本が堂々巡りをしているのは仕方がないことなのだ。前回の記事で書いたように、白鳥自身の「信仰」が堂々巡りの末に行き着いたものなのだから。むしろ、私たちは山本のこの評論を読みながら、白鳥を読む時と同様に、同じことを繰り返しながらも実は、その度ごとに深みに降っていっている様相を見ることができるのである。遠藤周作は、この評論について「音楽でいえばフーガ」だと表現していた(『人生の同伴者』)。山本の評論が「バッハのフーガのように、こうきてまたこう、そしてまたこう……」と展開しているというのは、この本の面白さを表した至言だと思う。
さて、以前も触れたことだが、白鳥の死の間際でのキリスト教への回心を巡っては、当時の文壇において様々な議論がなされていたようだ。ある人々は、それは「かつてはその犀利を誇った彼の頭脳の老化現象と見た」。一方である人々は、「それを信仰の『復活』と見ず、彼はもともと本当に『棄教』したのではないから、キリスト教へ回心したのではなく、もとから変わらぬキリスト教徒だったのだ」と言った。山本は自身をもこれらの討議者たちに含めながら、次のように言う。
だが、今になって考えてみると、人の信仰という微妙な問題を、おくめんもなくよくもあれだけ論じられたものだと思う。それは魂の問題であって、外からひとが見透すことの出来る問題ではない。それを人は、あたかも思想の問題であるかのように、あるいは意識の問題であるかのように滔々と論じた。論者にとって、彼がキリスト教徒であるか否かということは、彼がマルクス主義者であるか否かということと、同じ問題であるかのようであった。だが、それは全く違った二つの問題なのである。一方は心の中のより深層の問題である。
彼が考えるに、信仰とは「魂の問題」であり、それは「思想の問題」や「意識の問題」などではない。ある人が「キリスト教徒であるか否かということは、彼がマルクス主義者であるか否かということと」は全くの別問題なのである。ある人がマルクス主義者かどうかは思想や意識の問題だが、信仰とは「心の中のより深層の問題」だというのである。つまり、信仰とは無意識に関する問題であり、人が意識の上に成り立つ理性のみによって何か決断を下したりする類のものではないのである。
だから山本は、白鳥の「生涯の終りにおける信仰告白を、その最後の言葉と見たのである」。続けて曰く、「そしてその言葉の真実に、言いかえればその信仰の真実に、私は賭けたのである。それが私の『白鳥は終始クリスチャンだった』という断定のもとづくところなのだ。」
ただし、私にとっては「白鳥が終始クリスチャンだった」という説には、やはり抵抗がある。私たちのような福音派のキリスト者にとって、「キリスト教徒」「キリスト者」「クリスチャン」という言葉には、大変な重みがある。私たちにとって、まことのクリスチャンとは、聖霊によって「イエスは主です」と言う者であり、「イエスは、のろわれよ」とは決して語ることのできない者である。その聖霊は、私たちの無意識の内に働き、その働きは意識へも及ぶ。その視点から山本説を顧みると、むしろ無意識と意識とを区別し過ぎているように思えるのだ。だから私は、「白鳥が終始求道者だった」と言い換えたい。山本の観察が正しければ、この生涯の求道者は、最後に道を見出し、求道者であることを終えたのである。
しかしながら、こういう評論がキリスト者ではない文芸批評家から出て来たのは、驚くべきことなのである。私たちキリスト者は、他人がキリスト教を語ると、とかくその表面だけを掬い取って神学的な議論を講じ、その人の内面に潜っていくことを苦手としている。その苦手の裏側には、ある人の内面などは神にしか分からないという謙遜もあると思うのだが、文学を得意とする者は、むしろ内面を探っていこうとする。山本の評論は、ある人物の魂を巡る問題において、文学者が功を奏した一例であると言えるのではないか。
だからこそ山本は、自身はキリスト者ではないにもかかわらず、求道者正宗白鳥が内村鑑三のキリスト再臨説に惹かれていったことの本質を見抜いているのだ。
白鳥がこのとき感動したのは、内村のキリスト再臨説や肉体復活説なのである。もっとも非合理、非論理な内村の教説なのである。理性をもってしてはうべないがたいこの教説に、白鳥は共鳴しようとする。死ぬべき人間存在であることを見据え、そこから出発して思考すれば、人間が永生を欲することの不可避は、どうしようもない。そして、そのどうしようもないものを棚に上げて、理性のうべなえることだけをうべなっていても、仕方がない。
キリスト教信仰は、確かに盲信ではない。そこには論理がある。しかし、その論理の前提として、「理性をもってしてはうべないがたい」信仰がある。たとえば、私たちキリスト者は、イエスが人であり神であることについて──すなわち受肉の教理について、聖書から説明することができる。あるいは、イエスの十字架と復活の意義について、イエスの再臨について、聖書から説明することができる。だがその土台、あるいは前提には、私たちがイエスを主と信じ、また主がお与えになった聖書の御言葉を信じているという信仰があるのである。
山本は、白鳥がその「理性をもってしてはうべないがたい」部分に惹きつけられ、そこにこそ自ら「如何に生くべきか」あるいは「如何に死ぬべきか」を求めようとしたことを見事に見抜いてみせたのだ。
惜しむらくは、山本が、概念の対立を避ける日本的精神のまま「アーメン」という最後の言葉に至った白鳥の信仰、これぞ日本的信仰だというところで筆を終えてしまったことだ。山本にとっては、これを当初からのゴールとして見据えていたのかもしれない。彼はこれまで一貫して、日本の文学から、日本人の心や文化といったものを読み解こうと試みてきた。だから、山本は、正宗白鳥という作家を題材にして「日本人にとって信仰とは何か」ということを問題とし、論じようとしてきたのだろう。
白鳥が本当に「日本的精神のまま」キリスト教信仰に至ったかどうかを判断することはできない。白鳥の晩年の著作からそれを推測することはできるが、山本自身が最初に述べていたように、最後の最後で明らかなことは、白鳥がキリスト教式の葬儀を望み、「アーメン」と言い残していった事実だけなのである。キリスト者としての視点からは、白鳥は「不可解な徴光」を見出したが、それでは終わらず、「法悦の光」にまで導かれたものと信じたいところだ。
そしてもうひとつ、キリスト者の視点からすると、「唯一つの絶対者への帰依から自然に生ずる心の傾斜」である「キリスト教の異端者、背教者、異教徒に対する仮借ない態度」は、それ自体がいちキリスト者の「信仰」に基づいた態度なのである。(ただし、聖書に見られる「異端者、背教者、異教徒に対する仮借ない態度」については、それが山本の言うようなものであるかどうかは改めて考える必要があるだろう。)これを否定する日本的「和の精神」は、それによっていちキリスト者の「信仰」を否定してしまうような、それこそ「仮借ない態度」、偽善的な態度だと言えないだろうか。
しかし、上記は附随的な議論である。何度も繰り返すが、真に認めるべきは、白鳥が最後はキリスト教式の葬儀を望み、「アーメン」という言葉を残して世を去ったという事実である。知性においてキリスト教への懐疑を徹底した白鳥が、最後は知性の限界を認識するに至り、「永遠の生命」への憧れを有するに至った事実である。年老いてから青春時代の師内村鑑三を述懐し、その聖書信仰に、しかも「再臨信仰」にすら意義を見出したという事実である。そして、本書全体をふまえるならば、これがキリスト者ではない文芸批評家によって記され指摘されたのだという事実である。
本書を読んで、私は、「日本人にとっての信仰とは」という問題を信仰生活において、神学において、また文学においても考えていくことに希望を抱いた。
山本健吉が「日本人にとって信仰とは何か」を考えて行き着いた正宗白鳥という作家は、聖書信仰や再臨信仰といったものに惹かれていき、おそらくはその部分に「如何に生くべきか、死ぬべきか」を見出したのである。
私たち福音主義者は、福音の使信は普遍的なものであり、「日本人にとっての信仰とは」という問題は、信仰の内容を問うものではないと信じている。しかし、文学の中で「日本人にとっての信仰とは」を突き詰めていくと、出て来る答えは信仰の内容まで変更せざるを得ないようなものが多かった。宗教多元主義に行き着いた遠藤周作において顕著であったように。また、キリスト教の土着化は、神学や宣教の上でも非常に厄介な問題である。特に「文脈化 contextualize」という言葉が流行している昨今においては、宣教は、福音の根本まで変えてしまうような土着化をも認めてしまう危険性を孕んでいるのである。
こういった諸問題の中で、白鳥の求道生活、そして山本の評論は、文学という視点から「日本人にとっての信仰とは」を考えていくとき、それはあくまで「福音の使信を信ずること」だという結論に行き着くことができる可能性を示しているのである。さらに、結局のところこの問題は「日本人に合うキリスト教とは何か」といったテーマではなく、「日本人として福音の使信を信ずること」や「日本人に福音の希望を伝えること」というテーマで展開されるべきではないか。そういった方向性を、山本の評論は示してくれるのである。