軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題

今年考えたことは今年のうちに言葉に残して、来年考えるテーマとしたい。
昨夜アップした記事は文学に焦点を絞ったものでしたが、今回は神学、それも、このブログで幾度も取り上げてきた終末論に関するテーマです。

一昨年投稿した「終末論についての覚書」シリーズが千年王国論でストップしたままですが、それは携挙論に対する考察を深めていないからです。そもそも各論の要約だけなら早く仕上げればいい話なのですが、やっぱり自分で考えていないと、どうも手を出しづらい。

それで、今自分が立っている患難期前携挙説の立場から、この理論に関わる前提で、まだ自分で考えていないものに疑問を投げかけてみました。この立場に特有な聖書神学的問題は、以下の内容で大体包括されると思います。来年は、記事としてまとめるかどうかはともかく、こういった問題にも真剣に取り組んでみたいですね。

トピック

はじめに

「携挙論」というと耳慣れない言葉かもしれませんが、個人的にはこの言葉を〈千年期前再臨説に立った終末論における、「携挙」という現象の性質、発生する時期、神学的意義などについて論じる項目〉という意味で把握しています。この携挙論に取り組む中で見解が分かれているのは、主に「発生する時期」について──つまり、信者が携挙されるタイミングについてです(携挙のタイミングによって分かれる各携挙論の紹介については、拙稿「『携挙』を考えるときの方法論」をご覧下さい)。

携挙のタイミングに関する諸見解における共通項

ただ、ここで改めて考えたいのは、携挙のタイミングに関する諸見解において、一致している点とは何か? ということです。第一に挙げられるのは、福音を信じているということです。携挙のタイミングに関する議論というと、とかく感情論から相手を裁くようなことになってしまいがちですが、どんな立場であれ、福音を信じて救われたキリストにある兄弟姉妹だということには変わりないのです。

次に、携挙のタイミングについて論じている人々の終末論は、千年期前再臨説で一致しています。ですから、地上には患難の時期がありますが、その後(もしくは最後)にイエス・キリストがこの地上に戻ってこられ、この地上にメシアの王国が建てられるのだという希望を持っています。

そして最後に、いわゆる「苦難の神学」についてです。患難期前携挙説では「教会は地上の大患難時代を通過することはない」と考えていますので、よく他の立場からは「では、教会は地上で苦しみを受けることはないのか! 患難期前携挙説では苦難の神学が欠如している!」と批判されがちです(参考:ロゴス・ミニストリーのブログ「患難期前携挙説への攻撃」)。しかし、患難期前携挙説は教会が地上で苦難を経験するということ自体を否定しているのではありません。ですから、信者が地上の苦難をいかに考えるべきかという「苦難の神学」については、携挙のタイミングが異なっても、大部分において一致することができるはずなのです。

携挙のタイミングについて考察する意義は何なのか?

ここまで考えてきて問われるべきは、携挙のタイミングを考察する意義は何なのか? また、携挙のタイミングに関する見解が、終末論にどのような影響を及ぼすのか? ということでしょう。これは、クリスチャンが抱いている終末論的希望に関わってきます。もし患難期前携挙説が正しければ、クリスチャンは、この地上にもたらされる大いなる患難を──神の恵みによって──通過することなく救われるのだ、という希望を持つことになります。仮に患難期後携挙説が正しければ、その希望の意味が若干異なってきます。クリスチャンも地上での大いなる患難を経験することになるが、再臨のキリストによってもたらされる御怒りからは逃れるということになります。また、後者においては、クリスチャンはそのような大いなる患難に備える必要が出てきますが、別の視点から言い換えると、そういう大患難の中でも神の恵みを味わうことができるのだ、という希望を持てることになります。つまり、クリスチャンが持つ終末論的希望の中での「強調点」が異なってくる、ということです。

したがって、携挙のタイミングについて考察することは、クリスチャンはどのような終末論的希望を抱いて生きることができるのか;クリスチャンが抱く終末論的希望の強調点はどこなのか、という点に行き着きます。これは信仰による希望の内容の問題ですから、信仰生活にも影響を及ぼすでしょう。さらには、患難期前携挙説の場合、信者でなければ地上の大患難を通過するのですから、伝道の動機により緊迫性が付加されます。(患難期後携挙説でもクリスチャンかどうかで地上の大患難をどのように受け止めるかが変わってくるので、伝道の動機における緊迫性が欠如してしまっているわけではありません。ただ、患難期前携挙説の方が、より緊迫性が強調されるということです。)

以上のことから、携挙のタイミングという問題は、確かに信者の信仰生活にも関係してくるものになっています。よって、携挙のタイミングについては、確かに最優先の神学的課題というわけではないのですが、完全に無視されるべき/不可知論的態度を取るべき問題でもない、ということができるでしょう。

それでは、患難期前携挙説という立場の内部から見て、聖書神学的に改めて問われなければならないこととは、どういったことなのでしょうか。以下では、前提となる諸概念序論的問題イエス・キリストの再臨に関わる問題患難期に関わる問題教会論に関わる問題その他の諸問題といった項目に分けて、箇条書きの形で様々な問題を提示したいと思います*1

前提となる諸概念

※以下の諸概念自体が常に問われ続けるべきものですが、解釈論と千年王国論の問題となってきますので、ここでは前提として置いておきたいと思います。

  1. 啓示の漸進的付与(漸進的啓示)
  2. 啓示の無矛盾性
  3. 旧約聖書の優位性*2
  4. 非置換神学
  5. 千年期前再臨説

なお、1. 〜3. については以下の拙記事も参考にしてください。

序論的問題

  1. 「携挙」という用語自体は何を意味したものなのか。
  2. 第一テサロニケ4:15–17および第一コリント15:51–54の厳密な釈義とそれに付随する諸問題
    1. 「携挙」という用語が示す事象は上記の聖句において認められるのか。
    2. 上記の聖句は、主に何を教えるために与えられているのか。

イエス・キリストの再臨に関わる問題

  1. 再臨を教えている聖句で使われている用語(parousiaなど)は、どのような概念を啓示しているのか。
  2. 聖書は再臨をimminentな出来事として教えているのか。
  3. 終末論において歴史的一般的に再臨として捉えられてきた出来事を、携挙と地上再臨に分割して捉えることは可能なのか;携挙と再臨が同時に起こる同一の出来事だと仮定せずに論じることは可能なのか。

患難期に関わる問題

  1. 信者が一般的に経験する患難と、患難期における患難を区別して考えることはできるのか。
  2. 信者が「御怒り」を免れるという概念(ロマ5:9;Iテサ1:10;5:9)について
    1. 信者はどのような意味で「御怒り」を免れるのか。
    2. 患難期において「患難」と「御怒り」を区別して考えることはできるのか。
  3. 新約聖書において「主の日 yom Yahwe」とはどのような性質を持っているのか。
  4. 「主の日」と患難期の関係;「主の日」と患難期を同定することはできるのか。
  5. ダニエル書における「七十週の預言」(9:24–27)について
    1. 第七十週を将来の特定の時期として解釈することはできるのか;第六十九週と第七十週の間に時間的ギャップを認めることはできるのか。
    2. 第七十週全体を患難期あるいは「主の日」と同定することはできるのか。
  6. オリーブ山の説教(マタイ24–25章;マルコ13章;ルカ21章)について
    1. マタイの記事とルカの記事における強調点の相違*3について、どのように説明する(調和させる)ことができるのか。
    2. ここでイエスが示しておられる終末論は、旧約聖書の「主の日」と関係しているのか。
    3. ここでイエスが示しておられる終末論は、ダニエル書の「七十週の預言」と関係しているのか。
    4. ここでは携挙について言及されているのか。
  7. 黙示録6〜19章について
    1. 黙示録を未来主義的に解釈することは妥当なのか。
    2. 黙示録の構造について;封印の裁き、ラッパの裁き、鉢の裁きなど、黙示録における各出来事をchronologicalに整理することは可能なのか。
    3. 封印の裁き以降の出来事とダニエルの第七十週の関係;どのようにして、封印の裁き以降の出来事が第七十週において発生すると説明するのか。また、各出来事を第七十週の前半と後半とに振り分けて説明することは可能なのか。
    4. 封印の裁き以降の出来事はオリーブ山の説教の終末論とどのように調和しているのか。
    5. 封印の裁き以降の出来事と「主の日」の関係;封印の裁き以降の出来事を「主の日」に含めることはできるのか。可能だとすれば、それは全体的に「主の日」に含まれるのか、それとも部分的に含まれるのか。
  8. 「主の日」と「主イエス・キリストの日」や「キリストの日」とは同じ概念なのか、それとも異なる概念なのか。
  9. 患難期(あるいは「主の日」)に関する聖句において、この概念のimminencyを認めることはできるのか。認められるとすれば、どのように受け止めればよいのか。

教会論に関わる問題

  1. 救済史、あるいは「神の民」という概念における「教会」には特異性が認められるのか。認められるとすれば、それはどのような特異性なのか。
  2. 患難期の聖徒に係る問題
    1. 患難期の聖徒と教会を区別して考えることはできるのか。
    2. 患難期の聖徒を教会と区別しない場合、それは患難期前携挙説にどのような影響を及ぼすのか。
    3. 患難期の聖徒を教会と区別する場合、信者に対する聖霊の働きについて、他の聖句と矛盾なしに説明することは可能なのか。
  3. 信者への裁き(キリストの御座の裁き)について、患難期前携挙説はIコリ3:10–15やIIコリ5:10などと矛盾しない説明を提示することができるのか。できるとすれば、他の携挙論における説明よりも優位性があるものなのか。また、その優位性はどのように説明されるのか。

その他の諸問題

  1. 栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題:これがイザヤ書65:20や黙示録20:7–10の釈義から導き出せるのかどうか、考える必要がある。
  2. 小羊の婚宴のタイミングについての問題:黙示録の構造という問題の中で、黙示録19:1–10の位置付けを考える必要がある。

*1:なお、ここで問題を抽出する上では「終末論と聖書預言に関する参考文献(3)携挙論」における各文献を参考にしたが、特にJohn S. Feinberg, "Arguing About the Rapture: Who Must Prove What and How," in When the Trumpet Sounds, eds. Thomas Ice and Timothy Demy (Eugene, OR: Harvest House, 1995), 187–210の内容に多くを負っている。

*2:旧新約でどちらかの啓示が劣るという意味ではない。旧約聖書で啓示された内容が取り消されたり、再解釈されたりすることはない、という意味である。

*3:前者は終末論的出来事、後者はエルサレムの崩壊に強調点が置かれている。