軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ヘブル的視点」についてのあれこれ(前編)

はじめに

このブログをお読みいただいている皆様は、「ヘブル的視点」、あるいは「ユダヤ的視点」という言葉を使って聖書を読もう、というような言葉を聞いたことがございますでしょうか。私はここ最近、交わりの中で、立て続けに「『ヘブル的視点』ってよく聞くけど、どういう意味なんだろうね」というようなことを聞かれ、それについて話す機会をいただきました。ある方は、この言葉に対して警戒心を抱いておられました。確かに、キリスト教界で一般的にこの言葉は耳慣れないものだと思いますし、耳慣れない言葉が持ち込まれたとき、警戒されることもよくわかります。

ともかく、良い機会ですので、ここらで一度腰を据えて、「ヘブル的視点」という言葉について考えたことをまとめておきたいと思った次第です。具体的には、まずこの言葉の意味を探っていき、この言葉に含まれる概念やこの言葉自体の妥当性を考えます。そして、この言葉を使うことは危険なのか、ということを考えたいと思います。
本稿は前編・中編・後編に分けようと思っていますが、この前編では主に「ヘブル的視点」の定義「ヘブル的視点」と聖書解釈の伝統について簡単に申し上げます。続く中編では「ヘブル的視点」による聖書理解の多様性、そして後編では「ヘブル的視点」というラベルを使うことは危険なのか?ということを考える予定です。

ちなみに、読者の皆様の中にはもうお分かりの方も多いかもしれませんが、私自身はこの「ヘブル的視点」という概念から大きな影響を受けています。そういう者の視点として、この記事をお読みいただければ幸いです。

※本文中【】内は、後からの追記部分になっております。追記・訂正内容の詳細は脚注に書かれておりますので、そちらをご参照下さい。

トピック

1.「ヘブル的視点」の定義

私が今把握している限り、「ヘブル的視点」あるいは「ユダヤ的視点」による聖書研究というものを強調し始めたのは、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ(以下ハーベスト・タイム)代表の中川健一氏だと思います。【私が今把握している限り、「ヘブル的視点」あるいは「ユダヤ的視点」という特定のラベルを使って、それらの視点による聖書研究を日本の教会に広めるのに貢献したのは、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ(以下ハーベスト・タイム)代表の中川健一氏だと思います。*1】。

ハーベスト・タイムのホームページでは、同団体の理念について「私たちは聖書をヘブル的(ユダヤ的)に理解します」と書かれています。その「ヘブル的(ユダヤ的)」理解の意味については、次のように述べられています。

私たちは時代背景、書かれた土地の文化、そして聖書全体における文脈をいつも確認しながら、聖書を字義通りに解釈します。

さらに、上記の内容については、次のように詳しく解説されています。

聖書の著者と私たちの間には、時間的・文化的・地理的隔たりがあります。当時の読者にとっては当然のことが、21世紀に生きる私たちには、意味不明ということがたびたび起こります。それゆえ、そこに書かれていることの歴史的背景を知る必要があります。
また聖書は、ユダヤ文化という文脈の中で書かれているため、当時の風俗、習慣、言語を知る必要があります。預言者たちの預言やイエスのたとえ話なども、中東のパレスチナ周辺の地形や気候、社会通念を前提に語られたものです。

さらに別のページでは、ハーベスト・タイムが「キリスト教ユダヤ的ルーツを持つ宗教である……それゆえ、聖書におけるヘブル的(ユダヤ的)解釈が重視されます」と考えていることが示されています。また、彼らが聖書を「字義通り」に解釈するということの意味については、次のように解説されています。

字義通りの解釈とは、散文は散文として、韻文は韻文として解釈するということです。著者が比ゆ的表現を採用していれば、その部分は比ゆとして解釈しますが、本来比ゆ的でないものまで象徴的、比ゆ的に解釈して、結果的に著者の意図とは異なった結論を導き出すことはしません。

以上のことから、私は「ヘブル的視点」について、「聖書のテキストを、書かれた当時の時代背景を考慮し、著者の意図通りに読んでいこうとする視点」と簡潔に定義したいと思います。

2.「ヘブル的視点」による聖書解釈の伝統

さて、ここでの「ヘブル的視点」の定義からわかるのは、この種の聖書理解のスタンスは特別なものではないということです。たとえば旧新約聖書66巻がヘブル的/ユダヤ的性質を持った書物であるという指摘については、既に幾度も指摘されてきていることです*2。そして、この言葉が使われていなくても、時代背景や著者の意図を考慮した聖書研究の重要性は(たとえ十分ではないにしても)広く説かれていることと思います。

特に聖書解釈学に関心をお持ちの方は、「ヘブル的視点」という聖書研究のスタンスと、「歴史的文法的解釈法」という解釈手法との間に関連性を見出すでしょう。ウォルター・カイザー氏は、歴史的文法的解釈法について、次のように述べています。

歴史的文法的という表現が示しているのは、……この解析手法が、テキストが書かれた本来の言語と、テキストの背景にある特定の文化的文脈の両方を重視したものだということである。*3

したがって、聖書がヘブル的/ユダヤ的性質を十分に備えた書物であるということをふまえると、私は「ヘブル的視点」で聖書を読むことと、歴史的文法的に聖書を読むということは、少なくともニアリーイコールの関係にあると思っています。

そして、この原語と歴史的背景の双方に着目した解釈手法は、宗教改革以降のプロテスタント神学において、特に改革派の伝統においては、間違いなく重要なものでした*4。したがって、「ヘブル的視点」というスタンスは、宗教改革の伝統から外れたものではないと見なすことができます*5

*1:2018年5月13日加筆訂正:筆者のFacebook上で以下のご指摘をいただきましたので、加筆訂正をさせていただきました。

〈「もし中川氏以前に「ヘブル的視点」という言葉が強調されていた例をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただければ幸いです。」

・・とのご質問がありましたが、私は、「中川氏が日本の教会の中に、この言葉を広めるのに貢献した」と言い換えたほうがよいと思っています。例としては、わんさとあります。

そして日本の中でも中川氏が広めるだけでなく、他のユダヤ人へのキリスト者の働きかけた団体や個々人はあるので、彼から日本に伝えられたということも、語弊です。

そして中川氏ご自身、かなり前からイスラエルやメシアニック・ジューとの交流がありました。その中で、アーノルド・フルクテンバウムの働きに触れ、そして彼を日本に紹介し始めました。そして彼の教えに基づいた聖書教育を始めたと認識しています。

その言葉が、日本の福音的教会の世界で、多くの人々に知られるようになったのは、中川氏の働きの影響は大きいですね。〉

訂正前の本文では「ヘブル/ユダヤ的視点」という特定のワードが伴う形でこの概念を広め始めたのが中川氏ではないか、ということを言いたかったのですが、そう捉えられない文章となっておりました。また、概念自体が彼個人によって広められたというように読めることも問題でありました。謹んでお詫び申し上げるとともに、以上のことをふまえて訂正させていただきました。

なお、もし中川氏以前に「ヘブル的視点」というラベルそのものが強調されていた例をご存知の方がおられれば、ご教示いただければ幸いです。

*2:たとえば、以下の文献が有益で参考になると思います。マービン・R・ウィルソン『私たちの父アブラハム』B.F.P.Japan出版部訳(B.F.P.Japan、2015年);R. Kendall Soulen, The God of Israel and Christian Theology (Minneapolis, MN: Fortress, 1996); Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds., The People, the Land, and the Future of Israel: Israel and the Jewish People in the Plan of God (Grand Rapids, MI: Kregel, 2014).

*3:Walter C. Kaiser, Jr. and Moisés Silva, Introduction to Biblical Hermeneutics: The Search for Meaning, rev. ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2007), 21.

*4:渡辺信夫「改革派」『聖書解釈の歴史──新約聖書から宗教改革まで』出村彰・宮谷宣史編(日本基督教団出版局、1986年)336–47頁;バーナード・ラム『聖書解釈学概論』村瀬俊夫訳(聖書図書刊行会、1963年)98–100頁。

*5:なお、歴史的文法的解釈法に対しては批判的見解もありますが(山崎ランサム和彦「新約聖書における使徒的解釈学」『福音主義神学』第45号[日本福音主義神学会、2014年]33–54頁;藤本満『聖書信仰──その歴史と可能性』[いのちのことば社、2015年])、多くの場合はこの解釈法を唯一の規範的解釈法とするか否かで議論が交わされているのであり、この解釈法そのものは依然として重要です。