軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ヘブル的視点」についてのあれこれ(中編)

以下の記事の続きになります。

balien.hatenablog.com

前編では、主に「ヘブル的視点」の定義「ヘブル的視点」と聖書解釈の伝統について、以下のことを簡単に申し上げました。

  • 「ヘブル的視点」とは、聖書のテキストを、書かれた当時の時代背景を考慮し、著者の意図通りに読んでいこうとする視点である。
  • 「ヘブル的視点」というスタンスは、宗教改革後のプロテスタンティズムの伝統から外れたものではない。

今回の中編では「ヘブル的視点」による聖書理解の多様性を取り上げます。そして次回の後編では「ヘブル的視点」というラベルを使うことは危険なのか?ということを考える予定です。

3.「ヘブル的視点」による聖書理解の多様性

「ヘブル的視点」という聖書理解のスタンスが特別なものではないという事実は、この姿勢をとっている者が福音主義の伝統から外れているわけではないということを意味しています。しかし、この事実にはもうひとつの側面があります。この「視点」が特別なものではないということは、このスタンスを採用している者によって、聖書理解にばらつきが生じる可能性をも示唆しているのです。

ハーベスト・タイムが採用している「ヘブル的視点」というのは、詳しく見ていくと、「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」であることがわかってきます。これはハーベスト・タイムの出版物から見てもわかるのですが、同団体のホームページを見てみると、次のように書かれています。

……私たちが長年、講師として日本にお招きしていたフルクテンバウム博士は、米国テキサス州に本部を置くアリエル・ミニストリーズの代表です。
ハーベスト・タイムは、アリエル・ミニストリーズと協力関係にあります。フルクテンバウム博士は、私たちのメンター(指導者、助言者)であり、私たちは博士から、ヘブル的(ユダヤ的)視点で聖書を読む方法を学んできました。

上記引用文に登場するアリエル・ミニストリーズユダヤ人宣教団体であり、「メシアニック・ジューの視点(Messianic Jewish Perspective)」からの弟子訓練も行っています。そして、同団体の代表アーノルド・フルクテンバウム氏は自らを「イェシュア(イエス)を自分のメシアとして受け入れたユダヤ人」、すなわち「メシアニック・ジュー」であると見なしています*1。ハーベスト・タイムの「ヘブル的視点」がフルクテンバウム氏の影響下にあることを考えると、彼らの「ヘブル的視点」とは、単に「書かれた当時の時代背景を考慮し、著者の意図通りに読んでいこうとする視点」というだけではなく、先述のように「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」であるといえるでしょう。

さらに言えば、「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」というものも一枚岩ではありません*2。フルクテンバウム氏の聖書理解は、基本的にはかなり保守的な福音主義に位置づけられ、さらに教会論や終末論については「伝統的ディスペンセーション主義」の影響を強く受けています*3

「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」の多様さを少しばかり覗いてみましょう。少々極端な例として、トルレイフ・エルグヴィン氏のスタンスを見てみましょう。彼もまた「聖書は神の言葉である」という信仰を持つメシアニック・ジューでありますが、聖書の年代や著者について、必ずしもテキストに明示されている姿勢にこだわっていません(たとえば、イザヤ書やダニエル書の著者問題、執筆年代の問題など)*4。この姿勢は、保守的なフルクテンバウム氏のそれとは一線を画しています。エルグヴィン氏は、聖書のテキストそのものの通時性と、著者やテキストの出来事の時空性の両方を含む「歴史」に着目しています。その過程においては、当然「言語」にも着目しています。その中で(特にテキストの通時性に関して)理解の違いが生じ、フルクテンバウム氏とは異なる聖書理解に至っているわけです*5

今度はフルクテンバウム氏とヨセフ・シュラム氏の「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」を比較してみますと、さらに微妙な違いが見えてきます。今度は、聖書理解について言えば、フルクテンバウム氏とシュラム氏は両者とも非常に保守的(西洋的プロテスタンティズムの用語を使えば「福音的」)な聖書観に立っています*6。また、両者とも共通しているのは、新約聖書の著者たちがラビ的ユダヤ教に見られる聖書解釈手法を旧約聖書に適用していた、と主張している点です*7。彼らは特に、新約聖書の著者たちはパルデス(PaRDeS、もしくはPRDS)と呼ばれる解釈手法を用いていると主張しています。

なお、パルデスとは「文字通りの解釈プシャット(Pshat)と、暗示を読み解くレメズ(Remez)、連想のドラッシュ(Drash)、そして秘密のソッド(Sod)」という「四つの解釈のレベル」の頭文字を取ったものです*8。やはりメシアニック・ジューのマイケル・ライデルニック氏は、このパルデスが「古典的なユダヤ人の聖書解釈法」であるとした上で、次のように述べています。

したがって、基本的なユダヤ人の解釈手法は字義的、比喩的、訓戒的、神秘的の4種類である。*9

話をフルクテンバウム氏とシュラム氏の比較に戻しましょう。両者ともパルデスの重要性を強調していることを確認しましたが、次に彼らは、パルデスのうち「文字通りの読みを意味するプシャット(pshat)を排除してはならない」と主張している点でも共通しています*10。また、両者ともに文脈から外れた寓意的解釈を否定している点でも一致しています*11

このように両者の釈義的枠組みの間には多くの共通点が見られるのですが、微妙な違いが存在しています。フルクテンバウム氏は、パルデスのうちレメズ、ドラッシュ、ソッドをそれぞれ「予型[的解釈]」、「適用」、「要約」と捉えており、特に最後の2つについては、厳密にテキストの意味の「解釈」とは区別しています*12。一方で、シュラム氏はパルデスの段階を踏んでいくことを、テキストの「解釈」の段階と同一視しています*13

以上のことから、両者は伝統的なユダヤ的聖書解釈手法を重視しつつも、シュラム氏の方が、よりラビ的ユダヤ教の文献に見られるものに近い聖書解釈の姿勢を取っているようです*14

これまで少々複雑すぎる観察をしてきましたが、以上のことから、フルクテンバウム氏の視点は、唯一の「ヘブル的視点」ではないということがわかります。彼自身が、メシアニック・ジューの視点からイエスの生涯を研究した著作『Yeshua』のタイトルに『The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective*15 と副題を付けているように、彼の視点はあくまでa Messianic Jewish Perspectiveであり、the Messianic Jewish Perspectiveではないのです*16

そして、持っている「ヘブル的視点」が時に大きく、時に微妙に違ってくれば、具体的な教理についても理解が異なってくるのは当然です。たとえばフルクテンバウム氏の終末論では、将来患難期の最後にイエス・キリストが再臨されるという「千年期前再臨説」と、クリスチャンはその患難期の前に天に挙げられるという「患難期前携挙説」が信じられています。一方、メシアニック・ジュー運動の中で影響力のあるデヴィッド・スターン氏は、聖書観はフルクテンバウム氏と非常に近く、終末論に関しても「千年期前再臨説」は支持しているものの、「患難期前携挙説」は支持していません*17

また、フルクテンバウム氏は「救いは信仰と恵みによる」ことを強調しつつ、モーセの律法はキリストの十字架によって終了したので、ユダヤ人信者に対しても強制力はなくなったのだと論じています*18。一方、やはりメシアニック・ジューの間で影響力があるダニエル・ジャスター氏は、「救いは信仰と恵みによる」という救済論では一致しつつも*19モーセの律法が廃止されたとは見なしていません。ジャスター氏の考えでは、信仰と恵みにより救われた者にとって、「律法は今度は御霊の力の下にある導き手、または教師として、新たな形でその姿を現」します*20。そして、次のように述べています。

今や、律法は、神の憐れみと恵みへの応答として、霊とまことによって漸進的に守られるものとなる。正しく適用されたモーセの律法を含む、聖書全体が我々の導きとなり、「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」なものとなるのだ(第二テモテ三・16)。*21

このモーセの律法に関する理解の違いに関しては、フルクテンバウム氏が持つ「キリストの律法」という概念と、ジャスター氏の律法理解のそれぞれにおける強調点の違いだと言うこともできるかもしれません。しかしながら、モーセの律法が廃止されたか否かについての見解の違いは、無視できないものだと言えるでしょう。

以上のことから、「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」は一枚岩ではないこと、またその「視点」が微妙に異なる結果として具体的な教理の理解も変わってくるということがわかります。「ヘブル的視点」というだけで自動的に何かひとつの聖書理解が導き出されるかというと、そんなことはないのです。

フルクテンバウム氏、エルグヴィン氏、シュラム氏、スターン氏、ジャスター氏といったメシアニック・ジューたちの聖書理解を比較していくと、いわゆる「ヘブル的視点」を持っていたとしても、史料の解釈によって、あるいは言語学的な視点によって、そこから導き出される聖書理解は異なってくることがわかります。もし理論的に「ヘブル的視点」が正確な聖書解釈への導き手だとしても、史料解釈、言語学的研究、種々のデータを聖書釈義に用いる際の論理学的考察など、その理論を実現させるためには議論を重ねるべき問題が山積みであるのが現実です。

ただし、ここでの目的は、ハーベスト・タイムの「ヘブル的視点」が「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」であることの善し悪しを論じることではありません。あくまで、「ヘブル的視点」というスタンスは特別なものではなく、またこのスタンスを取っても聖書理解の多様性が生まれるのだということです。そして、「メシアニック・ジューによるヘブル的視点」にフォーカスを当ててみたところで、そのことを示せたかなと思います。

*1:アーノルド・フルクテンバウム『ヘブル的キリスト教入門──メシアニック・ジューの歴史、神学、哲学から学ぶ』佐野剛史訳(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部、2016年)16頁。

*2:そもそも自らをメシアニック・ジューに位置付ける人々の間で、「メシアニック・ジュー」という言葉の定義が一致しているわけでもありません。参照:拙稿「メシアニック・ジュー運動に関する参考文献」(2018年2月18日)。

*3:フルクテンバウム氏自身、自らを(伝統的)ディスペンセーション主義者に位置付けている。Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, rev. ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992), 566; 2016年フルクテンバウム博士セミナー「ディスペンセーショナリズムとは何か─体系的な聖書理解を求めて─」(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)。

*4:Torleif Elgvin, “Messianic Jews and a Historical Reading of Biblical Text,” Mishkan 75 (2006): 2–14.

*5:解釈学の観点からいくと、エルグヴィン氏とフルクテンバウム氏のスタンスの違いは、テキスト解釈における「歴史的批判的方法 historical-critical method」と「歴史的文法的」方法の違いだという見方もできるかもしれません。歴史的批判的方法は、山崎ランサム氏が指摘されているように、歴史的文法的解釈法は「その基本的な方法論を、近代合理主義に源流を持つ歴史的・批判的方法に負って」おり、ある意味では「神学的に消毒された形の歴史的・批評的方法」であると言えます(山崎ランサム「新約聖書における使徒的解釈学」49頁)。一方で、両者の間には、「歴史」について通時的(あるいは発生史的)アプローチを強調するか、共時的(あるいは時空的)アプローチを強調するかという違いも見られます(参照:津村俊夫「福音主義神学における聖書釈義」『福音主義神学』第45号、11–12頁)。しかしながら、両者が多くの部分で重なる方法論であることは事実です。よって、ここで厳密な議論を展開する意義はないと思いますので、この問題については本文中では割愛させていただきました。

*6:ヨセフ・シュラム『隠された宝─イエス使徒たちが用いたユダヤ的聖書解釈法』石川田直二監訳(イーグレープ、2009年)110頁。

*7:Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective, vol. 1 (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2016), 10–44; シュラム『隠された宝』25–32頁。

*8:前掲書、29頁;Michael Rydelnik, The Messianic Hope: Is the Hebrew Bible Really Messianic?, NAC Studies in Bible & Theology (Nashville, TN: B&H, 2010), 115.

*9:Ibid., 115.

*10:シュラム『隠された宝』104頁;Fruchtenbaum, Yeshua, 11–19. Cf. Richard Longenecker, Biblical Exegesis in the Apostolic Period (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 197), 28–32.

*11:シュラム『隠された宝』29–32頁。

*12:Fruchtenbaum, Yeshua, 21–43.

*13:シュラム『隠された宝』29頁。

*14:Cf. Jewish Encyclopedia: The unedited full-text of the 1906 Jewish Encyclopedia, “Bible Exegesis,”, accessed 2018-04-19.

*15:強調は引用者による。

*16:なお、メシアニック・ジューの神学的多様性については、Richard Harvey, Mapping Messianic Jewish Theology: A Constructive Approach (Carlisle: Paternoster, 2009)をご参照ください。また、次の文献では、聖書論から日常生活に関することに至るまで、フルクテンバウム氏やライドリック氏も含めた、自らをメシアニック・ジューに位置付けている人々が様々な見解を提示しています。Dan Cohn-Sherbok, eds., Voices of Messianic Judaism: Confronting Critical Issues Facing a Maturing Movement (Baltimore, MD: Messianic Jewish Publishers, 2001).

*17:たとえば、スターン氏による黙4:1注解を参照のこと。David H. Stern, Jewish New Testament Commentary (Clarksville, MD: Jewish New Testament Publications, 1992), Kindle locations 22542–22600.

*18:フルクテンバウム『ヘブル的キリスト教入門』99–113頁。

*19:ダニエル・ジャスター『メシアニック・ジュダイズム』行澤一人監訳(マルコーシュ・パブリケーション、2004年)172–77頁。

*20:前掲書、178頁。

*21:同上。