軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「ヘブル的視点」についてのあれこれ(後編)

以下の記事の続きとなります。

balien.hatenablog.com

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前回、前々回では、以下のことを申し上げました。

  • 「ヘブル的視点」とは、聖書のテキストを、書かれた当時の時代背景を考慮し、著者の意図通りに読んでいこうとする視点である。
  • 「ヘブル的視点」というスタンスは、宗教改革後のプロテスタンティズムの伝統から外れたものではない。
  • 「ヘブル的視点」に立っているとしても、聖書理解や教理の理解には多様性が生じる。

後編では、「ヘブル的視点」というラベルを使うことは危険なのか?ということを考えていきます。

トピック

4.「ヘブル的視点」というラベルを使うことは危険なのか?

まず標記の問題について考える前に、「ヘブル的視点」という呼び名は、この聖書理解の姿勢の実質を表しているかということに触れておきたいと思います。これは重要なことです。もし呼び名が実質を表していなければ、その用語を使うことは、聞き手に誤解を与えてしまうことになります。たとえば「ディスペンセーション主義」について、その名前が神学的立場の最大の特徴をうまく表していないのではないか、という感想を先日ポストしました。未だに「ディスペンセーション主義」というと、この立場が持っている「時代区分」という側面ばかり強調されることが多いのは、その名前と実質が乖離しているからだと思われます。

では、「ヘブル的視点」についてはいかがでしょうか。これまで述べてきた事柄──「聖書のテキストを、書かれた当時の時代背景を考慮し、著者の意図通りに読んでいこうとする視点」という定義と、聖書がヘブル的性質を備えた書物であるということ──以上をふまえると、この呼び方は、十分に概念の実質を表していると思います(もちろん、完全とは言いませんが)。したがって、この呼び名、というか「ラベル」自体は悪いものではないと思うのです。ラベル自体が悪いのでなければ、このラベルを使うことが危険なのかということについては、要は使い方の問題となっていきます。

改めて申し上げますと、「ヘブル的視点による聖書理解」という概念自体は異端的ではない──つまり、キリスト教の伝統から大きく外れ且つ聖書から擁護しきれない類のものではないならば、この概念そのものが悪いとはいえません。すなわち、この概念自体は危険とは言えません。

結局のところ、他の様々な神学用語やクリスチャン用語についてもそうですが、このラベルの使い方によって交わりに寄与できることもあれば、交わりを破壊することもできるのです。もし、自分が他のクリスチャンよりも優れた聖書理解を持っているというような傲慢さから「ヘブル的視点」という言葉を使って交わりに入っていくならば、このラベルは交わりを破壊する剣となってしまうことでしょう。

私のように「ヘブル的視点」という概念を受け入れている方は、以下の点について、念頭に置いておくべきだと思います。第一に、「ヘブル的視点による聖書解釈」は、特別な読み方ではないということです。これは、たとえばこの読み方を提唱するハーベスト・タイムのホームページでも強調されていることです。第二に、「ヘブル的視点による聖書解釈」が、必ずひとまとまりの聖書理解に帰結するわけではない、ということです。私たちは、「ヘブル的視点」がもたらす聖書理解が必ずしも一様ではないことを理解すべきです。以上のことは本シリーズでこれまで申し上げてきたことの繰り返しですが、いくら強調してもし過ぎることはないと思います。

たとえば「聖書のテキストを、時代背景や原語の意味をふまえて読んでいくと、とても楽しいよ!」というようなこと(もっと良い言い方はないか…笑)を、上から目線ではなく、相手の聖書研究を否定するのでもなく、純粋に分かち合っていくとき。そういった時に、簡潔に分かち合う手段として「ヘブル的視点」云々と表現することが有益ならば、使っても構わないと思います。要するに、交わりにおいてこの言葉を使おうとするとき、そこに傲慢さが潜んでいないかどうかが重要なのです。

この記事を準備している最中、「ヘブル的視点」を推進しているハーベスト・タイムの月刊誌の最新号で、まさに「ヘブル的に聖書を読む」と題した巻頭言が掲載されていました。当該記事における中川氏の結論は、先に筆者が申し上げたことと、重なるものがあります。

 最後に、ヘブル的読み方の祝福を味わっている方々にひと言。聖書研究をする際に最も重要なことは、謙遜になることである。パウロは、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」(1コリ8:1)と書いている。これは重い言葉である。聖書信仰のゴールは、「愛」である。このことを忘れて、他の兄弟姉妹たちに対して優越感を覚えるとするなら、その人は、信仰の目標を見失っている人である。聖書研究の実は、「愛」と「謙遜」である。*1

おわりに

結論として、以下のことを改めてまとめておきましょう。

  1. 「ヘブル的視点」とは、聖書のテキストを、書かれた当時の時代背景を考慮し、著者の意図通りに読んでいこうとする視点のことである。
  2. 「ヘブル的視点」による聖書解釈は、聖書解釈法においてそれが唯一の選択肢ではないが、十分に伝統的な方法論であり、特異なものではない。
  3. 「ヘブル的視点」によれば、唯一の規範的聖書解釈に必ず辿り着けるわけではない;「ヘブル的視点」(あるいはそれと同等な視点)に立っているとしても、聖書理解や教理の理解には多様性が生じる。
  4. 「ヘブル的視点」という呼び名や、概念そのものは危険ではない。しかし、使い方によって交わりを豊かにする耕具にもなれば、交わりを破壊する武器にもなり得る。

最後の最後に、本稿を書くに当たって頭の中にあった雑感を申し上げたいと思います。

聖書の時代背景をふまえるということ、またその原語の意味をふまえるということは、実際に取り組んでみると並大抵の労力でできることではありません。しかしながら、専門家でなければそういったスタンスで聖書を読むことはできないか、あるいは読んではいけないのかと言われると、それは違うと思うのです。

私たちは専門家ではないとしても、信者として御言葉を読み、知り、学ぶことが求められています。神は、キリストの体において、専門家ではない信者が御言葉を知る上で助けとなるための賜物をもお与えになりました。その賜物が与えられた者が、教会では御言葉からメッセージを語ります。あるいは、その賜物が与えられた者を通して、辞書、注解書、神学書など、数多の聖書研究ツールが与えられています*2

ただ、それらはあくまで、私たちが御言葉に親しみ、御言葉を知り、御言葉を学ぶための手助けです。御言葉は御言葉それ自体で完成しているのであって、そういった助け手が御言葉を規定していくわけではありません。私たちは大いに助けられると同時に、そのこともふまえておく必要があります。

「ヘブル的視点」による聖書研究について改めて文章化してみると、非常に困難な道、いや不可能な道に思えてきます。しかし、私たちが賜物を持つ方々の助けも借りながら御言葉を学び、それによってキリストの似姿に変えられていくステップを歩んでいくために、私たちには御霊が与えられているのです。これまで色々と書いてきましたが、御霊に大いに信頼を置いて、楽しんで聖書を読んでいこうではありませんか。

*1:中川健一「ヘブル的に聖書を読む」『月刊ハーベスト・タイム』Vol. 386(2018年5月)2頁。なお、太字強調部は原著者による。

*2:ちなみに。「ヘブル的視点による聖書解釈」にはメシアニック・ジューの知見しか用いられないというのは大きな誤解で、そういった考えは危険です。たとえばメシアニック・ジューによる「ヘブル的視点での聖書解釈」においても、同じキリストに属する異邦人信者たちによる貢献は無視できません。フルクテンバウムやジャスターの著作において、ユダヤ人による研究と同時に異邦人信者の研究もまた大量に用いられていることはその好例であるといえるでしょう。