軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ディスペンセーション主義から見た旧新約聖書の「連続性」(Michael Vlach)

クリスチャンのブロガーさんの中には、ディスペンセーション主義の視点を提供しているサイトとして本ブログの「ディスペンセーション主義について」のカテゴリページや各記事をご紹介下さっている方々がいらっしゃいます。この場をお借りして、心より感謝申し上げたいと思います。

同時に、そのようにご紹介いただいている以上は、内容を少しでも充実させないといかんな、と思わされております。笑

幸いなことに、ディスペンセーション主義ではない立場からこの体系を論じていく試みは、日本の兄弟姉妹の方々からも多くなされています。ですので、本ブログではなるべく、この体系からの視点自体情報として残していけたらと思います*1。それが、他のブロガーさんたちが発信されている情報と合わされることで、キリストの御体をたて上げていくために用いられていくことを願っている次第です。

さて、能書きはこれまでとしまして。ディスペンセーション主義の視点を情報として残す上では、この立場に立っている者の主張をそのままご紹介するのがひとつの方法だと思います。ですので今回は、ディスペンセーション主義者である米国The Master's Seminary神学教授のマイケル・J・ヴラック(Michael J. Vlach)氏のブログ記事を(拙い^_^;)翻訳でお届けしたいと思います。元記事はこちら↓

mikevlach.blogspot.jp

本稿は、旧新約聖書の間に見られる「連続性(continuity)」について、ディスペンセーション主義者の視点から簡潔に論じたものとなっています。

なお、同様な内容は(一部改訂された上で)Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, revised and updated edition (Los Angels: Theological Studies Press, 2017), pp. 75–79にも掲載されています。

トピック

※以下本文中〔〕内は訳者による補足です。

Dispensationalism and Continuity(ディスペンセーション主義と連続性)

一部の神学体系については、連続性─非連続性(continuity-discontinuity)という尺度によって分析することができる。この文脈では、「連続性」とは、旧約聖書のある概念が新約聖書でも関係している、もしくは新約の中にも残されているということを意味している*2。一方で「非連続性」とは、旧新約間に見られる変化や断絶を指すものである*3

ディスペンセーション主義は「非連続性」の体系として理解されていることが多い。その主な理由は、この体系においてイスラエルと教会が区別されているためである。ジョン・S・ファインバーグの編集による『Continuity and Discontinuity』は非常に重要であり、役に立つ文献であるが*4、その中ではディスペンセーション主義が非連続性の体系だとされている。

ディスペンセーション主義は、旧新約間にある重要な非連続的要素を強調している。しかし同時に、重要な連続的要素をも強調している。私が本稿で強調したいのは後者の点である。以下に示すのは、ディスペンセーション主義において旧新約間の連続的要素だと主張されているものである。なお、以下の8つの要素はさらに詳細に説明することもできるのだが、ブログであることを考慮し、簡潔な説明を添えた上で列挙していくことに留めたい。

1 ストーリーラインの連続性

ディスペンセーション主義者は、旧新約聖書のストーリーラインの間には強い連続性があるものと信じている。新約は聖書のストーリーラインに詳細な情報を加えてはいるが、旧約で啓示されたストーリーそのものを変化させているわけではない。ディスペンセーション主義者は、旧約における諸契約、諸約束、諸預言といったものがイエスの2つの来臨を通して字義通りに成就することを信じている。〔このストーリーラインには〕特定の存在(イスラエルイスラエルの地)や普遍的存在(諸国民、諸国民の地)に加えて、物理的・霊的実在の全てが包含されている。ディスペンセーション主義者は救い、罪の赦し、新しい心、聖霊の内住といった霊的実在の重要性を認めている。しかしながら、新約の時代において、物理的実在がイエスの到来によって霊的なものとされた、もしくは超越されたとは信じていない。一方、非ディスペンセーション主義の体系では、新約が旧約の内容を超越 transcending変化 transforming移行 transposing霊化 spiritualizingさせたと考えられている場合が多い。繰り返しになるが、ディスペンセーション主義では、旧約から始まったストーリーラインはイエスの2つの来臨によって字義通りに成就すると主張されている。そのストーリー自体が変わることはない。そして、ここにはメシアとその役割、イスラエル、土地、エルサレム、神殿、諸国民などといった多くの実在が含まれているのである。

2 メシアの王国と旧約聖書で約束されていた王国とは一貫したものである

預言書と詩篇の中では、メシアが将来この地球を変容させ、文字通り世界の諸国を統治されるという、メシアの地上的王国について予告されている(詩2;72;110;イザ2;11;25)。ディスペンセーション主義者はこれらの預言がイエスの再臨によって成就されるものと信じている。旧約が将来に実現する地上的王国を約束しているように、新約でも同様な約束が与えられている(マタ19:28;黙19:15)。御国は霊化された、もしくは超越されたわけではない。よって、バプテスマのヨハネやイエスが「天の御国が近づいた」と教えた時(マタ3:2;4:17)、彼らは旧約で預言されていた地上的王国を指していたのである。この考え方は、旧約で約束されていた地上的王国が、現在におけるメシアの天からの支配という霊的な王国に変えられたと主張する一部の非ディスペンセーション主義の体系とは対照的である。

3 イスラエル

旧約聖書イスラエル民族はアブラハム、イサク、ヤコブの人種的子孫によって構成されていた。イスラエル人の中には救われた者も、救われなかった者もいた。それと同様に、新約における73回の「イスラエル」への言及は、すべて民族的イスラエルもしくはイエスを信じる民族的イスラエル(「神のイスラエル」ガラ6:16)を指している。ここにはイスラエルという概念の変化もしくは超越は見られない。新約聖書では、「神の民」という概念がイスラエル人信者と共に異邦人信者も含むものへと拡張されている(エペ2:11–22)。しかしながら、イスラエルという概念自体が異邦人を含むものに拡張されたわけではない。したがって、新約聖書における「イスラエル」という用語は、旧約聖書に見られるイスラエルと同じ意味を持っているのである。これは、イスラエルは異邦人を含むものとして再定義、拡張、超越されたという、一部の非ディスペンセーション主義の体系とは対照的である。

4 イスラエルの地とエルサレム

イスラエルの地とエルサレムは、新約の時代においても重要であり続けている。イエスは終わりの時にユダヤに住む人々に対する指示と、エルサレムが回復されるという希望をお与えになった(マタ24:15–22)。したがって、これらはディスペンセーション主義が連続性を認めているもうひとつの領域であるといえる。

5 主の日

将来イスラエルの地と世界中に衝撃をもたらすことになる主の日 Day of the Lordという概念は、旧約と同様、新約でも教えられている(イザ13;Iテサ5;IIテサ2)。旧約の預言者たちは、主の日は諸国民への裁き、イスラエルの帰還、裁きに続く地上的王国といったことを含むものであると教えていた(イザ24–27章)。このような筋書きは新約でも教えられているものである(マタ24–25章)。

6 メシアによる救いは異邦人信者にも及ぶ

旧約はメシアによって異邦人が神の民になるということを預言している(アモ9:11–12)。そして、これは新約の時代に実現した(使15:14–18)。イエスの到来は、異邦人が約束の契約に入れられ、イスラエル人信者と同様にメシアと関係を持つようになったことを意味している(エペ2:11–3:6参照)。

7 救いは恵みにより信仰による

ディスペンセーション主義者は、全ての時代において救いは恵みのみにより、信仰のみを通してあたえられると主張している(創15:6;ロマ4章)。聖書の啓示の内容は正典を通して増し加えられているが、救いに関しては大きな連続性が見られる。旧約の聖徒も新約の聖徒も、恵みのみにより、信仰のみを通して、イエスの贖いを土台として救われているのである。

8 新約における旧約の引用や言及は、旧約著者による本来の字義的意味と一致したものである

新約聖書には約350の旧約引用がある。中には議論が分かれる場合もあるが、大多数の場合は引用元と文脈的に一致しており、また旧約著者が意図した意味とも一致している。この事実は、旧新約間にあるストーリーラインの連続性を強調するものである。ディスペンセーション主義者たちは、新約における旧約引用について、ある点では見解を異にしている。しかし総合的には、旧約の本来の意味と新約における引用との間には連続性があると考えられている。

以上がディスペンセーション主義において連続性が認められている要素である。一部の批判とは対照的に、ディスペンセーション主義は「非連続性」という概念から出発しているわけではない。また、この体系は聖書に対して無理に非連続性を押し付けているわけでもない。

筆者はディスペンセーション主義において多くの連続性を見出しているため、この体系が全体的に非連続性を強調する体系だとは考えていない。むしろ、ディスペンセーション主義は連続性と非連続性について聖書的バランスを持った、健全な体系であると考えている。今後のブログでは、さらに非連続的要素について説明していくつもりである。

*1:念のため──初期の頃は違いましたが、今の時点では、この立場を徹底して擁護していこうというのは本ブログの趣旨ではございません。

*2:訳注:Vlachは「連続性」の例を次のように説明している。「旧約聖書新約聖書の間にある連続性の例としては、救いが挙げられるだろう。救いは常に恵みのみによるものであり、信仰のみによってもたらされるからである(ロマ4:1–8)。」Vlach, Dispensationalism, 75.

*3:訳注:Vlachは「非連続性」の例を次のように説明している。「たとえば今日における新約聖書の聖徒たちは、モーセの律法が定めているいけにえは要求されていない。」Ibid.

*4:訳注:文献情報は以下の通り。 John S. Feinberg, eds., Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments (Wheaton, IL: Crossway, 1988).